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複数の熊


 その日は昼近くまで、誰にも咎められず城の中を歩けた。何人かには見られたと思うけれど、誰にもなにも言われなかった。いざという時に身を潜められそうな場所を、いくつか見つけられた。


 魔術師たちには全く気付かれなかった自信がある。彼らは魔力の動きで気配を感じるのが習慣になっているのだから。私など、彼らにとっては石ころ同然。


 そう考えていた時、昼の鐘が鳴った。朝食はとうに部屋に運ばれているはずだ。下げる時間までに戻らないと不審がられる。少し前に通り過ぎた馬小屋の方に戻ろうと足を向けた時だった。ざわざわと落ち着かない人の集団の気配がむこうからやってきた。

 反射的にそばにあった木の影に隠れると、馬番が何頭かの馬を引いて、複数の騎士と歩いてやって来た。馬は負傷しているのか、足音がおかしい。騎士たちの緑の軍衣は血に濡れて黒く汚れている。なにかあったのだわ。

 

「馬の治療ができる魔術師を何名か呼びにやっている、追って来るだろう」

「わかりました。熊ですか?」

「ああ、魔物だ。複数頭が鹿を追って。途中からは我々の魔力を追い始め」

「苦戦されるとは珍しいですね」

「襲われはじめた時、我々騎士はほとんどみなバルバロスさまを守りにそちらへ向かったのだ。後方が手薄になり、荷物持ちに随行したものが多くやられた」

「助けが現れたとか聞きましたが」

「ああ、精霊の寄越した奇跡だと思うね……」

 

 ここで声は遠く言葉を聞き取れなくなってしまった。複数の熊の魔物に襲われて、危ないところに助けが現れた、と話していた。馬や、後方にいたものたちが多く襲われたと。複数の熊。全て倒してくれたのかしら、取り逃して追って来ていたら。

 あの夜、盗賊の腹に頭を突っ込んでいた熊の魔物の大きな姿を思い出し、ぞっとする。早く部屋に戻ろう。あの夜、熊のあとには狼の群が現れた。この山で同じことが起こらないとは言い切れない。

 

「イルメルサさま」

 

 部屋に向かい足早に歩いていると、庭近くに来た時私に呼びかけるものがあった。知った声。お喋りな魔術師、モルゴーのものだ。

 

「モルゴー、お前も狩りに同行していたの」

「もうご存知でしたか」

「この騒ぎだもの」

 

 言って城の方を指で示した。人の怒鳴る声、馬や犬の興奮した鳴き声、女たちの慌ただしい足音。様々な音が、いつも静かな城内に響きわたっている。

 

「もちろんお供致しておりました。恐ろしく大きな熊の魔物で御座いましたが、バルバロスさまはご無事でございますから、ご安心を」

「それはなによりだわ」

 

 喰われてしまえばよかったのに。そんな本音は押し殺す。

 

「熊は取り逃がしてはいないでしょうね」

「それが一頭、手負いの一番大きなものを逃しておりまして。今複数の魔術師や騎士と、途中居合わせた魔術師の男が共に追っております」

 

 モルゴーの言葉に心臓が大きく脈打った。途中で現れた助けとは、魔術師だったの。それはどんな男? 犬は連れていなかった? 髪は赤く強大な魔力を――。そう聞ければ、どんなにいいか。でもラスティのはずがない。レイウッドの森で狩りをしていたのならいざ知らず、狩り場は領地の山だ。

 

「そう、逃すことのないように願います。山にも村はあるでしょう」

「そうですね、放牧をし、移動しながら暮らすものたちがおります。彼らに出会う前に捕らえられるよう祈りましょう。部屋までお守りすることをお許しいただけますか、イルメルサさま。万が一にも城にそれが降りてこないとも限りませぬから」

 

 モルゴーは、助けに現れた魔術師に興味を持たない私を不思議がりもせず、供を名乗り出てくれた。心細かったから助かるわ。

 

「許します」

 

 その後は私は口を閉じて足を動かしていればよかった。モルゴーが狩りで起こったことをほとんど話して聞かせてくれる。そのうち例の魔術師の話にもなるだろう。

 

「なんて思ったのに甘かったわね」

 

 バルバロスさまの狩りの雄姿を語るのにあんなに時間を食うなんて。部屋の前でモルゴーと別れ、すっかり冷え硬くなった朝食のパンを千切りながら、つい不満げな言葉が漏れた。

 

「どうなされました、ひとりごとなどお珍しい」

「ああ……モルゴーのお喋りにつき合わされていたのよ」

 

 もう皿を下げに来られてしまった。いつもの女。

 

「ほとんど召し上がっておられませんが」

「食欲がないの。バルバロスさまが心配で」

 

 嘘だ、本当は空腹だった。けれど長く部屋を離れていたと咎められたくなかったのでそう言って、皿を机の奥へ押しやった。

 

「まあ、そうお聞きになったらバルバロスさまもお喜びになられるでしょう」

「この騒ぎで亡くなった者はどのくらいいるの」

 

 皿を下げに伸ばされた手が、私の言葉に止まった。彼女の二つの瞳は、不思議そうに私を見下ろしていた。

 

「……城下の町から下働きとして雇われていた者が幾人かと、従者が二名。あとは、馬と犬が多く食われました」

「そう。ガウディールではよくあることなの? 複数の熊に襲われるなんて」

「いいえ、これほど大きな騒ぎは滅多にございません」

 

 それならば、私が来たせいだと噂されるだろう。騒ぎが落ち着いても、これまで以上に町には降り辛くなった。大きなため息をつきたい気持ちを飲み込んだ。

 

「そういえば、どなたかが助けに入ってくださったと耳にしたけれど、なにか知っていて?」

「魔術師の男がひとりとしか」

「そうなの。一体どんな方かしらね」

「恐らくバルバロスさまはその者に褒美を与えるでしょう。夕食を広間で召し上がられれば、その場をご覧になれるかもしれませんわ」

 

 それはいい考えに思えた。

 その魔術師がラスティにしろ、違うにしろ、この目で見れば間違えようがない。

 

「そうしようかしら。バルバロスさまのご無事な姿も見たいし」

「まあ。それではそのようにご用意いたします」

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