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見えない心


 部屋に沈黙が降りた。ラスティが私を見つめている。私の心を測りかねているのかもしれない。私も、彼の心を読みとれないでいた。


「もう、行くわ」


 これ以上ここにいても、立ち去り難くなるだけだ。ラスティから無理矢理視線を外し、かわりに物の少ない殺風景な彼の部屋を眺めた。壁にも棚にも飾りのひとつもない。壁と屋根のすきまから風が吹き込んで時々音をたてている。彼には似合わない、ラスティにはあの庭のような場所が似合うのだもの。元の静かな暮らしに早く戻してあげないと。

 今度こそ、ゆっくり彼に背を向けた。扉へ向かう一歩を踏み出そうとして。


「……待て」


 呼び止められた。魔術でも使われたみたいに足が止まる。


「その足で戻れば外へ出たと知られてしまう」


 見下ろすと、服の裾にも足にも泥と枯れ草が付いて汚れていた。確かにこれではすぐに見咎められてしまうわ。


「私って考えなしね」

「とうに知っている」


 ぽつりつぶやくと、後ろから無愛想な声が返ってきた。その失礼な物言いが嬉しい。


「湯を作る、そこらに座って待っていろ」


 そこらって、どこ。雑な指示に思わず振り返る。私を見もせず火のない暖炉の方へ歩いて行くラスティの背中を尻目に、ぐるりと部屋を見回した。座れるような場所は、寝台と、部屋の向こう側に置いてある小さな机の脇の丸椅子しかない。その机の下には、身を低く伏せて私をじっと見つめるジーンが陣取っている。

 そっとそちらに足を踏み出そうとした、それだけでジーンはぴくりと耳を動かし、ウウ、と短く低く唸った。黒い瞳が光る。 


「気にするな、お前の中の魔力に怯えているだけだ」


 悲しみが胸底に届くより先にラスティがそう言ってくれたので、落ち込まないでいられた。


「ジーン、怖がらせてごめんなさい」


 声を掛けて、それから寝台の端に腰掛けた。静かな部屋に木の軋む音が小さく鳴る。


「ここに足を」


 木の桶と布を手に戻ってきたラスティは、それを私の足元に置くとすぐに中をお湯で満たした。あたたかな湯気があがる。


「使え、自分で洗えよ」

「ええ」


 服の裾を持ち上げ、泥で汚れた足をお湯につけた。少し熱いのが気持ちいい。汚れを落とそうと、腰を曲げ腕を伸ばした。さっき部屋でぶつけた肩が少し痛いけど大丈夫。


「待て」


 と、またラスティに止められた。その体勢のまま見上げると、ラスティが眉根を寄せ私を見下ろしている。なにかしら。


「その手で触れて平気なのか」

「えっ、あ、そうね、どうかしら……」


 “その手”――もちろん、黒く変わっている指のことだ。この手になってから、まだ自分の体に触れてみてはいない。


「多分大丈夫よ、そっと触れるだけなら物に触れてもなにも起こらなかったもの」

「多分では不安が残る。俺がやろう」

「俺が、って」


 止める間もなかった。ラスティはその場に膝をつくとローブの袖を捲り上げ手を伸ばし、お湯の中で揺れて見える、私の左足の踵に触れた。くすぐったさと驚きで、声が出かけたのを必死に飲み込んだ。

 ぱちゃ、ぱちゃ、と私の足を洗うラスティを見下ろしていると、複雑な感情が巻き起こってきた。恥ずかしさと嬉しさ。時折癒やしの力を感じた。足の傷も治してくれているのね。

 

「あなたの頭を上から見るのは初めて」


 照れ隠しに言うと、ラスティの動きが止まった。止まったのは一瞬で、またすぐ部屋に水の跳ねる音が響く。


「上から見下ろしていれば、俺を家来にでもした気になれるか?」


 また憎まれ口。口元に小さく笑みが浮かんだ。


「家来なんて。あなたは召使いじゃないわ」

「どうかな。お前は命令ばかり」

「もう」


 ふふ、今度は笑い声がもれ、我ながら驚いた。もう笑えているなんて、さっきバルバロスさまに寝台から叩き落とされたときには思ってもいなかった。

 と、手を止めたラスティが、屈んだ姿勢のまま私を見上げてきた。突然まっすぐな視線に射られ動けなくなる。


「そうやって、笑っていてくれイルメルサ」


 視線と同じまっすぐな言葉だった。


「幸福でいてほしい。俺が助けた命なのだから」


 それだけ言って顔を伏せたラスティは、今度は汚れた服の裾を水につけ洗いはじめた。彼の魔力のおかげか、お湯はまだ温かい。細い枯れ草が何本もお湯に浮かび、舟のようにぶつかって揺れた。


 私の幸せを願ってくれている。

 彼の思いは私の心の底まで届き、そこにも熱を送ってくれた。凍えた指先がほんの少し温もる。


 ラスティが濡れた裾をしぼった。それから私の足を桶から取り出して床に置いていた布で包み込み、水滴をそっと拭う。彼の手は優しい。そうしている間にも、足元から彼の魔力が立ち上って私の服を乾かしていくのがわかる。


 なにも言えないでいる私に、ラスティは同じ姿勢のまま言葉を続けた。

 

「お前が雨になるというのなら、俺は地上でそれを待とう。だがそれは今じゃない」


 部屋も、外も静かだった。水音ももうしない。聞こえるのはラスティの声だけ。低く静かでどこか熱を帯びた、こんな声で誰かに語りかけられるのは生まれてはじめてで。

 

「まだずっと先のことだ、イルメルサ」


 まるで愛を語る声みたいだわ。

 思った瞬間、ラスティがゆっくり立ち上がった。彼の赤銅色の目の中に、初めて見るなにかが揺らめいている。

 まさか、彼も私を想ってくれているというの。父に頼まれ、報酬の魔石のためにここにいるのではなく? その気持ちは喜びと恐れを同時に心に生み出した。手の届くところに掴めないものを置かれても、どうしていいのかわからないから。


 ラスティが一歩私に近づく。木の床がぎしりと音をたてた。彼から目が離せない。ラスティの濡れた右手が私の腫れた頬に触れる。触れたところから、癒やしの力が流れ込んできた。彼の魔力が私の肌の表面を伝い、痛みを取り去っていく。


「ラス……」


 名前は最後まで呼べなかった。あまりに彼が近くて。半ば屈むように膝を折ったラスティの、空いた手は私の座る寝台に置かれ、鼻は触れ合いそうなくらいそばにあった。彼の瞳に私が映っているのもはっきりと見える。

 魔術師の纏う薬品の匂いと男の人の匂いが混じって香る。頬に添えられていたはずの彼の右手は、いつの間にか私の肩に乗せられていた。


「ここも痛むんだろう」


 どうしてわかったのか、ラスティは肩にも癒やしの力を送り込んできてくれた。あちこち怪我を治されてあとで見咎められたらと思っても、もう拒否できない。彼の優しさが、彼の私への気持ちのそのものに思えて。それは間違い? わからないわ、私には。


 呼吸を唇に感じるほど近くにラスティがいる。私は息を詰めて、彼が動くのを待った。拒むなんてできない。できるはずがない。心臓がどくどくと音をたてて忙しく鳴っていた。


「触れていいか?」


 掠れた彼のささやきに、少し怖かったけれど黙って小さく一度頷いた。怖い。このあと、自分がどうなってしまうのかわからないから。初めての口付け。私の鼓動、彼に聞こえているのではないかしら。ラスティの顔が近づいてきて、私はゆっくりと目を閉じた。


 唇の触れ合う寸前、ジーンが立ち上がる音がした。爪が床を叩く音。ラスティが離れる気配を感じて目を開けると、後ろを振り返り警戒した様子の彼がいた。


「ラスティ……?」

「庭の木戸が開いた、誰か来たようだ。それを被って隠れていてくれ。声を出すなよ」


 ラスティが後ろの寝台をゆびさし立ち上がる。私が頷くのと同時に部屋を照らしていた明かりが消え、小屋の中が暗闇に沈んだ。一体誰が。

 指示された通り寝台に登り上掛けを被って横になりじっとしていると、静けさを破り、ギイギイと板を鳴らしながら階段を昇ってくる音が外から響いてきた。続けてすぐに、乱暴に扉を叩く音。暴力的な雰囲気に、また別の恐怖で息が止まる。大丈夫よ、ラスティとジーンがいるんだから。


「おい、起きろ、おい」


 聞き覚えのある、険のある声。あの茶色の髪の魔術師の声みたい。ラスティを毛嫌いしている、名前は確か……。


「カシュカか? こんな時間になんだ」


 そう、カシュカ。ラスティは扉越しに応対しているみたい。


「起きていたのか、仕事だ。イルメルサさまが部屋に戻られたんだが闇の魔力の侵食が激しく、随分衰弱しておられるらしい。急ぎ治癒に向かえとエーメさまからのご命令だ」

「お前も行くのか?」


 ラスティの言葉に、一番に返ってきたのは強い舌打ちの音。


「ふたりも必要ないだろう。化け物には化け物が行くのが似合いだ」


 あの魔術師、私のいないところでこんな風に言っていたのね。元から気にくわない男だったけれど、もっと嫌いになった。大嫌い。


「わかった、急ぎ向かおう」

「新入りが顔も見せないとはいい態度だな。こんな気分の悪くなる場所までわざわざ伝えに来てやったのに。それともなにか? 開けられない理由でもあるのか」

「お前には関わりのないことだ」


 今度は二回。ラスティの言葉にかぶせるように、カシュカが扉を叩いた。


「開けろ。だいたいなんでこんな夜更けに起きているんだよ? ひとり離れの小屋など与えられて、死霊術の研究でもしているんじゃないだろうな」


 今度の舌打ちは部屋の中から聞こえてきた。ガタンと閂を外す音に木の軋む音。扉を開けたんだわ。中には入って来ないで。

 どちらの灯したものか、薄い上掛け越しに部屋に明かりがついたのが見えた。


「ふざけた噂を流しているのはお前か」

「どの噂だ? へえ、中も古いんだな。これなら我々の部屋の方が何倍もましだ」

「見ればわかるだろう、大掛かりな実験を行える場所ではない」

「素直に扉を開けていれば――ん? 奥に誰かいるのか」


 人の動く気配がした。靴が床を踏み砂を擦る音が鳴る。 入ってきた。背筋がひやりとして、上掛けの下の体が強ばる。


「急ぎの命令なのだろう、準備がある、納得したなら出ていけ」

「は、なるほど女か。お前みたいな化け物に体を許す女がいるとはな。買ったのか? まさかフラ……」

「消えろ」


 乱暴に扉を閉める音がして、同時に扉の向こう側でジーンのうなり声もはじまった。あの子、いつの間にか外に出ていたみたい。


「ジーン! 追い払え!」


 ラスティの命じる声に、ジーンはすぐに激しく吠えはじめた。


「うわ、くそっ化け物!」


 化け物、のあとはよく聞き取れない。カシュカの声と気配は、ジーンの声と一緒に遠ざかっていった。


「化け物しか言えないのか」


 不満をこぼす彼の声を聞きながら、そっと上掛けから顔を出した。息が苦しかったから。部屋の中は明るい。さっき光を浮かべたのはラスティだったのね。

 その光の下、当のラスティは不機嫌も露わな表情をしていた。眉根を寄せ目を細め、床の桶を手に取ると私を見もせず表に出て行く。あ、水を撒く音。


 再び中に入ってきたラスティと、ようやく視線が合う。途端に、彼の目の中にあった険しさが姿を潜めた。気まずそうな顔を見せ、彼は私からふいと視線をそらす。


「聞こえていただろう、エーメが俺をご指名だ」

「え、ええ」


 さっき口付け直前までいったことを思い出し、ついこちらの返事もぎこちなくなった。


「起きられるか。ジーンがうるさい蝿を遠ざけている間に向こうへ戻ろう」


 やっぱり私を見ないまま、ラスティはまた桶を片手に暖炉の方へ向かった。暖炉脇の壁にかけてあった紺色のマントを桶と取り替え戻ってくると、なにも言わず上体を起こした私をそれでくるんだ。フードも被せられる。彼のマントは大きくて、私の顔をすっかり隠してくれた。


「抱いて行く。手を首に回してくれ、指は気にするな」


 有無を言わせぬ調子に言葉も挟めず、黙ってそれに従った。こんなに近くにいるのに、彼と目は合わないまま。さっき見えたかに思えた心は、また見えなくなってしまった。

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