160 女子たちの留守番
空が伯爵邸で治療を行っていた頃、一行が宿泊している宿の周囲は柄の悪い男たちがしきりにうろついていた。ある者は通行人を装って何度も通りを往復し、ある者は建物の影に身を潜めて様子を伺う。
ギルドマスターの声掛りでギルドに所属する冒険者たちはドラゴンを連れたタクミたちがAランクのパーティー『エイリアン』だと知る所となって手出しを諦めたが、そうではない者、例えば街のゴロツキや犯罪者たちにその話しは伝わっていなかった。
見る者が見ればバレバレの姿なのにまったく気づかれていないと思い込んでいる拙い偽装工作をしながら宿を監視している者たちは、早い時間にタクミと空が伯爵家の馬車に乗り込んで出掛ける姿を目撃していた。
彼らは焦った。自分たちの基準でしか判断出来ない男たちはてっきりタクミがドラゴンを売るための交渉をしに伯爵邸へ赴くと思い込んだのだ。もしその交渉がまとまってしまうと、自分たちが入り込む余地が無くなる。それまでに何とかドラゴンを入手したい、その思いに駆られて複数のグループが仲間を募って何とかドラゴンを手に入れる方法はないかと張り込んでいるのだった。
その様子を部屋のカーテンの隙間から覗き見てニンマリと笑う者が居る。言わずと知れた圭子だ。気配に敏感な彼女は宿の周辺の様子がおかしいことにとっくに気が付いていた。そのため彼女は今朝の鍛錬を入念に行っていた。いかに殺さないように手加減するかの鍛錬が中心で、彼女の中ではすでにヤル気充分だ。
「じゃあちょっとその辺を一回りしてくるわ」
そう言い残して部屋を後にする圭子、彼女が何をしに行こうとしているか大よその見当が付いているメンバーは特に止める様子は無い。
「行ってらっしゃい!」
相変わらずベッドに寝転んでマンガ本を見ている春名がその姿も見ないでゆるい見送りの声を掛ける。彼女だけは圭子がこれから修羅の世界の住人になるとはまったく気が付いていない。お花畑の頭で散歩に出るものと思っているのだ。
宿の入り口を出た圭子は素早く周囲を一瞥する。その右手は大地の篭手、左手は手加減用のオープンフィンガーグローブだ。これでどれだけの加減になるか彼女にも自信はないが、即死はしないだろと楽観的に考えている。
「全くゴキブリみたいにゾロゾロ居るわね」
誰にも聞こえないような小声でつぶやく圭子、大嫌いな虫の中でも最大の敵に例えるあたりに彼女の心境が窺える。取り敢えずはタチの悪い連中を目立たない所に引き付けて一網打尽にしようとわざと人気の無い路地に無警戒を装って入り込んで行く。
「まんまと引っかかるわね」
彼女の思惑通りに付かず離れずに男たちが後を付いてくる。一人で無用心に出歩く圭子の姿を見て彼らの心は決まった。彼女を誘拐して身代金代わりにドラゴンを要求しようという方針だ。懐の武器に手を掛けながら後ろから圭子に迫る男たちだが、彼らの手が届く前に圭子が振り返った。
「何の用なの?」
当然自分にどんな用事があるのか承知していながらスッ惚けて尋ねる圭子に男たちは完全にこっちのものだと思い込んでいた。
「へへへ、悪く思うなよ。ちょっとの時間俺たちに付き合ってくれよ、大人しく付いてくれば怖い目に会わなくて済むぜ」
舌なめずりをするような凶悪な人相で圭子に言葉を掛けるリーダーらしき男、その後ろには5人の手下がニタニタと笑って立っている。
「揃いも揃ってアホ面晒しているんじゃないわよ! どうしても付いてきて欲しいなら力尽くでどうぞ」
すでに野生の獣の危険な気配を漂わせている圭子が男たちを挑発する。先に手を出してくれれば後は問答無用だ。
「ふん、大人しくしていればいいものを。おい、少々手荒に扱ってもいいから命だけは取るなよ」
人質として浚って行きたいので殺してしまっては元も子もないとリーダーは手下に注意を促す。圭子が両手に篭手を嵌めているだけで武器も持っていないその様子で彼らは油断し切っていた。
短剣を振りかざして襲い掛かる男を構えもしないで待ち受ける圭子、相手の体が間合いに入った瞬間に彼女の右手が短剣を払い除けて左の拳が鳩尾に食い込む。今朝の鍛錬の成果が出ているようで即死はしていない模様だ。
男が崩れ落ちる前にその体を蹴飛ばして後続の男に向けて飛ばしてやると、二人の男を巻き込んで派手に倒れていった。倒れた二人は優しく股間を蹴り上げておく。悶絶した様子だが命までは取っていないから感謝してもらいたいくらいだ。
残った3人も手早く処理してさっさと宿に戻る圭子、一人で全部片付けてもいいのだが美智香と岬も部屋で何やら準備していたので、残りは彼女たちに任せることにした。
「はー、私も本当に丸くなったものだわ」
男を6人半殺しにしておいてこの言い草だ。だがこの程度は彼女にとって軽い運動にもならない。
圭子が部屋に戻ると、代わって美智香が『ちょっと出掛ける』と言い残して部屋を出ていく。彼女が出掛けてしばらくすると少し離れた場所で複数の男の悲鳴が通りに響き渡った。雨も降っていないのに雷でも落ちてきたのだろう。体に大火傷を負ってピクピクと痙攣して裏通りのあちこちに倒れている。
美智香が部屋に戻ると今度は岬が『お買い物をしてきます』といって外に出て行く。彼女の手には春名の収納に入っていたピコピコハンマーが握られて、スカートの腰の部分にはハリセンが差し込まれている。春名の収納にはこのような役に立ちそうも無い物が腐るほど収められているのだ。岬がなぜわざわざ春名から借りたピコピコハンマーを手にして買い物に行くのかなどという無粋なツッコミは今更不要だ。
美智香が少しだけ窓を開いて外の物音がよく聞こえるようにすると、『ピコン』という音とともに『ギャー』という悲鳴が上がる。時折『パーン』という景気のよい音も聞こえるが、その際はなぜか悲鳴すら上がらない。その数秒後に何かが数メートル飛ばされて地面に落ちるようなドスンという音が響き渡るだけだった。
「ただいま帰りました」
岬は買い物に行ったはずなのに何も購入した様子も無く戻ってきた。なぜかピコピコハンマーとハリセンがボロボロになっている。申し訳なさそうにそれを春名に返す岬だが、春名は特に気にする様子も無かった。
「さて、シロちゃんとファーちゃんのお散歩に出掛けましょう」
外でどのような出来事が起こっているのか全く気が付いていない令嬢はのんきに散歩に行くつもりだったが、そこに圭子が待ったを掛ける。
「散歩に行くならあれも連れて行くわ」
彼女は馬小屋に繋いであるケルベロスを引いてきた。ずっと一人で馬小屋に繋がれて放って置かれたのでケルベロスは嬉しそうに尻尾を振っている。圭子はその背中に跨るとファフニールを呼び寄せる。ケルちゃんの背中がお気に入りのファフニールはパタパタと飛んで圭子の前に座った。
「それではお散歩に出掛けましょう!」
春名の掛け声でシロを先頭にして春名のペットのお散歩が始まった。念のため岬もケルベロスの横を歩いている。そもそも彼女は春名のペットの餌や水を与える係でもあるので散歩の時は欠かせないのだ。
宿の裏手から白い犬と春名が出てきた様子を目撃したゴロツキの残党は心の中で『しめた!』と快哉を上げたが、その後に続いてズシズシと歩くケルベロスの姿を見て完全に戦意を喪失した。馬よりも大きな頭が3つもある猛犬を相手に命懸けの戦いなど誰が挑むものか。彼らはまさに尻尾を巻いて逃げ出すしか出来なかった。
「あいつらは悪魔だ、絶対に手を出してはならない」
その直後街中の悪党どものネットワークに流れた情報を誰一人として破ろうとする者は居なかった。
「ただいま、治療は無事に終わったぞ。変った事は無かったか?」
タクミと空が伯爵邸から戻ってきた。ペットの散歩を終えた女子たちがそれを出迎える。
「特に何も無かったわね。平和に留守番していたわ」
圭子の返事に女子たちが頷く。紀絵は一人で昼近くまで中庭で鍛錬に励んでいてその間周辺で起こった出来事に全く気が付いていなかった。それにしても代わる代わる出て行って悪党どもを退治するのが果たして平和な時間だったのだろうか。この出来事にタクミは全く気が付かないままその日を過ごすのだった。
次回の投稿は水曜日の予定です。