魔力なしの価値
フラニードと他愛もない会話をぽつぽつ交わしながら、半時ほどそこに座っていただろうか。ふいにあたりが騒がしくなった。複数の足音に、男たちの潜めた声が近づいてくる。
「こちらにおいででしたか」
私の座る椅子の真向かい、奥の暗い通路のひとつから、魔術師を何人か従えたモルゴーが闇から浮かび上がるようにその姿を見せた。顎髭が白く目立つ。
「モルゴー。部屋は見終わって?」
彼の後ろから現れた魔術師たちの中に、ラスティの姿はなかった。
「問題はございません。今夜からこれまで通りお過ごしいただけます。と申しましてもあと三週間ほどでございますな。今はどのようなお気持ちで?」
「え?」
突然変わった話題に頭がついていかない。ぽかんとした私に、ゆっくりと近づくモルゴーが、目を細め笑ってみせた。
「御婚礼の日が近うございます」
「ああ!」
そうだった、私、ここに嫁ぎに来たというのにすっかり忘れていた。だって誰もなにも言わないのだもの。
「婚約式が印象深くて、すっかり済ませた気持ちでいたわ」
「奥方さまとなれば、ひとりでお過ごしになることも少なくなりましょうな」
そうかしら。浮かんだ言葉は飲み込んだ。なにも変わらないのではないかしら。バルバロスさまが、私をそばに置いておくと思えない。
そう言うわけにもいかず、黙って小さく笑う。モルゴーもそれ以上なにも言わなかった。
「晩の食事も間もなくでございましょう。お許しいただければ広間までご一緒させていただきたく。ひとつ、ふたつ、お尋ねしたいことがございますれば」
「尋ねたい?」
小さく繰り返しながら立ち上がり、距離を縮めてきたモルゴーに手の平を向け足を止めるよう伝える。そんな私に気づいているかどうなのか、モルゴーは薄い笑みを浮かべたまま立ち止まって目を細め、私の体に視線を走らせた。顔、からだ、そしてまた顔を。じろじろと不躾で不快なもの。
「人死にを目の当たりにされたばかりな上、こうして屋外に長くおられたのに、随分と顔色がおよろしい」
ひとしきり私を眺めたあと、モルゴーが言った。ふいに手渡された言葉に、胃の中に石を落とし込まれたような気分になった。
「魔物の現れた庭の方へ駆けて行かれた、と兵士より伝え聞いております」
それがどうしたというのだろう。向けられる視線は鋭く、嘘をつけばすぐに暴かれるのだ、と思わされた。
「走ったかしら……よく覚えていないわ。犬が気がかりで……」
「その理由はもう伺っております――お体にお変わりは?」
体。目の前の魔術師はそう言ったけれど、私を気遣っているようには思えなかった。
「ご気分がお悪くは? 気が遠くなられたり、悪心や頭痛は」
魔術師らしい熱心さで詰め寄られ、たまらず眉をしかめた。モルゴーはまだ少し近づいて来ている。
「お前のお喋りで頭痛がする」
「おお、これは失礼を。庭に現れたのは大変珍しく恐ろしい魔物でございましたもので、御身になにか……」
「白々しい。素直に研究対象として興味があるとお言い」
「まさか、そのような」
言ってモルゴーは私に近づけていた上体をのけ反らせ笑った。なんだか腹立たしくて、モルゴーをひと睨みしてから背を向ける。
「残念ながらなにも変わりはないわ。さあ、早く広間へ連れて行って。温かい葡萄酒が飲みたいの」
そう言って、中庭から広間へ通じる通路の方へ足を進めようとした時だった。背後でまた、く、とモルゴーの低く笑う声がした。不気味な声で、思わず振り返る。
「“残念ながら”……と?」
小さく私の言葉を繰り返したモルゴーが、片方の口角を引き上げる笑みを私に向けた。その目の奥の光の冷たさに心が冷える。寒いのに、背中に汗が滲んだ。なにかしら私、なにか間違いを犯したのでは。
「なに」
「いいえ。残念だなどと。何事もなく、まことにようございました」
私の足元に視線を落としたモルゴーが、ゆっくりと動き始める。誰からも触れられない距離を保ちながら、私もそれに倣った。
中庭から城の通路に入ると寒さは少しましになった。人が死んだからだろう、死霊や魔物が入り込まないよう、今夜はあちこち火が多く灯されている。
「そういえばモルゴー、あの魔術師はどうしている?」
「さて。どの魔術師でございましょう」
私たちが歩くと、揺れる影が壁を滑るように動いてついて来る。黙ってそれを見て歩いても良かったのだけれど、ラスティがどうしているか知りたくて口を開いてしまった。いいわよね、別に不自然ではないはずよ。なにも聞かない方が薄情だと思われるかもしれないくらい。
「庭にもうひとりいた、あの犬の持ち主よ」
「魔術師ラスティでございますか、かの者は魔力の濾過と浄化を行っておるはずにございます」
てっきり離れにいる、とでも言われると思ったのに。予想していなかった答えが返ってきて、心臓がどくりと一度跳ねた。
「魔力の“ろか”、とはなんです? 初めて聞くわ」
「そうでございましょうな。滅多に行う術ではございません。異質なる魔力に強く曝された時、人は自身の魔力に“まじり”が生じてしまう場合がございます」
「まじり……」
つぶやくと、モルゴーが一度深く頷いた。
「我々魔術師にとっては、術者としての命運を左右する大事。しかもあの者が対峙したのは闇の魔力にございますれば、万が一を考え。その技術が塔にございまして」
ぺらぺらと、よくわからない魔術の技術について語り出したモルゴーをそのままに、私の心はあの庭での時に舞い戻っていた。
“まじり”なんて、混ざりようがないわ。ラスティは自分の魔力であの異質な魔力を押し流していたもの。私の中のものだって、ジーンのだってきっとそう。ラスティの魔力が守ってくれた。
そう思うと、心が少し落ち着いた。けれど。
「闇の魔力……と言ったかしら。そんなもの、教典の中に書かれているだけなのではなかったの?」
「これは、いやはや失言を。我々がそう呼んでおるだけにございます。この地ではごくまれに、地から湧くようにあのような魔力を纏った魔物が現れるのでございます……なんともそれ以外名付けようのない、不可思議な魔力だったとは思われませぬか」
「そうね、確かに知らない魔力だった。とても冷たくて恐ろしくて」
壁を越え漏れ出してきていた魔力と、死んだ男の顔を思い出して体が一度震えた。毛皮の下で自分を抱きしめるように腕を回していると、モルゴーの皺だらけの手が伸びてくる。
「お寒いので?」
「おやめ。なにも必要ない」
首を振りながら言うと、モルゴーはすぐに手を止めた。
「死んでいた魔術師の顔を思い出しただけよ」
「ご覧になられましたか。あれは己の力を過信し魔物に手を触れたそうにございます。ひとたびあれと深く混じり合い、おのが魔力を見失えば、死、以外救われる道はございません」
では、ラスティがあの魔術師を殺したと言っていたのは本当なのね。恐ろしい魔力を持った熊の魔物。ガウディールの魔術師たちがそれを作り出しているのに違いない。一体なんのために……。
「おお、そうだイルメルサさま、お伝えせねばならぬことが今ひとつございました」
広間が近くなってきた。大勢の人の気配がする。どこか押さえ気味のお喋りの声、食べ物のにおい。
「部屋にはお戻りいただけますが、庭へはしばらくの間立ち入りを禁ずることになりまして」
「え?」
庭、私が自由に歩ける数少ない場所が。やっと春の気配を見せはじめていたのに。
「薔薇の盛りまでには諸々済ませられるよう努力いたします」
薔薇の盛りの頃なんて、もう婚礼の儀も済んだ頃じゃない。それまであの棟に閉じこもっていろというの?
「仕方ないわ……人が亡くなるほどの騒ぎがあったのだから……」
不満は山ほど浮かんできたけれど、言ったところでなにも変わりはしないだろう。ぐっと気持ちを飲み込んで、モルゴーに話すかわりに後ろのフラニードを振り返って見た。
「フラニード」
彼女は、モルゴーについてきていた魔術師たちの間で、彼らと笑みや視線を交わしあっていたようだった。急に振り返った私に驚いた顔をして、少し気まずそうに顔を傾げ笑う。
「聞いていて? 庭に入れなくなるのですって。お願いした話、早くね」
「はい。早急にいたします。イルメルサさま」
「お願い? 侍女になにを命じたのです――お聞きしても構いませぬか?」
モルゴーが好奇心いっぱいの目をして私を見てきた。魔術師ときたら。とはいえ、隠す必要もないわよね。肩をすくめてみせてから答える。
「どこかもっと、出歩ける場所が欲しくて探すよう命じたの。庭くらいしかなかったから」
「ほう、左様で」
「その庭も封じられて、退屈で倒れそうだわ。昼間ここに来てはいけないかしら。騎士たちの訓練を見るのは嫌いではないのよ」
話す私を、目を細めてモルゴーが見つめていた。どこか興味深げに。その視線にたじろいだ。
「なんですモルゴー」
「いえ、今宵のイルメルサさまはまこと、実にお元気そうで……それではいかがです、明日にでも魔術師塔をご案内いたしましょうか」
「魔術師塔には近づくな、とバルバロスさまに言われているのに」
「私がご一緒いたしますれば。それに塔の外にある薬草園、あそこであれば庭の代わりになるやも」
「薬草園? あの……赤毛の魔術師の、いる……?」
まさか、でももしかしてと思いながらそろそろと口にした言葉は、すぐにモルゴーに一笑に付された。
「バルバロスさまが目をかけている者とはいえ、男の住まう場所をイルメルサさまの庭にはできかねます。我々の塔のすぐ側にある薬草園を申しました」
「魔術師塔の方へは行ったことがないものだから、知らなかったわ。薬草園はあそこだけかと」
「魔力の多い土を有する場を選んで造っておりますので、城の中幾つかに別れておるのです」
「そうなの。ねえモルゴー。魔術師塔に行けばあの犬と遊べる?」
「イルメルサさまはあの犬がよほどお好きとみえる」
「好きだわ。ここで私を好いてくれているのはあの犬だけ」
冗談めかして言うつもりだったのに、口に出すと思いのほか本音を滲ませた声がでてしまった。モルゴーが否定もしないのが腹立たしい。なにか考えているようだ。通路に灯された松明のあかりに髭を赤くして、老いた魔術師はじっと黙り込んでいる。
モルゴーの言うとおり、なんだか私、今夜は話しすぎているかもしれない。もう、口は閉じておこう。唇を引き結んで顔を上げ、広間へと続く道の最後の角を曲がった。




