プロローグ
聖武天皇の時代。
大和の国十市郡あむち村の東、鏡の作造の女
名を万の子と呼ばれた女
顔かたち端正しく
高姓の人よばうにてなお否みて年を経たり
食ってやろうと思った。
国中からその美しさを持て囃された女を
身分問わず、多くの男を誰ひとり受け入れず、拒み続けているというその女を
頭からぱくりと
血の一滴も残さずに
食えばこのイライラもおさまると思ったのだ
あの女を食らってしまえば――
「お前が万姫か」
月も照らさぬ夜。鬼の呼びかけに、御簾の中で体を丸くしていた女はゆっくりと体を起こした。姫は枕元に座る鬼を見て、悲鳴の一つでも上げると思ったが無言だった。まるで鬼がここに来ることがわかっていたかのように静かだった。
墨よりも暗い闇の中で、姫は真っ白で小さな手で、額にかかる黒髪を払い、耳にかけた。たったそれだけの動作で、彼女の体臭らしい、かぐわしい麝香の香りが周囲にふわりと漂う。
その瞬間、強烈な食欲が腹の底から沸き起こってきて、鬼は、ごくりと喉を鳴らした。
――これは本物だ。男だけじゃない、生きるものすべてを引き寄せる、魅了の力だ。
海の向こうの大陸でも、体から香りがする人間は貴重で、仙人になれる素質があるというが、まさにこの女はそのたぐいだ。これは噂にたがわぬ極上の女だ。食えば百年、いや、それどころではない、千年の命を得ることが出来るだろう。
「万姫よ。俺はお前を食いに来たのだ」
鬼は情緒たっぷりにささやいた。
鬼が饒舌なのは珍しい。姫の声が聴きたかったのかもしれない。
さぁ、泣くがいい。叫ぶがいい。こんなことになるのなら、えり好みせず、男に囲われてしまったほうがずっとよかっただろう。これも多くの男を袖にし続け、恨みを買ったた報いだと、わが身の傲慢さを嘆くがいい……。
だが――鬼の予想は外れた。
「――待っていました」
女は泣かなかった。それどころかホッとしたように笑ったのだ。
誰もが触れたいと思うような、ぽってりとした赤い唇に微笑みを浮かべ、涼しげで、雅な、切れ長の目を細めて、漆黒の目で鬼を見つめ、そしてその手を、伸ばしたのだった。
「さぁ、どうぞ。私を食べてください」
人を攫って食うのが鬼。
それをかく鬼とはいふなりけり……。
月の子、万の子、そしてその子供たちへ――