余談の“ごまさば”は郷土の味
竜胆の秘書は、いつも黒いスーツを身にまとっている。左目を覆うように前髪を長くしている以外はいたって普通。黒髪に黒い瞳で、端整なたたずまいをした物静かな青年だ。そしてなにより人間の克真相手にも礼儀正しい。
竜胆と一緒にいるのだからもちろん一筋縄ではいかない人物なのだろうが、天神六丁目で出会うあやかしの中では一番克真の常識が通じる相手でもある。
(秘書さん助けてくれ~! 俺の命は今、風前の灯火なんだ!)
克真は天の助けと言わんばかりに目に力を込める。
その思いが果たして通じたのだろうか。
「おや」
彼は克真と美青年を交互に見比べた後、なにかを察したのか少し困ったような微笑みを浮かべた。そして優雅にすっと自然に克真と美青年の間に入り、軽く頭を下げる。
「若、ご無沙汰しております」
「――うむ」
そして優雅なその挨拶を受け、美青年は軽くうなずいた。
と同時にこの場に流れていた険悪な空気があっという間に柔らかく変化していく。それまでは“お前をいまここでくびり殺す!”といった殺気ムンムンだったのが、青年の注意は完全に克真から逸れて秘書へと向いていた。
(あれ……? もしかして知り合いだった?)
克真は秘書と美青年の顔をこっそり見比べる。
挨拶を受け、美青年は肩にかかる美しい黒髪を手の甲で背中に払うようにして流すと、
「――銀針。お前先ほどは、竜胆のところにはいなかったではないか」
と、少し不満そうにつぶやく。その表情はどこか拗ねたような物言いで、銀針と呼ばれた秘書と、この美しいがおっかない青年はかなり親しいとわかる。そしてこの青年は竜胆の客だったらしい。
それを受けて銀針は柔らかく微笑み、そのまますっと出口に向かって手を差し伸べた。
「若。立ち話もなんですし、お送りがてら近況をお聞かせください。少し見ない間にすっかり立派になられて、銀針も嬉しゅうございますよ」
「うむ……そうだな」
彼の言葉にすっかり機嫌をなおしたらしい。美青年は銀針に誘導され意気揚々とビルを出て行く。
(マジかよ……)
克真は自分のことなどすっかり忘れて、さっさと出て行く美青年の背中を呆然と見送った。出て行く途中、銀針が肩越しに振り返って軽く会釈してきたので、慌てて頭を下げた。
(助けてもらった……んだよな?)
彼が通りかからなければ克真は本気であの世行きだったかもしれない。そのくらい、美青年を怒らせたときは命の危機を感じたのだ。
(そうか……秘書さんは銀針さんというのか。今度会ったとき、お礼をしなくちゃいけないな……)
克真はホッと胸を撫でおろした。
とりあえず曲がってしまった自転車はよろず食堂の前に置き、首から下げている鍵で戸を開けてがらりと中に入る。パチパチと電気をつけてカウンターの中に入り、エプロンをつけたり手を洗ったりして身支度を整えていると、口の中の痛みや血の味が完全に消えたのを感じた。
殴られたときに負った傷は完治したらしい。
ホッとした克真だが、胸のもやもやは晴れない。
(今日一日で、女子に泣かれ、知らん男に殴られ、あやかしに殺されそうになるって……マジで厄日だな)
二度あることは三度あるというが、徐々にダメージも大きくなっていることを考えると、まったく笑えない。
「くそっ……」
とりあえず今日のまゆのことに関しては、アズサにもう一度確認しなければならないだろう。
(ったく……四十九日まであんまり日がないんじゃないのか? 大丈夫なのかよ)
焦っても仕方ないが、イライラがおさまらないので、克真はそれを料理にぶつけることにした。
「こういうときはうまいもんを食うしかねえ!」
そう、克真の場合、美味しいものを食べればたいていの悩みごとはなんとかなるのだ。
よろず食堂の冷蔵庫はいつもなにかで満たされている。基本的に克真が買い付けにいっているわけではないのだが、その時の旬の野菜や魚が入っていることが多い。
(もしかしたら銀針さんが手配してくれてるのかもしれないな)
実際彼は先ほど上から階段を使って降りてきた。よろず食堂に立ち寄ったと思えば、納得できる。
そしてキッチンの流し台の上には無地の発泡スチロールが置いてあった。蓋をあけて中を覗き込むと、丸々と太ったマサバがキラキラした姿を現して、克真は息を飲んだ。
「おおっ……これはもしやホンサバではっ!?」
克真の目も、サバ同様キラキラと輝く。
一般的にはマサバと呼ばれるが、博多の六月の旬のホンサバは脂がのって一番おいしい時期で、生のまま刺身で食べることが出来る。そしてそれをしょうゆベースのたれとゴマであえれば、この街のソウルフード的存在である“ごまさば”になる。
福岡ではごまさばは魚の種類ではなく、料理の名なのだ。
そのまま食べても当然うまいが、ごはんの上に乗せ熱い出汁やお茶をかければまた趣向が変わって美味である。最高の逸品といえよう。
(うーん、想像したらめっちゃ腹減ってきた……)
「よし、今日のメインはごまさばにしよう!」
腕まくりをし、米を研ぎ炊飯器のスイッチを入れてから、克真は包丁を握った。
サバを三枚におろすやり方は小学生の時に拾得済みだ。なぜ拾得できたかというと、近所の商店街の魚屋の大将が、克真を可愛がって包丁を教えてくれたからである。
ホンサバを取り出し、手際よく三枚におろす。残ったアラは捨てずにきれいに洗って密閉袋に入れて保存する。これで後日アラ汁を作るのだ。それから三枚におろした身の中央にある骨を骨抜きで丁寧に抜いていく。
(ぷりっぷりだなぁ~。脂がのってて身割れもないし。めっちゃうまそう……)
「ふふふふ~ん♪」
克真はご機嫌に下手な鼻歌をくちずさみながら、発泡スチロールからホンサバを取り出しては、どんどんと作業を進めていった。
ちなみに年齢をごまかすことを『サバを読む』というが、一説にはサバは鮮度が落ちやすいので、市場で売るときに急いで数を数えて売るので、その数が正確でないとか、そういった意味になったとか。
刺身で食べられるのはこの地では普通のことだが、東京に住んでいた頃は食べたことがなかったので、それを聞いてなるほどと思ったのだった。
すべてのホンサバの処理を終え、今度は琺瑯のバットの中に醤油、酒、みりん、しょうがを合わせたたれを作り、一センチ幅に切ったサバを入れて、菜箸でざっくりとあえる。後からわさびをそえるので、克真のたれは少し甘めに作るが、このたれの分量は完全に好みなので、食べる店、家庭によって味わいは違う。
作り立ても悪くはないが、少し味がなじんだ方が克真的には好みだ。というわけで、そのまま蓋をして冷蔵庫に入れる。あとは食べる直前にたっぷりのねぎとすりごまをふりかけて完成だ。
あとは本日の味噌汁としてじゃがいもと玉ねぎの味噌汁を作り、ご飯の炊ける匂いがしてきた。これで開店の準備は整った。
「よっしゃできたー。さて、のれん、のれんっと……」
壁に掛けてある時計を見ると、六時を十分ほど回っていた。
よろず食堂は六時の開店だ。
「やべっ……」
克真は慌てて、壁に立てかけていたのれんをつかんで店の外に出ると、すでに並んで待っている、人の姿をとったあやかしたちに、声をかけた。
「悪い、待たせた!」
たとえ人の姿がまやかしで、本体とは違っていても、彼らの笑顔は本物に違いない。
『待ちくたびれたぜー』
『今日もうまいもん食わせてくれよ!』
わいわいと騒ぎながら食堂の中に入ってくる彼らを招き入れながら、克真はのれんをかける。
「よろず食堂、開店でーす!」
ごまさば定食はよく売れた。二十食分を作っていたのだが順調になくなってしまった。トーヤがのんびりとやってきた八時には売り切れていた。
「うわーん……ごまさば定食ぅ~!」
完売の事実を聞き、トーヤはヨヨヨと泣き崩れながらカウンターに突っ伏した。
「いちいち大げさだな、お前……」
「なに言ってんだよ、克真ッ! そりゃ普通に嘆くでしょ! ごまさばだよ、ごまさば!」
「なに言われたってもう売れちゃったんだからしかたないだろ。俺だって食えてないし……」
出なければ自分の夕食として食べようと思っていたのだが、まさかの大人気で克真も味わえなかったのである。
「ううう……」
トーヤは涙目になった後、四人テーブルで黙々とごまさば定食を食べているほかのあやかしをジト目でにらみつける。だがにらまれたほうはそんなトーヤの視線をものともせず、最後の一口まで楽しんで完食し、「ごっそさーん」と、代金を払ってかろやかに出て行ってしまった。
残されたトーヤはさらに頬を膨らませて、完全に拗ねモードだ。
「一番の常連はミロとサナかもしんないけど、二番は俺でしょ……心の友でしょ」
たぬきは雑食というが、相当恨みが深いようだ。そろそろオーダーストップだというのに、注文もせず、ブツブツと文句を言っている。
「ったく……」
克真は苦笑して、カウンターから身を乗り出した。
「わかった。今度ホンサバ入ったら、トーヤの分とっといてやるからさ。それで機嫌直せよ」
「えっ、本当!?」
トーヤの顔がパーッと明るくなる。
「ほんとほんと」
「わかった、じゃあ許す」
てへへ~と笑うトーヤに、ふと克真はアズサに作ってやったアレを思いだした。
「あー、そうだ。ごまさば定食は無理だけど、さば繋がりでサバサンド作ってやろうか」
「さば……さんど?」
どうやら彼にも馴染みのない料理名だったようだ。とりあえず食べるというので、さっそく克真はトーヤのために野菜をマシマシにしたサバサンドを作ることにした。




