美少女に押し倒され、物理的に食われかかりました
長く眠っていたような気もするし、一瞬のような気もした。克真はハッと目を覚まして、そして激しく混乱し、動揺した。
「どこだ、ここ……」
気を抜けばぼんやりと靄がかかる頭を左右に振る。だがいくら考えても、まったく居場所に心当たりがない。
眉を寄せ、目を凝らして天井を見上げる。眼鏡をかけていないせいか、視界はぼうっとしている。この状況でただひとつ明らかなのは、やはり今自分がどこにいるか目を覚ましても見当がつかないことだ。
「あ……」
ふと思い出して、デニムの後ろポケットに手を突っ込んだが、小銭が入った財布が入っているだけで、スマホはなかった。コンビニに行くときに、財布しか持って出なかったのだ。となると時間すらわからない。
(やべぇな……)
とにかくやばいことはわかるが、相変わらずなにをどうしたらよいのかわからない。克真は酩酊したことはないが、どうも頭の奥に膜が張っているような不快感がある。
(えっとどうしてここにいるんだっけ。たしか俺、コンビニに行って……それからチンピラに絡まれて……)
そこで美貌の男が脳裏をよぎる。
「そうだった。あの男に俺……」
「あ、眼が覚めたんダ?」
そこへ突然、ひょっこりと少女が顔を近づけてきた。
ツインテールというのだろうか。びっくりするようなピンクの髪を左右の高い位置で結った女の子が、面白そうに克真を見下ろしている。あまりにも軽くて気づかなかったが、なぜか克真の腹の上に馬乗りになっていた。
「うわぁっ!」
まさか自分の上に人がいるとは思わなかった克真は、驚きのあまり悲鳴をあげた。
「ふふっ、変な顔だネ~!」
死ぬほど驚いている克真を見て、少女は楽しそうに笑っている。
(変な顔、じゃ、ねえ!)
そう思ったが、あまりにも自然に笑っているので、自分を善良な常識人だと思っている克真は、言葉を飲み込む。
(いや、この状況はなんかやべぇ気がする……。とりあえず刺激しないほうがいいかもしれない)
チンピラに絡まれ、謎の男にお姫様抱っこされる屈辱からの、美少女の馬乗りだ。だからすべて夢だと思いたいが、残念ながら体に残る痛みが次第に克真にこれは現実だと教えてくれた。
「はい、これ。あなたのでショ」
無言を通す克真に、彼女から差し出されたのは黒ぶち眼鏡だった。そっけないおしゃれとは無縁の眼鏡だが、正真正銘、克真のものである。
「どうも……」
意味が分からないながらも眼鏡を受け取り、かける。それから呆然と、相変わらず腹の上にまたがっている少女を見上げた。
(めちゃくちゃかわいいな……へんなカッコしてるけど)
そう、少女はとんでもない美少女だった。確かに髪色はピンクという奇抜さではあるが、そんなことはどうでもいい!と声を大にして言いたくなるくらい、美しく愛らしかった。
二重瞼のぱっちりと大きな瞳は長いまつ毛に縁どられ、鼻筋はすっきりと通り、唇はピンク。ちらちらと見える白い歯の並びはとてもきれいだ。とにかく完璧なパーツが絶妙な配置で小さな顔におさまっている。
着ている服は、いわゆるロリータファッションと呼ばれるフリルとレースがたっぷりの白とピンクのワンピースで、ウエストはつかめそうなほど細い。天神を歩いているとたまに見ないこともないが、こんな至近距離では初めてだった。
「えっと……降りてもらいたいんだけど」
しばらく考えて、克真は口を開く。
「いやだァ~」
だが返ってきたのは、まるでうんと小さな子供のような返事だった。
「は?」
克真は呆気にとられ、ぽかんと口を開ける。
「だから、いやなノッ!」
少女は唇を尖らせると、プルプルと首を振り、それからニコッと微笑むと――克真はその笑顔を天使のようだと思ってしまった――克真の肩を両手でグッとつかみ、ソファーに押し付けた。
「せっかく甘露が目の前にあるノニ!」
「は?」
(カンロ? カンロってなんだ??)
克真はポカンと目を丸くする。
リビングルームらしいこの場所には、黒と白の大きなソファーセットがふたつ、絶妙な配置で並べられている。しっとりとした革張りで、それが最高級のソファーなのは庶民の克真でもすぐにわかった。
壁は白く、大きな観葉植物があちこちに配置されている。三メートル以上ある高い天井近くに明かり取りらしい正方形の小さな窓が五つ並んでいるだけ。大きな液晶テレビとオーディオがあるが、時計がない。これでは窓の外がどうなっているのかさっぱりわからない。
もっと周りをよく見ようと上半身を起こそうとしたが、抑え込まれた体はびくともしなかった。
「えっと、あのさ」
背筋がゾクゾクと震え始めた。チンピラに絡まれたときでもこんなふうに恐怖を感じることはなかったのに、これはいったいどういうことなのだろう。克真は震えるこぶしをぎゅっと握りしめる。
「いっただきマース!」
美少女はピンクの唇を大きく開けて、すうっと息をのむ。
それを見て克真は――もしかしたら人としての本能なのだろうか。次の瞬間、体をねじるようにして首を横にずらしていた。
ガシャンッ!
耳もとで、まるで刃物がかみ合うような音が響く。
(今のガシャンッって、なんだっ!)
激しく混乱する中で、おそるおそる目線を少女に向けると、彼女は不思議そうに顔を傾け、そして大きな目を細め、ほくそえんだ。
「あれぇ……? 逃げちゃうなんて、往生際が悪いヨ~?」
八重歯が、信じられないくらい大きく尖り、光っていた。
「うわぁぁっ!」
人間、土壇場になると信じられない力が出てくるものらしい。それまでびくともしなかった少女の手を振り払い、克真はソファーから飛びのいた。心臓がありえない速度でドクドクと胸の中で跳ねている。
「なんか俺、食われそうになってなかったっ!?」
克真はハハハと笑いながら、ずり落ちそうになる眼鏡を指で押し上げ、今まさにかみつかれそうだった首を手のひらで押さえる。
だだっぴろいリビングは五十畳くらいはありそうだった。かなり広い。いや、広すぎる。少々後ずさったところで、距離が開かない。出入口はどこだと周囲を見回すと、少女の向こうに黒いドアが見えた。あのドアから逃げ出すには目の前の少女を避けて、向こうまで走らなければならない。
克真は運動神経が特別いいほうではないが、足だけは速かった。
(相手は俺より小さくて細い女の子だ……! よしっ!)
勢いよく、ソファーを回り込む形で走り出す。
(ドアドアドア!)
克真のその行動は、完全に少女のスキをついたはずだった。事実、目の端に驚いたように目を丸くする彼女をとらえていた。目指したドアに手を伸ばす。
だが次の瞬間、
「逃げちゃダメ」
まるで瞬間移動したのかのように、少女は克真の前に立ちふさがっていた。
「うわあっ!」
克真はのけぞり足をもつれさせ、その場に座り込んだ。
「お前今、瞬間移動しただろ!」
現実問題、そんなことが起こるはずがない。だがそうとしか思えず、克真は叫ぶ。
ほんの数秒前まで、彼女はソファーの上に立っていたはずだ。なのになぜか自分の前に立ちはだかっている。いったいどうやって回り込んだのか理解できない。
「瞬間移動なんて、たいそうなことじゃないヨ~。ちょーっと早く、動いただけだモン」
少女はクスクスと笑って克真の前にしゃがみこむと、指を首の横に乗せた。
「あたたかい血がドクドク流れてるネ。フフッ」
「そ……そんな嬉しそうに言われる意味が分からないんだが?」
「うそ。本当はわかってるでショ。今から自分がどうなるかってコト」
少女はどこかうっとりした表情で克真を見つめた。
「恨むならその体を恨んだラ」
「どういうことだ?」
「あなたの血……肉……特別だカラ」
「特別って……は?」
少女は目をしっとりと輝かせながら、ごくりと喉を鳴らした。
彼女の目が光って見えるのは明かりのせいだろうか。
「だかラ……」
少女がゆっくりと蠱惑的な表情で顔を近づけてくる。赤い唇が魅力的に動く。
「あなたを食べタラ、あたし……きット――」
文字通り、彼女は自分を食べると言っている?
そんなはずがない。人は人を食べたりしない。カニバリズムだとかなんだとか、聞いたことはあるが、冷汗が止まらない。この状況は何かの間違いに違いないと思いたいが、少女はゆらりゆらりと体を動かしながらふわふわと微笑んで、克真の首筋に顔を寄せる。
(頭が……ボーッとする……)
まるで催眠術でも掛けられたかのようだ。思考が回らない。瞼が重い。しかもふわりとスカートが浮いて、なぜか大きな尻尾のようなものが見えた。
(全然、意味がわからん……)
チンピラに絡まれ、謎の男に拾われ、気が付いたら女の子に食われそうになっている。
「いただきまス」
首筋に冷たいなにかがあたる。体がじわじわと痺れていく。
「あ……」
酔いに似た空気に目を閉じかけたところで、
「おい子ぎつね、なにをしている」
と、低い声が響き、克真にしがみついていた少女の体が離れていった。
(あれ……?)
視線を持ちげると少女が床から浮いている。なんと少女が、子猫のように首根っこをつかまれていた。そしてつかんでいるのは、例の紺色のスーツの男だ。
(子ぎつね? いやいやその前に、いったいこいつ、部屋に入ってきたんだ?)
「ミロ、こいつに手を出すな。あと勝手に俺の部屋に入るな」
スーツの男は不機嫌そうに眉根を寄せる。たいそうな美貌なので、それだけで迫力がある。
「ええーッ、なんでェッ! ひとりじめなんてずるぅイ!」
ミロというのが少女の名前だろうか。どうやら部屋の主(スーツの男)に無断でこの部屋に入ったらしい。叱られているようだが、それほど堪えた様子はない。
(いや、それよりも……どうなってんの?)
克真は唖然としながら、相変わらず首根っこをつかまれているミロを見上げる。
普通の人間なら、いくら華奢な女の子でも片手で持ち上げられない。いくら190以上あったとしても、無理だろう。そして持ち上げられているほうも、もう少し痛みを訴えてもいいはずだ。それどこころか、すらりと長い足をジタバタさせながら、
「おなかすいたおなかすいたおなかすいターッ!」
と、叫んでいる。辛そうな様子はない。
「うるさい黙れ、ひねりつぶすぞ」
男は深いため息をついて、切れ長の目を細めるが、手を離すつもりはないようだ。
「ウワーン、バカーッ、おなかすいたヨォ!」
相変らずミロはベソベソと泣いている。
その様子を見て、克真はふと、いらぬことを思いだしていた。
それは克真にとって夢の中の出来事であって、事実ではないのだが、克真という人間を形作るうえでとても大事な経験でもあった。
(腹がすくのはよくねぇ……よな)
だから克真は――思わず口を開いていた。
「俺がメシ、作ろうか?」