189 海の魔物
空が準備をした船は帆に風を受ける振りをしてこっそりとエンジンを始動した。
「微速前進! 進路を東にとれ!」
空船長が真面目くさった表情で出発の合図を送ると帆船『ガチホモ丸』は静かに動き出す。5ノット程度のゆっくりとした速度で動き出した船は沖合いの十分な水深の海域に出てから、東向きに大きく回頭していく。
この日は風も波も穏やかで、波による揺れが少なかった。決して波しぶきを上げて進むという速度ではなくて、遊覧船のように優雅にその船体に朝日を浴びて海上を進んでいる。
「空、音声だけで操縦できるのか?」
空船長の隣でその様子を見ているタクミはこの船のメカニズムに興味を抱いている。何しろ彼らの惑星が現段階で達成している科学技術をはるかに上回る秘密が満載なのだ。
「説明を求めるなら、この船の名前を言ってからにしてほしい」
空はニヤニヤしてタクミに要求を突きつけた。彼の口から『ガチホモ』という言葉が出る瞬間を心から楽しみにしているようだ。腐女子たるものどのような機会も無駄にしないで、自らの欲望に忠実に生きるのだ。本当に3000年後の地球の人々はこのような性格の人物に全てを託して良かったのだろうかという素朴な疑問が彼の胸中に湧きあがる。
「空、お前は本当に3000年後の地球人類最後の生き残りなんだよな?」
「それは話した通り、私の使命と趣味嗜好については全く別の問題! それよりも早く船の名前!」
空の意識の中で彼女が背負っているものについては完全に割り切が出来ているらしい。それはそうだろう、あのような一人で背負うには大き過ぎる何百万人の最後の希望を叶える事だけに全てを費やしていると、それだけで普通の人間は神経が擦り切れてしまう。タクミにしてもそのような重荷を背負い切れるかと問われれば、全くその自信を持てなかった。だが彼は自らの祖国を裏切るという重たい十字架の意味を考えれば、空に匹敵する大きなものをいずれ背負うことになるのは間違いない。
「いや、どうしても知りたいわけではないから遠慮しておく」
「どうしてタクミは肝心なところでいつも一歩引く!」
空の言葉通りにタクミはあっさりと引いた。彼は『お前の妄想のネタになりたくないからだ!』と声を大にして言いたいところだったが、空の機嫌を損ねると拙いので曖昧に誤魔化した。それでも彼女は大いに不満なようで『この償いは夜ベッドの中できっと果たしてもらう』と、タクミにわざと聞こえるような声でブツブツとつぶやいていた。
「それよりもそろそろ港が近づいてくるから注意しろよ」
「仕方ない、タクミは前方で視認による監視をしてほしい」
遠くにおぼろげに港らしき風景が見えてきたこともあって、付近を航行する小船などをうっかり見逃さないように空船長はタクミに指示を出した。タクミはその指示に従って操舵室を出て行く。それとは入れ違いに今度は船長の所に紀絵がやって来た。
「空ちゃん、あれを貸してください!」
いつもはあまり自分から意見を言わない紀絵が目の中にキラキラな星をいっぱい浮かべてしきりに空に頼んでいる。紀絵は海に向かうことを聞いて空が自分の要望に叶う品を所持しているという情報を確認済みだった。
「仕方がない、それは今から200年後のビンテージものだから大切に扱ってほしい」
空が収納から取り出したのは未来の地球産の釣り道具一式だった。どんな大物が掛かっても絶対に折れないカーボン製の釣竿が2本とリールに仕掛け等が全て揃っている。それを見た釣りガールの興奮度合いはマックスを振り切った。
「空ちゃん、これって凄い竿にリールですよ! ありがとうございます、絶対に大物を釣り上げてみます!」
空は紀絵の言葉に中で『竿』という部分に一瞬反応しかけたが、その顔はあくまでも平静を装っている。何気ない言葉の一部を切り取って妄想の種にするのは彼女の得意技だ。エロの前では使命のことなど吹っ飛んでいるかのようだ。
こうして紀絵は釣り道具一式を手に船の艫の方に歩いていく。船が動き出してから彼女は美智香と一緒に潮の流れや海面の色の変わり具合などを観察していたのだった。そして頃合も良しと判断してから空の元に出向いていた。
「美智香ちゃん、借りてきましてよ」
艫には座席が用意されており、美智香はそこに座って待っていた。
「私はそれほど釣りがしたいわけではないのに」
「まあまあ、そう言わずに! 湖でも結構楽しんでいたでしょう」
「それは否定しないけど」
両者の釣りに対する情熱には若干の温度差があるものの、船の上ではほかに娯楽もないので美智香も紀絵に付き合うことに賛同していた。
「今回はこれが餌の代わりです!」
道具の中にあった小魚を模した20センチくらいのルアーを手にとって美智香に説明する紀絵の表情は本当に生き生きとしている。タクミの前でもまだ恥ずかしそうにする姿が多い彼女が見せる一番輝いている姿だ。
「ふむふむ、ニセの餌で魚を誘き出すという訳か」
美智香は説明を聞きいて納得しながら紀絵に手伝ってもらって仕掛けの準備を終えた。
「じゃあいきますよ!」
二人同時に海原に向かって糸をたらす。船はゆっくりと前方に進んでいるので遠くに投げなくても釣り糸を伸ばしていけば自然と仕掛けが船の後方に流れていくのだ。
「海にいる魚から見ろとると、小魚がゆっくりと泳いでいるように見えますからね。どんな獲物が掛かるか楽しみです」
異世界での本格的な海釣りにワクワクしている紀絵と『話しの種になるかな』程度の気楽な表情の美智香。釣竿は座席の固定具にしっかりと固定してあとは魚が掛かるのを待つだけだ。
「美智香ちゃん、早速掛かりました!」
紀絵の竿に獲物がヒットする。竿がしなって魚が掛かる合図が伝わった。紀絵は慌てずに獲物がより深くルアーを咥え込むのを待っている。
「いまだっ!」
すばやく固定具から竿を離して体全体の力を使って竿を大きくあおる。確かな感触が彼女の手に伝わり、リールを巻き上げると60センチくらいの小さめのマグロに似た魚が上がってきた。
「最初の当たりにしてはなかなかいい獲物が掛かりました!」
5キロぐらいある魚を抱えてご満悦の紀絵、どんな獲物でも釣れれば嬉しいのだ。慣れた手付きで釣り上げた魚を絞めて、美智香が収納にしまい込む。
「今晩タレちゃんに料理してもらいましょう!」
日本とは違うので生で食べられるかどうかは微妙だが、岬のことだから様々な魚料理のレパートリーを持っていることだろう。その上釣りたてを収納にしまい込んだので鮮度は抜群だ。今宵の夕食を楽しみにしながら、再び釣り糸をたれる紀絵だった。
その後も両者の釣竿には次々に獲物が掛かった。殆どが最初に釣り上げた小型のマグロに似た魚だったが、中には緑や赤の原色の鱗に覆われた魚が掛かった。気味が悪いので空に鑑定を依頼したところ『デビルフィッシュ、海の魔物で食用可能。見掛けに寄らずに美味』という結果が出た。当然ながら海には魚だけではなくて陸地同様に魔物が居るのだった。
そしてかなりの釣果を挙げてそろそろこの辺で終わりにしようかというその時に突然紀絵の竿が大きくしなった。実はこの時すでに彼女の竿には獲物が掛かっていて、それを釣り上げようとした最中にその獲物に食いついた特大の何者かが居たのだった。
「これしきの引きに負けてたまるかー!!」
突然体ごと持っていかれる程の大きな引きに紀絵は瞬時に身体強化を発動して両足に力をこめて踏ん張る。それでもまだ相手は紀絵を海に引っ張り込もうと力の限り抵抗する。
「まだまだここからが勝負の始まり!」
彼女はさらに3回身体強化を重ねて、極限まで自己のパワーを高めた。ようやく両者の力が拮抗して船の上と海の中の綱引きが始まる。当然空が準備した道具一式は全く問題なく力の限り引き合う両者を繋いでいた。
船ごと引っ張ろうかという勢いに驚いて空は一旦船を停船させて、タクミは監視を中断して紀絵の所に駆け付ける。そこには必死の形相で『絶対に負けない!』と竿を引く手に力をこめる紀絵の姿があった。彼女は圭子からその負けず嫌いの性格までこのところの鍛錬で大きく影響されていた。その上に、自らの最大の趣味に関してここで怯んではいけないという強い思いがある。その両者が噛み合って未だに姿を現さない敵に絶対に負けられない戦いを挑んでいるのだった。
「紀絵、大丈夫か?!」
タクミが声をかけるが彼女は返事をする余裕すらなかった。その後も両者の力比べは続いたが、苦しくなってきた相手が海面から大きくジャンプをした。
「あれはシーサーペント!」
美智香がたまたまギルドで手にした『うみのまものずかん(子供用)』に記載されていた特長とそっくりだった。その体長は5メートル以上で上下の顎からは獰猛な牙を生やしている。その牙を突き立てられると普通の木造船ならば噛み砕かれてしまいそうな恐ろしさだった。
「美智香、電撃は止めておけ! 紀絵が持っている竿はカーボン製だぞ!」
魔物の姿を見た瞬間にタッチパネルを展開した美智香を止めるタクミの声が響く。下手に電撃を放つとカーボン製の糸や竿を伝ってその電流が紀絵にまで届く可能性が高いのだ。その声に美智香はやむを得ず手を止める。
「手出し無用! こいつは私の獲物!」
紀絵の声が響く。アドレナリンが大量に分泌されているようで、普段の大人しい姿をかなぐり捨てて口調がまるっきり師匠の圭子とソックリになっている。意地になったように彼女はさらに限界を超えて自らに身体強化を2回重ね掛けして左手で竿を握り締め、余った右手は腰のホルダーに伸ばす。全身の筋肉が悲鳴をあげる中で、震える手でボウガンを手に取った彼女は『次に海面から出て来た時が勝負』と狙いを定めようとするが、その気持ちとは裏腹に中々上手くいかなかった。
「無理をするな、俺が力を貸してやる。俺は紀絵のボウガンの先生だぞ!」
タクミは震えて照準が定まらない紀絵の右手に自分の左手を重ねる。その言葉に彼女はハッとすると同時に、タクミから射撃の基礎を習った日々のことを思い出した。一旦目を閉じてから再び両目を見開いた紀絵は横目でタクミを見る。
「先生、どうか力を貸してください」
その口から素直な言葉が出る。ようやく冷静になった彼女は『これは釣りではなくて魔物退治なのだ』と考えを切り替えたのだった。
そしてついにその時はやって来た。再びシーサーペントが海面から飛び出したのだ。それも船の間近まで迫って船体に飛びかかろうとしている。
「今だ!」
紀絵がタクミの声にあわせて銃爪を引くと、ボウガンから発射された矢はシーサーペントの頭から首、胴体までを音速を超える速度で貫いていく。
「ギュオーーーー!!」
その口からは最後の足掻きにも似た咆哮が聞こえたが、体中の何十箇所も穴を空けられたシーサーペントはついに海面に力なく横たわった。
「やった・・・・・・」
極限まで力を使い果たした紀絵はその姿を見届けて力無くその場にへたり込むのだった。
次回の投稿は土曜日の予定です。