あやかし食堂は天神六丁目の雑居ビル二階にございます
全国から修羅の国と揶揄される、九州北部F県F市の繁華街、天神地区。天神は百貨店やビルなどの商業施設が密集して立ち並ぶ市の中心地で、昼夜を問わず、たいそう賑やかではあるが、実際には住所表記に「天神」がつくのは、一丁目から五丁目までだ。
けれどこの雑居ビルは、天神六丁目に建っている。
目にした人の噂では、あのビルは雨の日に繁華街側のK公園の近くで見ただとか、いやいや、K神社の側にあったとまことしやかにささやかれているが、結局人の世の地図に天神六丁目は記載されていない。
ここは“普通”の人間は足を踏み入れることが出来ない、天神六丁目。あかやしが集う、不思議な場所の、不思議な食堂。そして物語が生まれる場所でもあり、この雑居ビルのオーナーは、博多の夜を仕切る夜の王と呼ばれる、とあるいわくつきの男で、そして彼の庇護のもと、ひとりの人間である男子高校生が、店を切り盛りしている。
店の名は“よろず食堂”
天神六丁目と書かれた住所表記のプレートが打ち付けられた、雑居ビルの二階にある。言ってしまえば熟練の料理人がいるわけでもない、男子高校生が厨房に立つ、割と適当で雑なメシ屋だった。
がらりと引き戸が開く音に、克真は包丁を動かす手を止めた。
「いらっしゃい」
克真の掛け声に返事をせず、無言で店内に入ってきたのは、ピンクの頭をしたツインテールの、ロリータファッションの美少女だった。
「おう、ミロじゃん。ひとりなのか?」
「……」
ミロと呼ばれた少女は、克真に返事をしないまま、無言でフラフラと四つしかないカウンター席の入り口に一番近い椅子に腰を下ろし、ふてくされた表情で頬杖をつく。
あと一時間もすれば、カウンター四席、四人用のテーブル席がふたつのこの店は、普段は人にまぎれて生活をしている“あやかし”で、いっぱいになる。だが店が開くのは午後六時で、克真はたった今、のれんを出したばかりだった。今日は彼女が一番乗りの客だ。
ミロには水色の髪をしたポニーテールの双子の妹がいて、基本的に彼女たちは離れたりはしない。だがたまに――克真がこのよろず食堂で働きだしてから約半年になるが、数か月に一度大きな喧嘩をして、何度か姉妹のそれぞれがひとりでやってきたことがある。
(今日はそういう日か)
改めて克真は彼女の様子を見つめた。
彼女が着ている薄い水色の四段重ねのエプロンドレスには、白いお城やピンクのケーキがプリントされており、白いブラウスの袖口にはピンクのリボンが縫い付けられている。白とピンクのボーダー柄のタイツの下の水色のエナメルストラップ靴は、ぴかぴかと輝いていて、彼女の西洋人形めいた美貌と相まって、作り物のように完璧だったが、やはり普段より精彩を欠いている気がした。
(やっぱり姉妹喧嘩かな……?)
そう思うが、あえて克真からは問わない。厳密にルールを定めているわけではないが、オーナーがここで唯一の人間であり、料理人である克真が面倒ごとに巻き込まれないよう、克真に深入りさせないようにしているのだ。暗黙の了解のようなものが、ここにはある。そして克真も、一応はそれに従って店を切り盛りしている。
そしてなにより、ここは食堂だ。となればやることはひとつ。決まっているだろう。
「ミロ」
改めて克真が呼びかけると、ミロはハッとしたように顔を上げた。自分でここに入ってきたはずなのに、ここは自分の居場所ではないとでも言いたいような、どこか夢見心地のような顔をしている。
(これはよっぽどだな……)
克真は食器棚から漆器のお椀を取り出し、ガス台にかかっている寸胴の蓋を開け、たった今作ったばかりの味噌汁を、お玉ですくい丁寧に注いだ。
「ほら、今日は油揚げとほうれん草だぞ。好きだろ?」
克真がカウンターの目の前の台にお椀を乗せると、ふんわりとお味噌汁の香りが漂う。F県らしい、麦と米の合わせ味噌で、いつもほんのり甘口だ。
「油揚げ……」
ミロは両手でお椀を持ち上げ顔に近づけると、ゆっくりとその匂いを吸い込んだ。
「油揚げ大好キ」
それまで憂鬱そうだった顔が、一瞬で笑顔になった。大きな目が細められ、文字通りキツネのように――弧を描く。そしてたっぷりのフリルのスカートの裾から、ふわりとふさふさのしっぽが顔を覗かせた。
そう、彼女は五十年生きている、キツネの若いあやかしだ。そして普段は天神地区にあるアパレルショップでアルバイトとして働いている。
「ミロ、尻尾出てるぞ」
「アッ……!」
ちょいちょいと克真が指をさすと、ミロは少し恥ずかしそうに、尻尾をスカートの中に押し込んで椅子に座りなおす。
「なにがあったかは知らんが、とりあえずメシを食え。ここはメシ屋なんだからな」
そう、ここはメシ屋だ。克真は腹を空かせたあやかしのために食事を作る。彼らはそれを食べて、満足して帰る。ただそれだけだ。
「ン……」
ミロはこくりとうなずいて、「いただきマス」と手を合わせ、椀を口元に運ぶ。
キツネに限って猫舌というわけではないだろうが、少しふぅふぅと息を吹きかけ、そして一口、お味噌汁をすする。
「おいしィ」
にーっと満足そうに目を細める姿を見ると、克真の胸はほっこりとあたたかくなる。
やはり人は――いや、ミロはあやかしだが、笑顔はいいものだ。
(空腹はよくない。よく食べよく眠るのが幸せな人生ってやつだな)
その様子を見ながら、克真はふと思い立ったように冷蔵庫から甘辛く炊いていた油揚げを取り出すと、こまかく刻みはじめる。そして炊き立ての白米にしょうがを刻んだものと一緒に混ぜ込んで、そこにぱらぱらとゴマを振ると、ラップでおにぎりをふたつ手際よく握った。そしてそのうちのひとつをホイルで包み、カウンターの上に置く。お皿に乗ったおにぎりは双子の大好物だ。
「もしかしテ……サナの分?」
サナというのはミロの双子の妹の名前だ。
「もう一個はお持ち帰り用」
克真はさらりとそう答えた。
持って帰ったおにぎりをサナにやるのもやらないのもミロの自由だが、話しかけるきっかけにはなるだろう。
「――ン」
克真の真意が伝わったのか、ミロは少し気まずそうに、困ったような照れたような顔をして、ホイルで包まれたおにぎりを、フリルのバケツ型バッグの中にしまい込んだ。
よろず食堂の営業時間は、午後六時から夜の九時までの三時間だ。克真の都合で閉めてもいいのだが、基本的に毎日開いている。オーダーストップは八時なので、のこりの一時間は片づけや翌日の簡単な仕込みをしながら過ごすのがいつもの流れだ。
現在は時計の針は八時四十五分で、すでにのれんはおろしているので新しい客が来ることもない。
克真はあくまで雇われの身なのでこの店の経営がどうなっているのかはわからない。だがこのビルのオーナーは、博多の街、そして天神の夜を仕切る“夜の王”と名高い男だ。あちこちに大きなビルを持っていて、いつ見ても絢爛豪華としかいいようのない、独特なたたずまいをしている。
彼にとってはあやかし専門の小さな食堂が流行ろうが流行らなかろうが、どうでもいいのかもしれない。
(もしくは税金対策……か?)
克真はそんなことを考えながら、「にしても今日はマジで暇だったな~」と、ため息をついた。
「だなー。下手したら入れない日もあるのに、今日は八時前から俺ひとりだし」
そこで克真のボヤキに応えたのは、今日最後の客の、化け狸のあやかしのトーヤだった。人の姿を取っているときは二十歳そこそこの、こげ茶色の髪に同じ色の人懐っこい瞳をした、すらりとした長身の美形だが、いったん変身を解くと彼は尻尾までモフモフの狸になる。
克真はかなりのモフモフ好きなので、ミロにしろトーヤにしろ、ここにいるときは人の姿ではなくあやかしの姿でいてほしいと思うのだが、人に化けて町に溶け込んでいるあやかしたちは、残念ながら本性をあらわにすることはめったにない。せいぜい気を緩めたときに、耳や尻尾を出すだけだ。
「てか、雨降ってるからだと思うけど」
トーヤがプラスチックのコップのお茶を飲む。
「雨?」
克真が店を開けるときは、雨は降っていなかった。ということはその後雨が降り出したのだろう。
「うん。結構じゃーじゃー降ってるよ。だからうちも結構暇だって、さっき連絡があった」
トーヤは普段は同じ雑居ビルの地下一階のバーで、バーテンダー見習いをしている。“うち”というのは地下のバーのことで、出勤前に克真の作るごぼ天うどんを食べに来たのだった。
ちなみに克真の作るごぼ天うどんは、大きく切ったふといごぼうの天ぷらが乗った、昔ながらのごぼ天うどんであり、トーヤやその他常連客は、これに無料サービスの天かすをさらに山盛り投入して食べている。さらに鶏肉を入れて甘辛く炊いた炊き込みご飯のかしわおにぎりをセットにするのが、この食堂含め、このあたりでは一般的作法だ。
食事を終えた後、トーヤはダラダラとお茶を飲みながらスマホを眺めていたが、即座に天気予報をチェックし、画面をカウンター越しの克真に突き付けてきた。
「ほら」
画面に並ぶ傘のマークを見て、思わず克真の鼻にしわが寄る。克真は傘を持ってきていなかった。あいにくと置き傘もない。
「マジかよ」
思わず恨み言をこぼしてしまった。
「ちなみにそろそろ梅雨いりすると思うよ。てか、俺という客がいるのに、暇とか口に出すのどうなの。暇ならもうちょっと俺の相手してよ」
「ごぼ天うどんでかれこれ二時間近く居座ってるやつは客扱いしない」
「ええーっ、ヒドイッ! 俺、客じゃないのっ!?」
ピシャッと言い放った克真に、トーヤの少したれた目が潤んだ。
トーヤは見た目スマートなイケメンの風体をしているが、じつはかなりの泣き虫だった。ちょっとしたことで涙目になり、茶色の瞳をうるうるさせる。
かなりイケてる外見と、そうじゃない中身がだいぶかけ離れていると克真はいつも思っているが、勤めているバーではそんな泣き虫トーヤ目当ての女性客が多いというから、意外だった。
(ただしイケメンに限るってやつか?)
そう思うのはいたってフツメンの自分のひがみだろうか。だとしたらそれもまた情けない気がする。
「うそうそ。別にいつまでもいていいって。マジで暇だし」
克真はベソベソとカウンターに突っ伏して泣き始めるトーヤを、慌ててなぐさめた。
トーヤが帰った後、誰もいなくなったカウンターとテーブルを改めて清潔なふきんで拭きあげる。手を洗い、腰につけていたエプロンを外してくるくると丸めると、いつも使っているリュックに押し込んだ。
「今日も一日、ありがとうございました」
誰が聞いているわけでもないのに、店を閉めるときはいつもそう口にしている。あやかしが集うビルで口にする言葉でもないかもしれないが、感謝の言葉は気が引き締まる。長い紐で首にかけたままの鍵をひっぱりだして引き戸の鍵をかけ、また鍵を服の中にしまい込んだ。
「はい、お疲れお疲れ……」
店の前に置いていた自転車をかついで階段をトントンと下りる。同じフロアにエレベーターはあるが、めったに使ったことはない。たまに買い出しで荷物が重くなった時に使うくらいだ。
「さて雨、どんなもんかな……」
小雨だったら自転車を飛ばして帰ればいい。そう思ったのだが、ビルの入り口で空を眺め、ため息をついた。
かなり激しい雨が視界を覆う勢いで降っている。
「こりゃ、チャリじゃ帰れねぇな……少しおさまるの待つか」
いかがわしいステッカーやチラシが押し込まれた郵便受けが並ぶ入り口で、克真は自転車を置くと、腕を組み、壁に寄りかかった。
克真の住まいはここ二十年くらいで開発が進んだ大名地区の一角の、祖母の持ち物の築二十年のマンションの一室だ。両親は健在だが克真が高校に入学した直後に離婚しており、それぞれ東京と海外で生活している。克真は一年前、祖母を頼ってF県にやってきたのだった。
だが母方の祖母は克真に住まいを与えるだけで、孫に一緒に住もうとは言わなかった。
『十六って、昔なら元服してる年だろう。自分の面倒くらい、自分でみな!』
そうピシャッと言い放ち、克真にマンションのカギを渡してそれっきりだ。
祖母と母は、実の親子だというのに恐ろしく気が合わなかったらしい。母は大学生になると同時に家を出て、結婚するまでほとんど帰らなかったという。だから克真は幼いころの祖母の記憶はほとんどない。
それでも克真は両親が離婚したとき、消去法で祖母を頼ったのだが、結果、『ひとり暮らししろ』と言われたのはひょうたんから駒というか、ラッキーな出来事だったのかもしれない。
「まぁ、だからこんなことになっているような気もしないでもないけどな……」
こんなことというのは“あやかし専門の食堂で働くことになった”ことだが、今さらあれこれ悔いても仕方ない。克真はそういうところが割とドライだった。現代の若者らしく、さとり世代というか、まぁしゃあないと受け入れて、日々をたんたんとこなすだけだ。
ざぁざぁと大きな音を立てて雨が降る。
風俗店や飲み屋、カラオケなどの仰々しい明かりが雨のカーテンの向こうで、ぼんやりと輝いている。
「……そういえば竜胆と出会ったのも、こんな雨の夜だったっけか」
雨の景色の中に、克真は竜胆と出会ったあの夜のことを思いだしていた。