婚約式
「近くに」
バルバロスさまはそう言うと、顎を乗せていた右手を私の方へ伸ばして来た。行くべきか迷って父を見ると小さく頷いたので、私はゆっくりと、椅子に腰掛けたままのバルバロスさまの元へ歩いた。
「手を。魔力がないというのは、まことか?」
「真実でございます」
伸ばされた、年齢を感じる節くれだった乾いた指の先にそっと自分の手を置いた。バルバロスさまは私の手にじっと視線を落としている。この方の瞳は灰色だわ。黒髪の混じる白髪は、もとは黒髪だったのだろうか、でもそんなはずはない。ガウディール領主が王族と縁続きだという話は聞いた覚えがない……。
「私の髪が気になるのか、シファードの姫」
視線に気づかれた。さっと頬が赤くなる。バルバロスさまは、不愉快そうな目で、ちろりと私を見上げた。その目には、私への親愛は一滴も見つからなかった。この方が私の夫となるのだ。
「元は濃い灰色の髪だったのだよ、どこかに肖像画がある、あとで見るといいだろう、年を経るごとに色が濃くなってな。若い時からこの色ならば、なにかと法螺も吹けたろうに残念だ」
「お許しください」
怒らせてしまっただろうか。手が震える。恐ろしくて視線を外せなかった。バルバロスさまは、しばらく私を見上げたあと、唇を歪めて笑うと、無造作に私の手からその手を放した。私の手はだらりと下にさがる。
「婚約式は今宵済ませる。本来ならば十日も前に締結されていたはずの契約だからな。ゲインもそれで構わぬだろう? それならばそちらも明日にはここを出立できる」
今夜。これから? 本来ならば二日かけて来る道のりを、まだ夜も明けぬうちから領地を出てようやくたどり着いたというのに。
思わず後ろにいるはずの父を振り返ると、父は顔を赤くして必死に怒りを堪えている様子だった。父の後ろに控えているアリンも、恐ろしい形相でバルバロスさまを睨んでいる。どうにかしなければ。バルバロスさまは、父を怒らせたいのだわ。
私はその場に膝をつくと、両手を胸に当ててバルバロスさまを見上げた。その灰色の目が、興味を引く獲物をみつけた猫の瞳のようにほんの少し開かれた。
「お会いできる日を心待ちにしておりましたので、お申し出、とても嬉しく思います。もちろん今夜で構いませんわ、ねえお父さま?」
お願い、ことを荒立てないで。神々と精霊の前で契約を済ませ、無事に領地に戻って欲しいの。心の中で父に語り掛ける。聞こえるはずもないのに。
「イルメルサ……」
後ろからかけられた父の声から、怒りの色が消えていたのでほっとした。バルバロスさまは灰色の目で忌々しそうに私を見ると立ち上がり、ひざまずいたままの私の肩に手を置いて押しやるように脇へ押すと、父の方へ進み出した。
「死人同然の娘と聞いていたが、なかなかよくまわる舌を持っているではないか」
「イルメルサは私の誇りです。よき妻となるでしょう」
振り返った私の視線の先で、二人の領主はそう言葉を交わすと、笑顔を見せもしないで別れて行った。
◆◆◆
その日夜遅く、城の敷地内の小さな聖堂で私とバルバロスさまの婚約式が執り行われた。オースン司祭が私の財産目録を読み上げる。土地、金貨、織物、馬……それから、バルバロスさまから父への返礼の品。同じく金貨、織物、馬、そして香辛料。それに、神々と精霊へ捧げる祈りの言葉が続く。
薄暗い聖堂の中にいる参列者は父と、バルバロスさまのお姉さま、ジョルジェットさまの二人きり。私の衣服はシファードから持って来ていた一番上等の薄紅の絹のもので、美しかったけれど肌寒く、長旅の疲れも重なって立っているだけでやっとの有り様だった。だって夜のガウディールの寒さときたら。
焚かれた松明は祭壇からは遠く、私を暖めてはくれない。がちがちと歯が鳴るのを必死でこらえて立ち続けた。日中に行われると思っていたからこの衣装にしたのに。マントを持った召使いが一人脇に控えている。儀式を終え次第掛けてもらえるはずだ。胸に潜ませたラスティの魔石を握れたらいいのに。
一方のバルバロスさまは、暖かそうな羊毛の衣服で、隣で震える私を一瞥もせず横に立っている。
「――婚約の証として、教会より指輪を授ける。これより四十日の間、異議申し立てがなかった場合にのみ、結婚の許可を与えるものとする」
寒さをこらえているうちに祈りの時間が過ぎていた。気がつけば司祭さまに教会からの指輪を差し出されていた。教会から、というのは建て前でお互いが用意したものだ。こちらからガウディール側に用意したのは、太い金の指輪。私がガウディールから受け取る指輪は、小さいけれど色味の深い翠玉がはめ込まれた、細い金の指輪だった。緑。ガウディールの色。
まずバルバロスさまがそれを、震える私の白い指にそっとはめてくださった。次は私が。
「誓いの口付けをもってこの婚約式の完了とする」
司祭さまの言葉が響いてきた。私の初めての口付け。それを今からするのだ。体が震えるのは寒さのせいなのか、別のなにかのせいなのかわからない。
自分以外のなにかが自分のからだを動かしているような気持ちになりながら、バルバロスさまに向かい合った。近くで見るバルバロスさまは、精悍な顔立ちであったけれど、やはりお年を召されている。
その顔が近づいてくるのを感じ、そっと目を閉じた。ラスティ。彼を思い出そう。私の頭の中までは、誰も踏み込んで来れやしない。ラスティ……。
「神々と精霊の祝福を。婚約は成立いたしました」
唇になにも触れないまま、私の耳にオースン司祭のそんな声が聞こえてきた。ぱちりと目を開けると、薄い嫌悪の感情を見せたバルバロスさまの灰色の瞳が間近にあって、すぐに離れて行った。
口付けをされなかった。安堵と喜びがまず胸に湧き上がって、屈辱感はあとから追いかけてきた。
拒まれた。口付けを、年老いた領主に。私には触れたくないというのだわ。少し腹立たしいけれど、それならば結婚後の“お勤め”もないかもしれない。あったとしても、おそらく最初の夜だけだろう。
その考えは、心を思いのほか軽くしてくれた。召使いが羽織らせてくれたマントで冷えた体をくるみながら、そんなことを考えていた。




