体で払ってもらおうか
それから目の前に白磁の薄い茶碗が置かれて、驚いて顔を上げた。
「飲め」
そう言ったのはあのスーツの男だった。彼がお茶を淹れてくれたらしい。
「どうも」
似合わないと驚いたが、素直にぺこっと頭を下げる。
男は克真のぎこちないお礼を見て、唇の端を持ち上げて笑ったが、なにを言うわけでもなくそのままキッチンの外へと出て行ってしまった。派手で存在感があるのに、不思議と周囲の空気に溶け込んで消えてしまう不思議な気配の持ち主のようだ。
克真は出て行く男の背中を見送った後、ミロに問いかけた。
「なぁ、ここどこ? んで、あいつどこの誰?」
窓がないこの部屋では、外の風景から場所や時間を推測することもできない。長い間気を失っていたとは思えないが、さすがに不安にもなってくる。
「んー? あいつは竜胆だヨ」
ミロはパクパクと照り焼きを口の中に運びながら、はっきりと答える。
「リンドウ?」
「ん。竜胆夜壱。ここらへんの『あやかし』を仕切ってる、夜の王だヨ」
「あやかし……を、仕切る?」
克真はさらに首をかしげた。
耳で聞いた限りだと『妖』という字面はなんとなく思い浮かんだが、意味はわからなかった。
(まぁとりあえず夜の王ってのは、歌舞伎町の王、みたいなもんか……? うん。たぶんそうだろうな)
とりあえず〝仕切ってる〟――という単語からして、やはりそっちの関係だろうと、克真は結論付けた。それに竜胆はホストにしては威圧感がありすぎる。やはりヤのつくご職業に違いない。
(助けてもらったのかもしれんが、シャレにならんな……。金を請求される前に、さっさと帰ろう)
そんなことを考えながら茶碗を口に運ぶと、そのお茶からは、克真がいままで飲んだことのないようないい香りがした。最高級の煎茶だ。そしてあの男、料理はしないと言っていたが茶を淹れるのは慣れているようだ。
「うまいな……」
思わずぽつりとつぶやいて、違和感に気が付いた。
「――いや、おかしいぞ」
「どうしタ?」
ミロがきょとんとした表情で顔を上げる。
「俺、全身痛かったのどうなった?」
チンピラに殴る蹴るの暴行を受けていた。それに口の中を切ったはずだ。なのにお茶を飲んでも痛みはなく体も不思議と痛みがない。
克真はガタンと立ち上がって叫んだ。
「痛くないって、やっぱりこれ、夢か!」
そうだ、そうだったのだ。あまりにも微細がはっきりしていたので現実として受け止めるしかないと諦めていたが、これは夢だ。だから痛くもないし、怪我も消えてしまったのだ。
「なーんだ……はは……夢か。だよな」
克真は乾いた声で笑い、また椅子に座りなおした。
チンピラも謎の男も、目の前で自分の料理をむさぼっているこのミロという不思議ちゃんも、全部夢だ。目が覚めればきっと一人暮らしの部屋で、また明日からいつもの退屈で平穏な日常が待っているのだ。
だがミロは――どんぶりをコトンとテーブルの上に置いて、肩をすくめた。
「なに言ってるノ。痛くないのは、ここが幽世だからだヨ」
「か……え? カクリヨってなんだ」
また耳慣れない単語が出てきた。理解できないこの状況に、思わず克真のみけんにしわが寄る。
「幽世は幽世だよ。ジョーしきだヨ」
「いや知らねぇし……」
(てか、いったいどこの常識だよ。ああ、そうかヤクザの常識なのか?)
いくらここが他県から悪名高い修羅の国とはいえ、克真はちょっぴりついていない星の下に生まれた、どこにでもいるごく普通の一般男子高校生だ。そんな裏社会のしきたりや、彼らの常識を知っているはずがない。
「まぁ、いいよ……とりあえず俺、帰るから」
たとえ夢だとしても、これ以上ここにいないほうがいい気がしてきた克真は、なかなか目が覚めないことに若干焦りながら椅子から立ち上がった。
「えッ? 帰るってどこニ?」
「家。んじゃ」
克真はポカンとしているミロに向け、サッと手をあげて挨拶をすると、キッチンのドアへと向かった。
「家、ねェ……」
どんぶりをもったままのミロが、そんな克真を視線で追いかけたが、まだ少しばかり残っているどんぶりを手放してまで、あとを追いかける気にはなれなかったようだ。
「竜胆にその気がなければ無理だと思うヨ」
そしてにんまりと微笑んだのだった。
そう――廊下の突き当りが、リビングだったはずだ。自分は間違いなく、リビングからまっすぐに廊下を歩いてキッチンに入った。いくらこの部屋が広いといっても、一本道だ。迷うはずがない。
だが克真は“迷子”になっていた。リビングに戻ってとりあえずあの男――竜胆に最低限の礼を言って帰ろうと思ったのに、まっすぐ向かったはずのリビングのドアノブは、開けると、知らないリビングだった。
「……あれ?」
ドアを閉めて振り返ると、自分が今出てきたはずのキッチンへ続く廊下が長くなっている。
「おかしいな……」
ごしごしと目をこすったが、やはり廊下が伸びている。慌ててうろうろしたが、余計わからなくなった。
いくらこの家が広いと言っても、お城じゃあるまいし、迷子になるはずがない。
(いや、夢だから常識が通じないだけだ……夢だから……)
克真は若干焦りながら、とりあえず手近なドアノブをつかんで中に入る。すると、白と黒のソファに竜胆がひとりで座っていて驚いた。
目の前に広がっているのは恐ろしく広いリビングだ。だが見覚えがある。そう、克真が意識を取り戻した時にいたリビングルームである。
(ここに戻ってきたのか……)
克真は呆然と辺りを見回す。
するとまるでどこかの王様のようにふんぞり返り、長い足を邪魔くさそうに組んでいる竜胆と目が合った。適当にこの部屋に入ったはずなのに、ここに来ることが分かっていたような、そんな顔をしていた。
(なんかムカつくな……)
じわじわと不愉快な感覚に駆られながら、それでも克真は口を開く。
「――あのさ、俺帰りたいんだけど」
「払うものを払えば、返してやる」
「どういう意味だ。借りた覚えないぞ」
とは言いながら、克真は足元から嫌な予感がヒシヒシと這い上がってくるような気がした。
昔から自分は若干不幸な星のもとに生まれてきたのではないかという自覚がある。自分の身に起きてほしくない嫌なこと、残念な事柄に関しては、勘が鋭いのだ。
ごくりと息を飲んだ克真に向かって、竜胆は低い魅惑的な声で囁いた。
「お前は俺に貸しがあるだろう。命を助けてやった。知らないとは言わせん」
その言葉に克真の顔色がサッと変わった。
「やっぱりてめぇもヤクザかよ!」
とっさに叫んで、そして次の瞬間、失敗したと思った。
竜胆がソファから立ち上がる。それだけで尋常でない気配がする。
克真はコンビニで絡まれたチンピラの時以上に、『やべえ、ぶっ飛ばされる!』と本気で思ったが、竜胆は克真に暴力をふるったりはしなかった。
「そうじゃない。ここは幽世だ。生身の人間がそう簡単に行き来できる場所ではない。要するにお前は普通じゃないということだ。そして普通じゃないお前に出来ることをしてもらうだけだ」
竜胆は切れ長の美しい瞳を妖しくきらめかせる。
「は? 全然意味わかんねえよ!」
若干イライラしながら言い返すと、
「お前は人の世に生きるあやかしに命を与えられる」
「え」
「もっとわかりやすく言えば、お前が作ったものなら、あやかしでも口にできる。実に便利な人間ということだ」
竜胆は声を抑えてささやいた。
「――あやかしに?」
「例えばミロだ。あれはきつねのあやかしだ。お前の作った食事を喜んで食べていただろう」
「あ」
『ちっ、がーウ! かたちだけ食べることはできるけド、普通は人間の作ったものは美味しくないノッ!』
克真の脳裏に、照り焼き丼を食べながら、ポニーテールの頭をぶんぶんと降っていたミロの姿が頭に浮かんだ。いや、浮かびはしたが、まだそれを受け入れられない。
(確かにあいつ変だったけど……いや目の前のこいつだって十分変だけど……! あやかしって人間じゃないってコトだろ? そのあやかしが俺の作ったメシを食えるからなんだっていうんだ?)
本当に意味が分からない。というかそもそも竜胆には克真に細かいことをわからせようという気配がまるでないのだ。
「いや、確かに助けてもらってなんだけど……俺は」
(俺は……俺は?)
訴えたい思いはあるのに、言葉が出てこない。
戸惑う克真をよそに、竜胆はそのまま克真の首根っこをつかむと、ひょいとつかんでソファーに投げる。
そう、投げたのだ。ある意味殴る蹴るの暴力よりも心臓に悪いだろう。
「うわぁぁぁ!」
克真は思わず悲鳴を上げていたが、体は宙に浮かび、竜胆が座っていたソファーの上に、まるで面接を受ける新入社員のような体制で、きれいに落ちた。
「なんなんだよ、いったいっ!」
叫び立ち上がりかけた克真の肩に大きな手が乗る。
「ちょっ……」
一瞬威圧感を感じてさらに足を込め、立ち上がろうとしたが、体はびくともしなかった。目の前の男は、軽く片手を克真の肩に乗せているだけだというのに動けない。
「え、は?」
顔からサーッと血の気が引いていくのが分かる。
あまりの状況に、これは夢であるはずと何度自分に言い聞かせても、やはりそうとは思えなくなってきた。
「――払ってもらう」
「え」
「お前の体で、払ってもらう」
竜胆は悪魔のような妖艶な微笑みで、克真に死刑宣告をもたらしたのだった。