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契約


 両手を上掛けの上に乗せたまま怯える心を抑え、バルバロスさまを精一杯睨んだ。無理よ。バルバロスさまを傷つけるなんて。例え左手を失おうとも私を逃がしはしないでしょう。エーメもいるのよ、手を触れないと相手を傷つけられない私が、魔術師長とガウディール領主を相手になにができるというのか。

 けれどこのまま黙って言いなりになると思われるのも嫌だった。悔しくて、思わず上掛けを強く握る。すぐに手の中の布が形を変えた。と、バルバロスさまが私の顎から手を離し、一歩後ろに下がった。


 バルバロスさまは私の顔と私の手元を見比べ、引きつった笑みをみせる。


「それが答えか。私に刃向かおうというのか?」

「そのつもりなら、体に触れているわ」


 ぞんざいな口利きをすると、さっとバルバロスさまの顔色が変わった。鼻に皺を寄せ、汚いものを見る目で私を見下ろしている。


「生意気な。大人しく従っておればよいものを」


 言われ、胸の奥でなにかが弾けた。唇がわなわなと震える。喋りたいのに怒りが強すぎてうまく口がきけない、こんなのははじめて。

 生まれた感情に操られているみたいだった。上掛けを掴んでいた手を握ったまま振り上げる。手の中にぐずぐずと残っていた土に似たものを、バルバロスさまの顔目掛け投げつけた。お前も汚れればいい。けれどそれは後一歩届かない。


 エーメが瞬時に作り出した防御の魔術が、バルバロスさまと私の間に見えない壁を作り出したからだ。跳ね返された土はばらばらと、上掛けの上に落ちてきて薄く白い煙をあげた。


「貴様」


 バルバロスさまの低い唸りまじりの怒りの声に強い恐怖を感じながらも、ありったけの勇気をかき集めて喉から声を絞り出した。


「っし、し、従ってきたじゃない、ずっと、ずっと黙って、こっ、こんな手にされても逃げずにここにいるのにこれ以上、どうしろって言うのよ!」

「なにが黙ってだ!」

「バルバロスさま!」


 あっ、と思った時には頬を打たれていた。がつ、という鈍い音を聞きながら視界が傾ぐ。


「バルバロスさま危のうございます!」


 上掛けの上に倒れた私は直後、髪を掴まれ引き起こされた。痛い。思わずバルバロスさまの腕を振り払おうと手をあげたけれど、その手は簡単に背中側にまわされてしまった。バルバロスさまの強い魔力が私の肌を伝う。握られた手首が熱に焼け痛み、無理に曲げられた関節が軋み悲鳴をあげた。


 どうして私にさわれるの。

 魔力の鎧で守っているのだわ、あの可哀想な蛇や鷹に触れる時の魔術師たちと同じ。


「薄気味の悪い娘、お前のその父親と同じ目が私を苛立たせるのだ!」


 言葉とともに寝台の上から引きずり出され、床の上に叩きつけるように落とされた。頭をぶつけるのは避けられたけれど、かわりに肩を床で強打した。起き上がれない。うめき声が勝手に口から漏れる。手をついている床が黒く変色していった。


「それ以上は」


 エーメが取りなすように、領主におそるおそる声をかけている。バルバロスさまの靴がすぐそばに見えた。張られた頬が、時間とともに熱を持ってじんじんと痛み出してくる。こんな、床に這いつくばって足の先を見せられて。怒りと屈辱が恐れを奥に押しやった。


「……でやる」

「なんだと?」


 不愉快だと言われたばかりの水色の目で、バルバロスさまを睨みあげた。


「死んでやる! どうせ死ぬのよ、なら今すぐ舌をかみ切って死んでやるっ!」

「イルメルサさま、おっ、お静まりください」

「黙りなさいエーメ! お父さまは必ず私の体を取り返しに来る、婚姻前だもの王も賛同なさるほかないわ!」


 叫んで、手を伸ばしバルバロスさまの靴に触れようとした。先の細い刺繍の施された靴。私は裸足でいるっていうのに。バルバロスさまが素早く避けたので、私の手は空をきった。


「こやつ!」


 顔を怒りで赤く染めたバルバロスさまが、剣の握りに指をかける。チリ、と小さな金属音が鳴った。そうよ、それで私を斬ればいい。怖くない。震えているのは寒いからよ。今まで抑えていた憎しみを露わにした目を、バルバロスさまにじっと向けた。

 これはそう、私の賭けだ。


「バルバロスさま! なりません、ご冷静に。死んだ肉体の傷は癒せません、刀傷の残った死体など残れば難事です、皮膚の変色も残るとなれば更に追及されましょう」


 あと少しだったのに、青ざめた顔のエーメがバルバロスさまに近づき進言した。バルバロスさまの表情から、すぐに彼が冷静になったのがわかる。灰色の目の中に吹き荒れていた怒りの嵐が、消えた。


「そうだな。今の状態は我々双方にとって得策とはいえまい」


 ため息混じりに言ったバルバロスさまは、剣の握りから手を離すと魔力を纏い、私の二の腕を掴んで引き上げた。


「い、たっ……」


 さっきぶつけた肩に力が加わり、痛みに顔を歪めても加減はされなかった。寝台の方に軽く突き飛ばされ、端に座らされる。


「今しばらく生きていてもらわねばならん。城前の騎士どもにも余計なことを話さずにな。望みはあるか」

「望み?」

「瑣事に煩わされたくはない。沈黙を守りガウディールにその身を捧げると誓うのならば、その願い叶えてやろうではないか」


 根負けした、といった風なバルバロスさまの言葉に、勝った、と思った。賭けに勝ったわ、こんな言葉を引き出せたのだもの。


「妹を妻に望まないと誓って。シファードとは交戦しないとも」

「願いはひとつだ、姫君。もっとも、後者は叶えてはやれぬがな」


 バルバロスさまは片眉を持ち上げ皮肉げな笑みを浮かべる。


「シファードを攻めるつもりがあるのね」

「ない。そなたの働き次第だ。裏切られれば気持ちも変わろうがな。口約束をしようというのではない、魔力による拘束力のある契約を交わしてやろうというのだ。ガウディール領主として特定の領地を攻めぬなど、誓えるはずもないであろう」

「契約……?」

「知らぬのか。無知な」


 ぽかんと言葉を繰り返した私をあからさまな侮蔑の視線で見下ろしたバルバロスさまは、顎を動かすと壁際の書き物机を示した。床から壁に這う彼の影も揺れる。


「机に羊皮紙は残っておるか? シファードに度々手紙を書いておっただろう」

「ええ、あります」

「エーメ」


 名を呼ばれたエーメが、すぐに動く。私の机から羊皮紙を一枚取り出した。しばらく天井を見上げなにか考えていた男は、卓上のインク壺を引き寄せながら座り羽ペンを取るとなにかを書き付けはじめた。

 ペンを走らせる音が止まっても、エーメはすぐには立ち上がらず紙に手をかざしている。インクを乾かしているのね、お父さまがやっているのを何度も見た。


 少ししてゆっくりと立ち上がったエーメが、満足そうな顔をしながらバルバロスさまに羊皮紙を手渡すのを、私は黙って見ていた。


「読めるか? その手では触れるな」


 羊皮紙に視線を落としたバルバロスさまは、今度はそれを裏返し文字を私に見せてきた。もう使われていない古い言葉で綴られている。


「読めるわ」


 シファードのイルメルサがガウディールの魔術研究についての一切を領外に口外せぬこと。ガウディールの領主がシファードのアリアルスを娶らぬこと。このふたつは等価で結ばれそれが破られることはない、と書かれている。


「これが、契約ですか?」


 身を捧げる、の部分がない。書き忘れかしら。エーメが? バルバロスさまがなにも言われないのもおかしい。疑問に感じたけれど、口にするのはやめた。私が損になるわけではないもの。


「そうだ。だがまだ完了しておらぬ。ここに互いの血を落とす。仲立ちの魔術師の力により契約は成立する。高位の魔術師にしか作成を許されておらぬ魔術契約書だ」

「破るとどうなるのですか、もし私が口を滑らせたら」


 首が飛ぶとか、心臓が止まるとか。


「心配せずとも死ぬわけではない。血を落とすために傷つけた部位が腐り落ちるだけだ、通常は利き手の指を使うがその手だ、かまわぬ、足の指でも使っておけ」


 指が落ちる危険。それだけでアリアルスが守れるのならたやすいことだ。これまでとなにもかわらない、黙って従っていればいいのだもの。ああ、でももしもバルバロスさまも同じく、指一本程度と考えていたら――。

 お怒りになるだろうかと思いながらも尋ねると、バルバロスさまは鼻で笑った。くだらぬ、といいたげな顔をして。


「今となっては、シファードの末の姫君には指を失ってまで得るほどの価値はない」 

「勝手に証文を書き換えられたり、契約を破棄されはしないと証明できますか?」


 アリアルスを娶らない、しっかりとそう書かれたものを目の前にぶら下げられ、心臓が興奮で高鳴りはじめた。あれが欲しい。


「文字を書き足すことも燃やすこともできぬ。魔力により守られている。破棄は可能だが簡単ではない」

「簡単ではなくても、できるのね」


 呟くと、バルバロスさまが苛々と何度か頷いて、エーメに視線を向けた。前に進み出たエーメが、媚びるような笑みを浮かべ口を開いた。


「ご説明致します。契約が完了いたしますと、これは二通に分かれるのです。破棄するには二通を揃え、まず国王陛下の許可を得ねばなりません。さらに術を行える者も、王城におります宮廷魔術師のみ」


 確かに、それなら可能だけれどそう簡単でもないわね。本当なら、だけれど。でも、ならさっき疑問に思った“魔術研究に身を捧げる”の文言がないのも不思議ではないわ、王がご覧になるのならそんな不穏な文章は残せないもの。宮廷魔術師にも研究に興味を持たれてしまう。


 あの洞窟で、魔石について他言するなと念押ししてきたときのラスティをふと思い出した。と、急に体の芯が冷え込みはじめる。寒い。胸の奥で小さく燃えていた、ラスティの魔力の気配が消えた。皿の油が尽きるみたいになくなったんだわ。


「バルバロスさま、イルメルサさまのお顔色が。長く話し過ぎたかもしれません、これでは契約が、まずは癒やし手を……」

「契約を優先しろ」

「イルメルサさま、失礼いたします」


 エーメの行動は早かった。素早く私の足元に屈み込んだと思った時には、左足の指の先に小さな痛みが走った。下を覗くと、エーメが私の左足の小指に触れていた。側面に小さな傷ができている。小刀も持っていないのに傷が。


「バルバロスさま、書状を」


 手を伸ばしバルバロスさまから契約書を受け取りながら、エーメはぎゅ、と私の指を強く握り血を絞った。ぷっくりと赤い血がふくらんで、羊皮紙の上に一滴落ちる。


「見ておけイルメルサ、紛れもなく私の血による契約だ」


 バルバロスさまの声につられ顔を上げると、私の目の前でバルバロスさまが剣を少し抜き、右手の小指の先を刃に当てたところだった。

 自分が傷つくわけでもないのに、ひや、と身が竦む。バルバロスさまの指先に血がひとすじ流れた。赤いのね。私と同じ。気力の失われた心でぼんやりと思う。


 エーメの差し出す羊皮紙の上、まだ水滴のように乗っているだけの私の血の横に、バルバロスさまのものが落とされた。


「ここに契約の締結を宣言いたします」


 エーメの声とともに、羊皮紙の文字が赤く光り出した。羊皮紙に乗っていた血液が、乾いた土に染み込む水のように吸い込まれていく。それと一緒に、私の中からもなにかが吸い出され奪われていくのがわかった。恐らく、契約者の魔力を吸うのだ。

 

 今私の中に残っているのは、棘のように体に刺さる黒い力だけ。それが少し薄れた気がする。


「これは、珍しい。この契約では血は赤の色を失わぬのが普通ですのに」

「どれ……おお、夜の闇ように黒い。これで契約は無事完了できているのか?」

「二通に分かれたのがなによりの証でございましょう。こちらは通常通り、私どもで保管しておけばよろしいでしょうか?」


 頭が重い、横になりたい。そんな中交わされていた会話に引っかかりを覚え、声をあげた。


「私のはお寄越し。勝手に二通持ち出され知らぬ間になにかされてはたまらない」

「疑り深い女だ。いい、渡しておけ」

「ですが」

「かまわぬと言っている。なにができるというのだこの体で。念のためシファードの騎士どもは常に見張っておけ、ここに忍び入ろうとするやもしれぬからな」

 

 バルバロスさまはそう言うと、つまらなそうに私を一度見下ろし、踵を返して部屋の出口を向いた。私の膝の上に羊皮紙の一枚――本当に二枚になっている――をそっと置いたエーメがその背中に向け、腕を曲げ頭を少し下げ、礼を取っていた。

 

「あとは任せる。明日朝までには人前に出せる体に戻しておけ」

「かしこまりました」

「死なせるな」


 バルバロスさまが出て行くのを横目に、膝の上の契約書に目を落とした。本当だ、私の血の方だけ真っ黒に変色している。体が重い。このまま床まで沈んで落ちてしまいそう。


「しばらくお休みください、私も一旦塔へ戻り契約書を保管庫に入れてまいります。代わりの癒やし手をすぐに手配いたしますのでご安心を」


 返事をするのも怠く、だまって何度か頷いて座ったまま目を閉じた。なにをする気力もない。もうなにも考えたくない、手も見たくない。さっきぶたれた頬も、ぶつけた肩も傷をつけた指も痛いまま。このまま上掛けに潜り込んで眠りたい。


 けれど。


 バルバロスさまを追い、私をひとり残して遠ざかっていく足音を聞きながら、そっと腕を上げてラスティの魔石を胸に押し付けた。じんわりと、失われていた魔力が体に流れ込んでくる。


 力を貸して、ラスティ。


 時間がない、少しでいいわ。立ち上がる気力が戻ったのを感じてそっと目を開けた。静かだ、誰もいない。黒い指で恐る恐る羊皮紙をつついてみる。大丈夫、崩れない。持てる。羊皮紙を巻き、胸の辺りに差し込んでゆっくりと立ち上がった。


 この契約書は、誰かに託さなければならない。私が持っていればきっと奪われてしまう。

 今しかない、ラスティに渡すのよ。



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