それは彼の
部屋に戻り支度を整えていたら扉を軽く叩かれ、顔を見せたのはあの日一緒に城を出た女魔術師だった。村の娘みたいな服を着て、戸口に立って目を見開いて私を見つめている。幽霊でも見たような顔。前よりもっと幼く見える。
「イルメルサ……さま」
「魔術師とはお前だったの。もっと年かさの者が来たのかと思っていたわ」
青い顔をして、やはり濡れた髪でふらふらと部屋に入って来た女魔術師は、私の顔を見たとたんぽろぽろと涙をこぼしはじめた。
泣きながら戸口に立つこの少女が一人前の魔術師だ、などとわかる者がどのくらいいるだろうか。
「まあ、まあどうしたの? 泣くほどのことではないでしょう」
「良かった、私、わたし……あの、私、お召し替えのお手伝いを……」
「城の魔術師に侍女の真似事などさせられません、結構よ。二人のところにお戻りなさい」
優しく言ったつもりだったのに、拒絶されたと思ったのか、少女はびくりと肩を震わせるとうつむいて小さな声で言う。
「出来ます、私、侍女の真似事できますから、ここにいさせてください。向こうは魔力が濃くてとても近づけません」
「そうなの? ふたりはどこに?」
言いながら彼女を招き入れ、寝台に腰掛けるよう促したけれど、首を横に振って座ることを拒まれた。真っ青なのに。まるで私。
「ロインさまは炊事場に。魔術師も一緒に奥に向かうのは見ましたがどこにいるのかはわかりません」
「そう。実験があと少しで終わると言っていましたから、戻りたいでしょうに」
本当に私のせいでラスティには迷惑をかけているわね。早く出て行って、元の静かな生活に戻してあげなくては。そう思うと、ひんやりとした寂しさが心に忍びこんできた。いやだ、どうしてこんな気持ちになるの。
気持ちを変えたくて、机の上に置いてある裁縫箱を見た。寂しいのは私だけよ、イルメルサ。
「イルメルサさま、あの、あの、ここに住まう魔術師について、市でよからぬ噂が流れていました」
と、唐突につっかえながら話し始めた魔術師に驚いて視線を向けた。スカートを両手でぎゅっと握りながら、一生懸命話している。
「ここの魔術師は、その、女性を……あの、特別な、その、仕事の女性を」
語尾がどんどん小さくなっていくのに比例して、彼女の顔はどんどん赤くなっていく。
「“娼婦殺し”?」
「えっ! あ、はい、それ、です」
「それ、誤解ですって。本人に聞きました」
着替えの服の皺を伸ばしながら答える。
「そんっ、そんなの“殺しました”なんて正直に言うはずがありません!」
「それはそうね。でも私はラスティを信じるわ」
若干うんざりしながら言った。もう、そこは通り過ぎたのよ。
「ねえ、やっぱり着替えを手伝って頂戴」
話を終わらせたくてそう言って顔を彼女に向けると、女魔術師は渋々と頷いて近づいて来た。
「お前、髪は編める?」
「はい、できます」
「髪も頼むわね」
「お任せください」
任せろ、と言うだけのことはあり、彼女の手際はなかなかのものだった。髪を編み込まれながら、少し話をした。彼女の名前はエマリィ。幼い頃に魔術の才能を見いだされ、村の者が協力して彼女の進学を助けたそうだ。
「ですから、私、今とても誇らしいのです」
鏡がないので、後ろに立つ彼女の顔は見えなかったけれど、その声色から、エマリィがほほえんでいるのがわかった。
「ゲイン様はとてもよくしてくださるので、村にじゅうぶんな仕送りができます」
「今? これで満足なの? 王宮魔術師でも目指しなさいな」
「そんな、無理です、女の私が王宮魔術師なんて」
「女性王宮魔術師におなりなさい、そしてアリアルスを助けてあげて。ここだけの話、あの子は王族の妻の座を狙っているわよ」
おどけて言うと、エマリィは控えめな笑いをもらした。王宮魔術師は騎士と並ぶ貴族の称号だ。女性であるエマリィに授けられるのは難しいかもしれないけれど、過去にいなかったわけでもない。
「できました。ああ、やっといつものイルメルサさまのお姿に。ほっとしました」
「服のひだもきれいに寄せてくれたわね」
「好きなんです、こういう細かい作業をするの」
「そう。よかった」
立ち上がって自分を見下ろす。久し振りに袖を通したいつもの服は、やはり肌触りがよく心地いい。一本に編まれた髪を背中から胸に持ってきてみると、複雑に細かく編み込まれていた。
「素敵だわ、ありがとう」
「とてもお似合いです」
「では、行きましょう。ロインを呼んでくるからお前はここでお待ち」
「とんでもない、私が行って呼んで参りますから……」
そういった彼女を押し止め、手で制した。
「世話になったのよ、ラスティに別れくらい言って行きたいの。そうね、あなたはそこに座って、荷物を見ていなさい。命令よ」
まだ少し青い顔をした魔術師を寝台に座らせ、一人部屋を出た。何日かぶりにきちんと姿を整えると、不思議と背筋が伸びた。同時に一歩進むごとに心の一部が眠っていくような、不思議な感じがする。今朝ここで自由に笑っていた私。あれは本当に私に起こったことだったのかしら。
「イルメルサさま。お支度がお済みで?」
中庭からロインの声がした。庭を見ると、岩のひとつに腰掛けたロインが、もいだ果実を手に慌てて口を動かしているところだった。
雨は止んだみたいで、降り込んできていない。
「お前、家主の許可は得ているの?」
「いえ――申し訳ありません、あまりに美しく実っていたもので」
全く。あとでラスティに詫びておかなくてはね。駆け寄ってきたロインに、じろりと視線で注意をしておく。
「ラスティはどこ? 最後に礼と別れを伝えたいのだけれど」
「奴なら犬を連れて、奥の扉の向こうへ」
「部屋に戻ってしまったの?」
これでは会えないわ。礼も、別れも、水を取り出せた話すら伝えられないままになってしまう。
「別れは必要ないから黙って行け、と」
「……そう」
ロインから伝えられた言葉が、小さな棘になって私の心に突き刺さる。
「わかりました。行きましょうか」
「はい」
「……ロイン、その革の装備もなかなか似合うわ。エマリィと並んで、兄と妹と言われても信じるわ」
立ち上がったロインを上から下まで眺めて言った。騎士の鎧を脱いだロインはどこか軽やかで、いつもより遠く感じる。
「市場ではいとこと名乗って過ごしていました。俺には黒髪は生えていないので」
「そうだった。あなたは体力派、彼女は頭脳派、中身も似ていないのだったわ」
胸の痛みを紛らわせたくて、ロインに軽口を叩きながら庭をあとにした。
「イルメルサさま!」
部屋に向かうと、扉の前でエマリィが荷物を抱えて所在なげに立って待っているのが見えた。ロインと私の姿を認めた彼女は、すっと姿勢を正す。
「待たせたわね、行きましょうか」
声をかけると彼女はほっとした表情で笑い、手にしていた袋を抱え直してついてきた。ここを離れられるのが嬉しそうだ。
「ここはそんなに居心地が悪い?」
「はい、とても。魔力が濃いですし、その魔力自体も体に合いません。私の魔力はシファードの方々と近い、水のものですから」
それは不思議ね、私もそうなのに。ラスティの魔力はあたたかくて心地いい。
「ロインの魔力は土だったかしら」
「はい。使い物にはなりませんが。剣を少し硬くできるくらいで」
話しながら歩いていると、だんだん寒くなってきた。壁から木の根が姿を見せ始めている。ラスティの魔力の影響が弱まっているんだわ。
「外はまだ寒いわね」
「そうですね。エマリィの術がありますから。エマリィ」
「は、はいっ」
ロインに呼ばれ、エマリィが駆け寄ってきた。そうだった、うかつに口を開くとこうなるのだった。
「大丈夫よ、体が冷えたと言ったのではないの」
「冷えるより先にあたためておきませんと」
そう言ったエマリィが、私の荷物を抱えなおして片手を差し出してきた。
「ロイン、荷物を持ってあげて」
「いけません、ロインさまには剣を扱ってもらわなければなりませんから」
「なら、私も持つわ、二人で運びましょ」
「いけません、イルメルサさま!」
伸ばした手を、エマリィは体を捻ってよけた。そうまでしなくても。
「お召し物が入っているくらいですから、大きいですが重くはありません。あ、イルメルサさま、お忘れ物があったので、詰めておきましたよ」
思い出したように、少し得意げにエマリィが言った。忘れ物などないわ、必要なものはすべて詰めた。
「まさか」
「小さな裁縫箱と本が残されておりました」
「それは置いてきたのよ、伝え忘れていたわ」
「申し訳ございません! すぐに戻して参ります」
焦った様子で袋を床に置き、口を開け本と裁縫箱を取り出すエマリィを見て、笑みがもれた。仕方がないわね。
「私が行くわ」
「エマリィ、お前が行け」
「はい。ロインさま」
「待ちなさい!」
私の言葉を無視する二人に腹が立つ。
「私が行くと言ったのよ、貸しなさい」
「なぜイルメルサさまが」
エマリィに手を伸ばすと、ロインが怪訝そうな顔で聞いてきた。なぜ。
「この本と裁縫箱を置いておく意味がなにか、お前たちにはわからないでしょう、だからよ。ここで待っていなさい、すぐに戻ります」
返事を待たずに本と箱を奪い取るように取り戻し、一人踵をかえした。どちらかはついて来るかと思ったけれど、二人は私をひとりにしてくれた。




