夜想
ベッドの上に座り、壁に深くもたれかかっていた。整理整頓された勉強机に自嘲い、床にちらばった物衆に微笑む。夜風にひるがえるカーテンをふっと掴むと、それを両手で一気に開いた。
少し冷たい「あいつ」は俺の期待を落胆へと変えた。柔らかくあたたかい彼は冬の寒さに備えて飛び立ってしまったらしい。空を見上げるも煌くものは無く、薄気味の悪い月の光だけがぼんやりと町を照らす。窓とカーテンを締め切り、それを遮ると床に目をやった。漫画本に埋もれたのを掻き分けるとチェーンが音を立て姿を現してくれたので、チェーンの付属品から1000円札を取り出し、ポケットに入れた。薄汚れたパーカーをひっつかんで身体にまとうと、廊下を進み、重い玄関の扉を開き、歩く。
足音と、足音。足音も聞こえた。頰を触りながら後ろを見てみると舌を出した犬、その後ろには3歳くらいの子供と、その姉らしき人物の影があった。前を向き直す。歩みを速めると、何故だろうか。もう後ろを振り返ってはいけない気がした。それは彼らに霊的な何かがあるとか、そう言う事ではない。彼らの姿に安心感のようなものを覚えるとともに、その安心感があってはならないと強く思った。いや、それは錯覚なのかもしれない。そんな事を考えながら、俺は競歩選手の如く回る自分の足を見つめていた。
10分程歩き、一軒のラーメン屋に入った。
最近出来たばかりの店だ。とは言っても、ここの店主は元々別の場所で店をやっていて、俺はそこの常連だった。移転のお陰で少し家から店が遠くなってしまったのが傷だ。まだ真新しい扉をゆっくり開けると、東南アジア系の店主とアルバイトっぽい兄ちゃんが、控えめな声で「いらっしゃい」と一言。
店の方針でこのような接客をしている訳ではもちろん無いと思うが、俺はこの雰囲気が好きだった。誰にも気を使う必要はない。一心不乱にラーメンをすする事は俺の心を「無」にしてくれた。
カウンター席に座った。
「すみませーん」と俺。兄ちゃんは他の客の会計をしていたから、少し怪訝そうな顔で「しばらくお待ち下さい」と言う。
「ごめんなさい」と少し苦笑しながら謝ってみた。
兄ちゃんが来た。
「こちら、おしぼりです」
「あ、ありがとうございます」
「注文はどうされますか」
「餃子セットで、ラーメンはこってりの並で」
「ライスはどうなさいますか」
「あ、ライスは大丈夫です」
「かしこまりました」
今日はこってりで攻めてみようと思った。
暇を潰そうと思った。スマートフォンの電源を付けて、待ち受けの飼い犬たちに微笑むと、お気に入りのソーシャルゲームを開く。
かなり厳しい局面であった。夕方、ボスの決め球をもろに受けてしまったが、紙一重のところでなんとか耐えた事を思い出した。次、ボスの攻撃をまともに受けたら必ず負ける。かといって、体力を十分に回復する術もない。唯一の勝機は、攻めて攻めて攻めて攻める事にあった。
無論、寸分の狂いもなく自分の攻撃計画を実行する事が絶対条件であった。
彼が攻撃するまで残り3ターン、小さなミスでもそれは「死」を意味する。
1ターン目、スキルを使って攻撃態勢を整える。残り2ターンで、ボスをフルパワーで殴り続けるためだ。
2ターン目、ボスに狙いを定める。汗で手が滑ってしまいそうだ。一旦、スクリーンから手を離して厨房を見ると、店主が湯切りをしていた。パーカーの下の方で手汗を拭き、再び画面に目を落として、考える。
そのまま考え込む事約1分、意を決して、攻撃に移った。
決まった。
痛恨の一撃をボスにお見舞いし、彼は画面の下に沈んでしまった。予定より早く終わってしまった嬉しさか、勿体無さか。どちらかよく分からないモノを噛み締めながら、スマートフォンの電源を落とす。一瞬やつれた顔が画面に映ったのを目にして、兄ちゃんがくれたおしぼりを急いで掴むと、それで顔を拭いた。スマートフォンの電源を再び入れ、内カメラで自分の顔を確認していると、
「おまたせしました」という声。急いでケータイの電源を落とし、兄ちゃんが持っている餃子とラーメンだけに目線をやって、ちょこちょこお辞儀しながらこれを受け取った。
この店の少し大きめのレンゲが好きだ。これでスープを沢山汲んできて口の中に運ぶ。カウンター席に置いてあったニンニクと高菜をこれでもか。と言う程入れる。夢中でラーメンをすすった。こってりが胃に積もってゆく。高菜のピリ辛と、ニンニクの香りが刺激を強くする。市内でも「こってりが過ぎる」と有名なこってりを、僅か3分程で平らげてしまった。立派な羽のついた餃子の上にタレを一周垂らし、箸で掴んだかと思うと、これも自分でさえ驚くようなスピードで食べ終えた。
立ち上がると頭がふらついたし、こってりラーメンのお陰で少し気分が悪かった。レジに向かい、会計を済ます。ドアを開ける前に後ろを見ると、店主もこっちを見ていたから、軽くお辞儀をして出ていった。
少し冷たい「あいつ」が虚しさを助長する。
「家に帰ろうか」
「行かなきゃ」
「だよな」
家とは真逆の方向に歩き出すと、ゆっくり歩き始めた。
電柱の近くに来た。花束が一つ。涙が溢れる。
「あいつ」のために、生きて行きたかった。
守りたいものは、わかっていた。残酷な時の流れが何を連れ去ろうと。
そのとき、ふとケータイが鳴る___
「お、出てくれた!久しぶり〜」
「お前か。話したのなんか何年ぶりだろうな」
「そんなことよりさ、明日ハナの親父さんが家でバーベキューするらしくてさ、お前も来て欲しいってよ〜」
「そうなんだな。まあ、考えとくな」
「相変わらず釣れないねえ〜。まあ、気が向いたら来いよ!」
涙を拭った。夜空を見上げると、一輪の星が咲いていた。
星になりたい。なんて、初めて思った。