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うちのもの


 逃げなければ。こんな――爪も手のひらも全て炭でも塗りつけたように黒い、こんな手をここの魔術師たちに見られたら、きっとなにか良くないことが起きる。

 寝台に手をついて床に降りようとして、体が酷く怠いのを思い出させられた。私もフラニードのように部屋を飛び出して、駆けて駆けて。望むところまで風を連れ、走って行きたいのに。

 

 下唇を噛み、ぐっと手に力を入れると、手のひらの下で寝具が形を変えるのがわかった。布が土にでも変わったみたい。恐ろしい、ずっとこのままだったら。どうしたらいいの。目に涙が滲んだ。

 ラスティの顔が浮かぶ。彼に助けを求めたら……その思いをすぐにかき消した。ラスティの立場が危うくなるわ。フラニードが人を呼びに行ったのよ、私が部屋にいなければ城中を探すだろう、すぐに見つかってしまう。彼がシファードと通じていると知られれば、バルバロスさまは決してお許しにならない。


 次に思い浮かべたのは、城の前にいるというロインの顔。それからお父さま。でもどこにもたどり着けるはずがなかった。立ち上がるのもやっとなのに。

 床に足をつけたものの、一歩踏み出しただけで膝から力が抜けた。


「あっ」

 

 がく、と床に膝をつく。思わず手をついた床板、そこも黒くぐずぐずと黒く姿を変えた。私の触れた物が壊れていく。怖い。涙がこぼれ落ちた。どうしていいのかわからず、しばらく泣きながら冷えた床に座り込んでいた。

 ラスティの魔石を使うことを思いついたのは、表から石を踏んで歩く複数の靴音が聞こえてきた頃。急いで服の下に隠した魔石を取り出そうとして、手が止まる。


 この手で握れば、魔石も崩れてしまうかもしれない。もし中の魔力が今溢れ出せば、ラスティが私と親しいと知られてしまうかも。でも。


 下の扉の開く音がした。握るのは諦め、きれいなままの腕を胸に強く押し当てた。服の下で、魔石が発動する。ラスティの魔力が体に染み込んでくる。予想はしていたけれど、握るより遅い。

 焦る気持ちは無視し、集中して癒やしの力に変え、指先へと巡らせる。早く、ここまで人が来る前に。

 視界に入り込む手は黒いまま。でも痺れは軽くなってきた。体の中心に小さな明かりがともったみたいに力がわいてくる。彼の魔力をもっと……。


「おい、ここはイルメルサさまの寝所だろ、俺たちなんかが入って本当にいいのか」


 こそこそと話す声が耳に届く。見回りの兵士か騎士だろうか。フラニードは外で行き当たった者をここへ向かわせたのだわ。


「仕方がないだろう、ご侍女のあの取り乱し方はただ事ではなかった」

「けどよ、イルメルサさまが魔術って。有り得ない。こんな夜中に姫君の寝所へ入ったら罰せられるんじゃないか」

「幻術を扱う賊が侵入したとも限らない、ご無事を確認せねばならんだろう」


 どこか腰の引けた声の者と、責務を果たそうとする者。なにも知らない者たち。この魔力の事を知って無事で済むとは思えない、早く帰さなければ。

 ぐ、と萎えた脚に力を入れて立ち上がる。


「誰です、こんな夜更けに」

「こ、これはイルメルサさま……ほら、ご無事だ……失礼いたしました、そこでフラニードさんが……なんて言やいいんだよ……」


 こそこそと囁く声まで聞き取りながら、ふらつく足でなんとか寝台までたどり着いた。くしゃくしゃの上掛けの間に入り込んで、引き上げる。上掛けをそっと摘まむ手の甲から先はまだ黒いまま。


「フラニードなら寝ぼけたのでしょう、ここは何事もありません、出ておいき」


 お願い、これで引いて。

 祈りながら言う。

 

「はいっ。夜分に、失礼をいたしました。では……ほら、行こうぜ」

「何者かに脅されておられるのかもしれん。イルメルサさま、ひとめお目にかかりたく存じます」


 引かない、優秀だけれど今は困る。近づく気配を押しとどめたくて、大きく声を出した。


「なりません! ここには今私ひとり、どうしても踏み入るというのなら侍女を連れ戻しておいで」

「そのご侍女の衣服は一部破れ、肌着が露わになっておりました。一体なにごとが?」

「知りません、あれの騒ぐ声で目を覚ましたのよ。大方寝ぼけて蝋燭の火でも燃え移らせたのではないの」

「布の焼けた臭いはいたしませんが――万が一にも残り火があっては危険です、やはり室内を確認させていただきたい」


 なんてしつこいの。身を起こしているだけで辛いのに。不安から苛々が募る。同時に指先の痺れが強くなり……そこで初めて思い至った。これは私の心の動きに反応している。

 ならば落ち着いて、心を平静に保たなければ。ふう、とため息をひとつついて、まだ黒いところの多く残る手をしっかりと上掛けの下に隠した。寝具の変色した部分も隠す。


「……私を見ることは許しません。部屋の中だけ好きにおあらためなさい」

「は」


 そうは言ったものの、心臓はどくどくと早打ちしている。色を変えた床は隠せなかった。この男はそれを見咎めるだろう、誤魔化せるだろうか。

 その時だった。新たに、外から幾人かの足音と声が聞こえた気がした。


「お待ち」


 室内に入り込んできていた伸びた影が、私の言葉に動きを止めた。


「誰か来たようだわ、先に見ておいで」

「しかし」

「言うことをおきき、もし来たのが魔術師ならお前たちに用はない、彼らに任せお下がり」


 そこで言葉を切って一瞬だけ逡巡する。迷ったけれどこう付け足した。


「私の部屋までは来ていないと、忘れず伝えるのよ」


 そう言った時、下の扉が開く気配が再びした。どかどかと慌ただしい足音がする。


「これは……バルバロスさま、エーメさま!」


 しきりに戻りたがっていたほうの男の狼狽した声に、私も同じくらい驚いた。バルバロスさまとエーメ。


「お前たちなにをしている」

「夜回り中ご侍女に助けを求められ、イルメルサさまの御身に危険が及ばれたのではと駆けつけました」


 バルバロスさまの鋭い声に答えたのは、賢いほうの男。


「――ですが、イルメルサさまに入室を強く拒まれまして……未だお目にかかれておりません」

「そうか、あとは引き受けた。下がれ」

「しかし」

「ザパック、行こう」


 まだ渋る男を、もうひとりが強く諫めるように呼んだ。そう、行って。もう行って。私も心で強く願う。


「……失礼いたします」


 だから、そう聞こえた時には心底ほっとした。こんな時なのに体から力が抜ける。ほっと息をつく間もなく、大きな体が入り口に立った。背後に浮かぶ魔力の光に照らされ、濃い影が伸びる。バルバロスさま。

 

 白い夜着の上に毛皮を羽織っただけのお姿だったけれど、腰にはしっかりと剣が装備されていた。すこし乱れた灰色の髪。鋭い一瞥をこちらに投げ、すぐに後ろに視線を向けている。


「生きておるわ。エーメ、確かめろ」

「はい」


 すぐにエーメが姿を見せた。こちらは普段と同じ、魔術師のローブ姿。どこか緊張した面持ち。私が恐ろしいのかもしれない。


「なにを確かめるというのエーメ?」


 口を開いて静かに言うと、ゆっくりと近づいてきていたエーメの体がびくりと震えた。まるで、私が口をきけるのを忘れていたみたいな顔。


「手を見せてみろ」


 足を止めたエーメに代わり質問に答えたのはバルバロスさまだった。入り口の枠に背をもたせかけ腕を組み、目を細め私を見ている。


「なんて不躾な」

「早くしろ。私は気が短い」


 ようく知っているわ、そんなこと。

 口を閉じそっと上掛けから両手を抜いて、手のひらを上向けて差し出した。

 黒に侵されている範囲は、手のひら半分のあたりから指先までに減っていた。けれど充分異質で、その恐ろしさと醜さにまた心臓が早く打ち始める。


「おお、まさか」

「これは一体」


 ふたりの、恐れの混じる感嘆の声に顔を上げると、腕組みを解き部屋に一歩足を踏み入れたバルバロスさまの姿が見えた。そのバルバロスさまが何故か腰の剣を抜いたので、小さな悲鳴をあげた。腕を斬り落とされる。


「いや」


 身を捩って背を向け、手を胸元に握り込んで隠した。その手が服の下の硬い石を見つける。ラスティ助けて、ラスティ。指先がびりびりと痺れた。この手では触れられない。


「勘違いするでない。おとなしくしておれば傷つけはせぬわ」


 傷つけない? その言葉に、強く握っていた拳を緩めた。


「私のこの手は大切ですか」


 震える声で聞くと、すぐ近くでくく、とバルバロスさまの笑い声がした。笑っておられる。けれどまだ剣を鞘におさめる音は聞こえていない。


「無論。ただし」


 ひや、と。冷たいものが、後ろから私の耳から顎先に添うようにあてられた。それが切っ先だと気が付いて、身が強張る。


「得た力で私や息子に手出しをしてみろ、シファードの城は炎に包まれるだろう」


 なんですって。脅しの言葉に顔をあげると、切っ先も付いてきた。


「私やガイルの身になにかあれば、我が息子たちは即日シファードに攻め入るだろう。姉ジョルジェットにもそう伝えてある」


 バルバロスさまの姉、アイバン辺境伯夫人。広大な北方の国境を守護する辺境伯に恨まれれば、シファードなど一溜まりもない。ぼんやりどこかで考えていたことをはっきり言葉で叩きつけられ、冷や水を浴びせられた気持ちになった。


「ゆめゆめ忘れるな。自害も許さぬ」


 頷くと同時に剣は離れていった。鞘におさめる音もする。


「もう一度手を見せろ。そこの床はお前がやったのか」


 ゆっくり、捻っていた体を元に戻しながらまた黙って頷いた。胸の前で握っていた手をひらく。さっきの痺れでまた黒い範囲がひろがったのでは、と心配していたけれどそれはなかった。


「フラニードは手を伸ばされただけで服が燃えたと言っておったがまことか」

「いいえ。私があれの服を掴みましたところ、たちどころに形をかえたのです。燃えたのではありません」


 黒く染まったままの指先に視線を落とし答えた。そう、フラニードはバルバロスさまのところへ駆け込んだのね。こんな夜更けに止められもせず目通りがかなうなんて、どれほど使い慣れた道だったのか。


「やってみせてみろ。エーメ、なにか渡せ」

「は、はい」


 掴んだ、という話をした時、すぐにふたりが私の手の届かない位置まで後退ったのはわかっていた。父ほど年の離れた長身のエーメが恐る恐る、どこかから取り出した手巾を手に近づいてくるのが滑稽だ。

 手首をつついてやったら飛び上がって叫ぶかもしれないわ。離れた場所から差し出された布を一瞥し、ふいと顔を逸らした。


「……見世物ではありません」

「城前の騎士をここに引きずって来させることもできるぞ、騎士の顔に触れるのとどちらを選ぶ」


 ロインを。卑怯な。

 胸にかっと怒りの炎があがる。


「うちのものに手を出さないで!」


 叫んで手を伸ばし、手巾を掴み取……ろうとした。


「おお!」

「うおっ」


 掴む間もない。手が触れただけで、それはボロボロと崩れてしまった。エーメがおののきとびしさり、バルバロスさまの肩に背中をぶつけている。


「申し訳ございません!」

「構わぬ、それより見よ、あれを」


 エーメの肩に手を置いたバルバロスさまが、私の方を見て囁く声が聞こえた。珍しく男の頬が強ばっている。なにを見よと?

 恐ろしかったけれど、ぐっとこらえて自分の手を見た。


「あ……!」


 また、両手首まで黒く変わっていた。どうして。せっかくラスティの魔力で治したのに。彼の力を無駄にしてしまった。情けなさに目に涙が滲む。


「は、は! “うちのもの”とは。婚約式を済ませた身で未だそのような心持ちでおるというか」

「それは」


 失言をした。なにも言えない、言葉に詰まる。と、手元に影が落ちた。目の前にバルバロスさまが。その大きな手が伸びてきて、躊躇いなく私の顎をつかんだ。強い力で、無理やり顔を上向かせられ視線を合わされた。


「バルバロスさま! 危のうございます!」

「私に触れてみるか? シファードの姫」


 戦場に立ち、勝ち続けてきた者の顔が目の前にあった。男の灰色の目に、怯えた顔をした私が映っている。

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