それがあやかし食堂に来た理由
「なぁ、北見」
「アズサって呼んでよ」
目じりが吊り上がった大きなネコのような瞳にまっすぐに見つめられ、心臓が跳ねた。
「よっ、呼んでって……おまっ、そんな、女子を名前でなんか呼べるかよ!」
反射的に思わず大声で叫んでしまっていた。情けないと言われればそれまでだが、克真は女子の名前を呼び捨てるようなリア充っぽいことには不慣れなのだ。
「あ、そうなんだ。彼女しか名前で呼ばないタイプなんだね」
なのにまたおかしなことを言われて、全身にものすごい速度で血が巡っていくのがわかる。
(はー??? なんでそんなことになるんだ!?)
「そ、そ、そんなんじゃねーしっ……」
しどろもどろになる克真だが「ちなみに今彼女はいるの? どういう子?」と、アズサは畳みかけてくる。
(嫌がらせか? 嫌がらせなのか??)
「どういう子もなにもいねーよ、てか、いたことねーよ!」
気が付けばついノリで、彼女がいたことがないことを自ら暴露してしまっていた。
言わなくていいことを口にしたと気が付いたのは、「ふーん」と、アズサが指に髪を巻きつけながら微笑むのを見てからで――。
(ああもうっ……なんで俺、女子に翻弄されてるんだよ……)
アズサの含み笑いにどうしていいかわからなくなりながら、「はぁ……」と深くため息をつくしかない。
「もーっ、そんなため息つかなくていいじゃん。そんな深い意味はないけどちょっと気になったんだもん……坂田ってどんな女の子と付き合ってるのかなって」
(こいつ、わかってからかってやがるよな……)
意味はないと言いながら、どう見たってアズサは克真の反応を楽しんでいる。
「お前なぁ……」
「まぁ、いいじゃん。見た目によらず、ピュアなんだね、坂田って。イイヨイイヨー」
ピッと親指を立てられ、更に意味の分からないことを言われる始末だ。
「見た目によらずって、なに言ってんだ。見た目通りだろ」
自分がまっっったくモテないことは子供の頃からよくわかっている。スクールカースト上位だったアズサにそんなことを言われても虚しくなるだけだ。そもそもお世辞を言われる意味が分からない。
克真は中指で黒ぶち眼鏡を押し上げながら首を振った。
「いや、そうはいうけどね。ぶっちゃけさ、素材は悪くないよ、あんた。体引き締まってるし、顔小さいし、よくよく見れば目鼻立ち全部のパーツが整ってるし、配置もいいもん」
「いや、だから……」
だがアズサの目は真剣に、カウンターの向こうに立つ克真を吟味している。
「結局本当の美形って、全身のバランス、そしてパーツの完成度とその配置で決まるからね。今のあんたの足を引っ張ってるのは、そのぼっさぼさな髪と、ダサい眼鏡と、ダサい着こなしと、猫背だわ」
「――」
一瞬考え込む克真だったが、
「すげえ! ディスられた記憶しか残らねぇ!」
悪口だけがぐっさりと克真の胸に突き刺さっていた。
(辛い。辛い。辛すぎる……心臓が痛い……)
「あ、そう? ごめんごめん。許してニャン」
アズサは胸のあたりを抑えてうつむく克真を見て、にこにこ笑っている。許してと言いながらも、まず悪いと思っていなさそうだ。
克真はまた「にゃんじゃねぇよ……」とうなだれた。
(てかさー、女子に名前で呼んでほしいと言われたら、どんな男だって勘違いするだろフツー。勘違いしないやつはかなり遊んでるやつに決まってるぜ……あーっ、くっそ、今絶対俺顔赤いわ!)
自分の経験値の低さを嘆きながら、それを必死で振り切って、克真はカウンターに身を乗り出してアズサを見据えた。
「よしっ! 話を戻すぞ。あのさ、北見、お前、なんでここに来たんだ?」
「なんでって?」
きょとんと首を傾げるアズサ。
「だからさ……お前が死んだのは約一か月前だったよな。ということは四十九日たってないってことだ。お前はまだ正確に言うとあっち《・・・》に行ってない」
「――それは」
アズサは何かを発しようとしたが、結局言葉を選びきれなかったらしい。きれいにグロスを塗ったピンクの唇を一文字に引き結び、無言になった。
そもそも人は死後、亡くなった日から七週間、四十九日はこの世とあの世を彷徨う。その期間は死後の人間にとって新しい命へと生まれ変わる準備期間で、本来ならアズサはこんなところをうろついてる場合ではないのだ。
「ここ……よろず食堂が入ってる天神六丁目は、あの世……幽世の一部だ」
克真はうつむくアズサの長いまつ毛のあたりを眺めながら、さらに言葉を続ける。
「俺も詳しいことはあんまわかんねぇけど、普段生活してるこの世……現世とは対になる、基本的には交わらない場所。それを幽世って呼ぶ」
「……」
「でもこのビルそのものは、幽世と呼ばれる死後の世界の……常にギリギリ端っこあたりに存在してるらしい。だからここは幽世に繋がる門でもあり、壁でもあり、なんて言ってたかな……まぁ、場合によっちゃあ普通の人間であるはずの俺が出たり入ったりできる、ちょっと変わった結界でもあるんだと……このビルのオーナーが言ってた。だからあやかし以外にも、たまにだけど……お前みたいな存在が迷い込んでくることがある」
「――あたしみたいなの、来たことあるの?」
そこでアズサが少し驚いたような表情になった。
「ある」
克真はこっくりとうなずいた。
「そいつはお前と違って完全に幽霊で、いわゆる特定の場所に憑く地縛霊ってヤツだったけど、あやかしじゃない。もとは人間だった」
「地縛霊かぁ……ふむ」
アズサは両手で頬杖をついて、またなにかを考えるように思案顔になる。
「で、坂田は地縛霊にどうやって成仏してもらったの?」
「別に……特別なにかしたわけじゃねぇよ。ちょっと話聞いて、一緒にメシ食べたら、『楽になった』って、成仏していった」
「ふふっ……」
「笑うなよ。まじめに話してるんだからな」
克真はムッとしながら反論していた。
そう、あれは半年前。竜胆に無理やりよろず食堂をまかされてから、数日後の夜だった。そして克真にとって、とても大事な、竜胆から無理やりやらされた状況ではあるがそれだけじゃない。食堂で働くことの意味を学んだ夜だった。
そんな夜がこの半年の間に何度かあり、克真はよろず食堂で働くことは自分の意志ではなかったかもしれないが、意味があることだと納得するようになったのだ。
(てか、そうとでも思わねぇといくらなんでも情けなさすぎるしな!)
実際、常連客のあやかしからしたら、克真は『あの竜胆夜壱に借りをつくったせいでタダ働きさせられている一風変わった人間』という事実は変わらないのだが――。
自分がどう思うか、どう感じるかが大事なのであって、他人の評価は二の次だ。
それが克真の人生訓でもあり処世術でもある。
「ごめん。そういう意味で笑ったんじゃないよ。坂田をバカにしたんじゃない」
アズサは軽く首を振って、それから頬杖をついていた手を膝に乗せ、克真をまっすぐに見つめた。
「あたし、どうしても心残りがあって。だからあちこちうろうろしてたの。それが解決されない限り、成仏なんてできない」
「それは……」
成仏できないとアズサは口にしたが、四十九日を超えて現世にとどまるということは、霊魂として彷徨うことだ。今は人として、女子高生の姿を残してはいるが、その後も姿を保っていられるかはわからない。それは克真がかつて出会った地縛霊だった人から教えてもらったことだが、とても危険なことらしい。
「――助けてほしいんだ」
絞り出すようなアズサの声は、かすかに震えていた。
「助ける?」
「うん……もう、あんたにしか頼めない」
「俺にしか?」
アズサは克真の問いかけに静かにうなずいた。




