二度あることは三度ある?
天神六丁目は幽世の境界である。ゆえに現世の人間は足を踏み入れることが出来ない。おそらく警察官の目からは、克真は目の前のビルに入ったはずなのに、追いかけてみれば突然その建物自体を見失ったような、まさにきつねにつままれる状況になったことだろう。
(やっぱ、捕まるわけにはいかねぇしな……)
警察に補導されたらさすがに大問題だし、そのせいで祖母にマンションを追い出されて東京に戻れということになったら目も当てられない。
「いてて……」
克真は自転車を引っ張って、久しぶりにエレベーターの前に立つ。よろず食堂は二階なので、めったにエレベーターを使うことはないのだが、この状況はいたしかたない。
「今日くらいはいいだろ……」
克真はエレベーターを使うことを自分に許し、自転車にもたれたまま上に上がるボタンを押した。まもなく階数が点滅して、エレベーターが降りてくる。
このエレベーター、ビルの見た目に合わせて地下一階から六階までの表示になっているが、あくまでも克真が今行くことが出来るのがその範囲というだけで、このビル自体の構造とイコールではない。
克真が一度行ったことがある竜胆の部屋は体感的にはもっと上の階だったし、そもそもあの部屋に関しては、次元からしておかしかったので、現世の尺度などこのビルの中ではまやかしにすぎないのかもしれない。
ちなみに泣き虫イケメンのたぬきのあやかしのトーヤがアルバイトをしているのは地下一階のバーだが、階下にはフロアが広がっていると思ったほうが、克真的には納得できる。
それがこの天神六丁目ビルという場所だった。
「あ、来た来た……」
エレベーターが上から降りてきて、ドアの向こうで止まる音がした。
口の中で血の味がする。
(幽世だと怪我が治るのが早いって言ってたけど……さすがに秒で治るわけじゃないんだな……)
竜胆には、常々『血は流すな』と言われている。詳しいことはわからないが、あやかしにとって克真の血はあまりいい影響を与えないらしい。
(いい影響を与えないってなんだよ……失礼な)
そして悪影響だと言いながら、よろず食堂に克真を置く竜胆の魂胆が全く分からない。
(あいつ、なにも話さなさすぎなんだよな……)
克真は険しい表情をしながら、自転車のハンドルを握る手に力を込めた。
ウィーン……。
ガタゴトと音を立てながらエレベーターの扉が開く。さて乗り込もうと一歩足を踏み出したところで、ドンッとなにかにぶつかった。
「わっ……!」
克真は予期せぬ衝撃にそのまま後ろに倒れ込む。持っていた自転車も当然手を離れて、ガシャンと床に叩きつけられた。さらに打ち所が悪かったのか、前輪のスポークがぽきりと折れて、克真は目の前が真っ白になった。
「ああっ、俺の自転車っ……!」
思わず悲鳴を上げて自転車を引き寄せ前輪を覗き込むが、折れたスポークは見間違いでもなんでもなかった。
「ああ……やっちまった……」
がっくりと打ちひしがれたところで、
「――お前」
と、頭上からさわやかな一陣の風を思わせる、涼やかな声がした。
「へ?」
顔を上げると、エレベーターを一歩出たところに、目の覚めるような美青年がポケットに手を入れて立っていた。
年のころは二十代前半くらいだろうか。
顔は白く、唇は赤かった。眉は柳の葉のように細く長く、涼しげだった。
その目鼻立ちは一流の人形師が渾身の力で彫り上げたような美しさで、まさに人形のように整っている。さらさらと長い黒髪は額の真ん中できれいに分けられていて、そのまま青年の黒いスーツの腰のあたりまで届いている。
正直いって、竜胆以外にこんな美しい男を見たのは初めてだったので、克真は一瞬ビックリしたが、ここは天神六丁目だ。となればこの男もあやかしに違いない。
「すまん。俺の不注意だった」
克真はぺこりと頭を下げると、その場に立ち上がった。
「ふむ……そうだな。お前の不注意だ。ここが我が領地であれば、手打ちにしただろう。そうならなかったことを感謝せよ」
(ん……?)
一瞬、ナチュラルにディスられている気がした。
(そもそも俺だけが前方不注意だったわけじゃねぇだろ……こっちは自転車の針金折れてるんだぞ……修理するのに金がかかるんだぞ!)
ムカッとしたが、一方で克真の冷静な部分が、そんなことでいちいち引っ掛かってはいけないと警告する。
(ああ、そうだ。だってこいつ、人間じゃないしな……そう、怒っちゃダメだ……俺の命がいくつあっても足りないっつーの……!)
人間に殴られてもケガで済むが、あやかしに殴られて無事でいられる気がしない。見た目は人でも、中味は違うのだから。
短気は損気だと、自分に言い聞かせながら、克真は無理やり笑顔を作った。
「はは……どうも」
(我慢我慢……めっちゃ我慢しろ、俺……!)
エレベーターを出て三メートルも歩けば、ビルの玄関だ。そしらぬ顔をして見送ればいいだけだ。そんな葛藤の中で笑顔を浮かべる克真の横を、青年はそしらぬ顔で通り過ぎようとしたのだが――。
「――ん?」
ふと立ち止まって、不思議そうな顔をした。
この場の空気の異変に気が付いたようだった。
「この馨しき甘露の香り……」
ポケットに手を入れたまま、青年は黒く長いまつ毛を伏せ、すん、と鼻を鳴らす。それからいざ、エレベーターに乗り込もうとしていた克真を振り返った。
「……おい待て」
まさか自分が呼び止められるとは思わなかった克真は、そのまま慎重に自転車のハンドルを握ってエレベーターに乗り込もうとしていたのだが。
「おい、聞こえんのか」
ぐいっと着ていたカットソーの首をつかまれて、よろめいた。
その反動でまた自転車が克真の手を離れ、ガシャンと床に叩きつけられる。今度はスポークが折れたどころではない。確実に歪みが生じていた。克真はあんぐりと口を開け、
「ああーーーーっ!」
と、絶叫していた。
「なにしてくれるんだよっ!」
カーッと頭に血が上った克真は、青年の手を振りはらった。
「呼び止めても立ち止まらないお前が悪い」
手を振り払われた青年は憮然と
「いやいやいやいや……!」
まさかの責任転嫁に克真は眩暈を覚えた。
「今のは完全にお前が悪いだろ!」
「私が悪い? なにを言う」
青年は詰め寄る克真を見て、意味が分からないと言わんばかりに美しい眉をひそめる。
「ああ……わかったわかった。そのような地を走る下賤な乗り物などどうでもよいが、弁償せよというのなら、してやろう。あとで請求書でもなんでも送ってくるがいい。だがその前に私の質問に――」
プチン。
その瞬間、克真の中で完全に、何かが切れる音がした。
「なんなんだ、その態度は! てめぇ、それは人に謝ろうってものの言い方じゃねぇぞ!」
克真はさらに自分より十センチ以上背が高い彼に向かって突っかかっていく。
「黙って聞いてりゃ、自分の前方不注意を棚に上げて手打ちにするとか、なんとかかんとか偉そうに! なんなんだ、我が領地って、てめぇどこの王様だ!」
「王ではないが、私は黒羽衆の御曹司だ」
克真のマジ切れに青年は怪訝そうに応えるが、それは克真の怒りに火を注ぐだけだった。
「はっ!? クロバネシューってどこのシュークリームだよ、知るかっ! 俺はな、その上から目線、あーーーんどっ、金を払えばいいんだろって態度が気に入らねえって言ってんだ! 御曹司ってのがどんな豪勢なご身分かは知らねぇけど、悪いことしたら相手は誰であっても、謝れ! 謝ったら負けみたいなのは、大人としてどうかと思うぞ!」
その瞬間、青年の目の下あたりが、サッと気色ばんだ。
「おのれ……黙って聞いていれば、下賤の身で……!」
青年の黒い瞳の瞳孔がギュッと小さくなる。艶やかな絹糸のような黒髪が、風もないのにふわりとなびく。
(あ……やべぇ……)
克真は変わりゆく周辺の空気を感じ、とおりすがりの縁もゆかりもないあやかしを怒らせるという、一番やってはいけないことをやってしまったのだと気が付いたのだが――後悔先に立たず。
「あ、いやえっと……なんていうか……何事もお互い様だっていう気持ちを忘れないでいたいねっていうそんなあれで……」
克真はアハハ、と渇いた笑い声をあげながら、後ずさる。
(こうなったら自転車は捨てて、今度は外に逃げるしかない!)
もしかしたらまだ警察官がいるかもしれないが、さすがに命までは取られないだろう。
そう決意してごくりと息を飲んだところで、
「克真さん?」
エレベーターの横の階段から、聞きなれた声が聞こえた。
「あっ……! 秘書さん!」
その姿を見て、克真は思わず歓喜の声を上げた。
まさに天の助けとはこういうことを言うのだろう。
黒のスーツ姿の竜胆の秘書が、不思議そうな顔をして降りてきたのだった。




