神居古潭(かむいこたん)へ
おれは半ば強引だとは思ったが、あいつに否とはいわせなかった。
野村や伊庭の様子をみにいくというあいつの真の目的が別にあることをおれはわかっていたからだ。
おれだけでなく市村も同行させることにした。
田村や玉置に会わせてやることと、その道中でいわねばならぬことがあったからだ。
京から連れてきた風神と雷神。
あいつは、この二頭の騎馬もアイヌに預けたいという。
この二頭もいまや立派な新撰組の一員だ。人間と同じく死なせるには惜しい。
とくに、あいつにとっては動物たちは人間以上に信頼できるらしい。
おれは了承した。思えばもともと会津から京へ、京から江戸、奥州、蝦夷、とずいぶんと移動させ、その間血なまぐさいなかを過ごさせてしまった。
これからは、この蝦夷の自然の中で余生を過ごせればいい。野村たちも喜ぶだろう。
おれが風神に市村が雷神に騎乗した。
意外にも整備された山道を進んでいく。市村は乗馬がはじめてらしいが雷神は心得ていて背にいる市村を気遣いながら先頭をいくあいつの後をついていく。
あいつは兄弟である白き狼の一頭に跨っている。その右肩には朱雀が。
大鷹もまたすべてを心得ているようだ。
木々は生い茂り、昨夜降った雨の所為でところどころの窪みに水が溜まっている。
ときおり頭上の枝から水滴が落ちてくる。
木々や大地の湿った臭い、雨の日の捨て猫や捨て犬の臭いがたちこめている。
とても静かだ。箱館からさほど距離があるわけでもないがこの辺りにはおよそ人の気配はないようだ。 そのかわり獣の類の気配が常にあった。不安はなにもない。なぜならあいつがいるからだ。
おれたちは、神居古潭に向かっている。
正確にいうならばその近くのアイヌの村が目的地だ。
あいつは、新政府軍がひしめいている江差から地元の漁師に頼み留萌まで船をださせた。
ときがないわれわれが陸路を進むには、無理があるからだ。
アイヌと和人の混血らしきその漁師の親子は、大型の船に十名近くの水主を使っており、それで長いときには半年以上も漁にでるらしい。
二頭の騎馬や狼たちを乗せるのもさして抵抗がないらしく、われわれは無事船で沖へでた。
船脚は速くどんどん進んでゆく。船の連中は一切詮索することなく、それどころかわれわれに一切関心を払うこともなく、それぞれの仕事に没頭しているようだ。
おれたちはずっと甲板にいて、船縁から蝦夷の海を眺めていた。
この海の先には大陸があり、そこにはまたこの国とは違う文化や思想の国々があるのだ。
だれもなにも話さない。市村はむっつりしていて船首にいるあいつをみている。
そのあいつは、船首に突っ立って海風を全身で浴びていた。否、感じているのか?
あいつの周囲には白狼たちが、この船の周りには海豚や鯱たちが集まってきている。空には鴎が・・・。
あいつは、動物たちの王かなにかなのか?
留萌には予定よりも早く到着した。そこからまた馬上、さらに未開の地を進む。
馬に揺られながらおれたちは無言だ。
いつもはやかましいまでの市村でさえ出発してからなにひとつ喋らなかった。
おれがなにをいおうとしているのか、市村はわかっているのか?
市村の背とあいつのそれとを比べてみた。すいぶんと体躯の大きさに差ができていた。
市村は成長した。心身ともに。
まだまだ餓鬼だ、と思っていたが、その反面すっかり大人になりやがった、と驚かされることもしばしばある。
だが、あいつはずっと同じだ。一寸と伸びぬ背丈・・・。
あれほどの力や才をみせられ、実際どれだけ多くの生命を救いあるいは奪っているのにもかかわらず、おれにとってあいつはいつまでも餓鬼で、いい子としか思いようもない。
なにゆえそう思うのだろうか?
かなりの強行軍だ。だが、乗馬初体験の市村は文句の一つ、泣き言一つもいいやしなかった。きっと尻の皮が剥けて痛いはずだ。
開けた崖上にでたとき、そこではじめてあいつが口を開いた。崖下では石狩川がまるで蛇のようにのたうっている。かなり急な流れだ。ここから落ちたらひとたまりもないだろう。
あいつは、川上のほうを指差した。その先には山がある。
どこか他のそれとは雰囲気が違っている。なんと表現していいかはわからない。とにかく普通の山とは感じられない。
市村も馬上それをじっとみつめていた。
「あれが神居古潭です。村はあともうすこしです」
「坊っ、そこでおまえは育ったのか?」
市村の問いに、あいつは狼の背の上で小さな両肩を竦めた。
朱雀はすでに村に飛んでおり、あいつの肩の上にいない。
「神居古潭に人間は入れません・・・。何人であっても。あそこに入れるのは・・・」
あいつはそこで言葉を濁しやがった。
どういう意味だ?
「ヌイ、モシリ、知らせてください。レラ、いこう」
あいつが跨る白狼が、また歩き始める。
レラ、というのはアイヌ語で風という意味らしい。ヌイは炎、モシリは大地。
それから四半時位経ったころだ。山の下り坂を降っていたとき、おれはふと路傍に石碑のようなものが立っているのに気がついた。
ちょうどあいつ位の背丈の石柱だ。自然の石を荒削りしたような不自然さがある。
風神の手綱を絞っておれはその前でその石柱を見下ろした。
なにか彫り込んである。しかもかなり昔のもののようだ。てっきりアイヌの言葉かと思っていたが、よくみると確かに平仮名だ。
たどたどしく彫り込まれた文字・・・。まるで餓鬼の手習いのような・・・。
「わじんたちのはか」
おれは絶句した。
あいつがいつの間にか戻ってきていてどこからか摘んできたであろう数本の文目をその石碑の前に備えた。
片膝を折ると手を合わせた。
市村と目が合った。
「おれが三つのときに殺めた松前藩士たちの墓です」
立ち上がりながら、あいつはそういった。
「おまえが建てたのか?三つのときに?その文字も?」
市村が驚いたように尋ねると、あいつはまた両方の肩を竦めた。
「ええ。文や書物、測量帳などをそれぞれが持っていましたのでそれをみました」
みました?それだけでたとえ平仮名とはいえ記せるようになれるのか?
おれも手習いは早かったほうだが、その環境が整っていたからだ。
「朱雀」
大鷹があいつの肩に舞い降りた。どこからか声がきこえてくる。
木々でみえないが、まだ声がわりしたばかりのようなその甲高い声は、田村のものに違いない。
おれたちはやっと目的地に着いたのだ。
山道を、アイヌの格好をした数人が上ってくる。よくみると、それはアイヌではなく、まぎれもなく和人で、元の仲間たちだ。
野村と田村、そして玉置。労咳の末期だったはずの玉置は、そうとは思えぬほど血色がよく、また背も伸びたようだ。野村も元気そうだし、田村はいうまでもない。
市村はよほど嬉しかったのか、雷神から飛び降りると玉置と田村と三人で抱き合いはしゃいでいる。
風神から降りたおれに、野村もまた満面の笑みで抱きついてきやがった。
よほど嬉しいのか?
こんなこと、京でだったらしなかったろうし、おれも許しはしなかったろう。
そうか、きっとおれのほうもそういう表情になっていたのだろう。
嬉しそうな・・・。
餓鬼ども、とはいえ三人とももう餓鬼とはいえぬほど立派な体躯になっている。それでも、こうしてはしゃぐ様をみていれば、まだまだ餓鬼なんだな、と苦笑する。
ふとあいつをみた。
あいつはそれを一つだけある眼を細め、なんともいえぬ表情でみつめている。
おれははっとした。刹那、あいつがおれをみた。おれの心中の機微に気づいたのだ。
視線が合ったのはほんのわずかで、あいつはあきらかにそれを隠すかのように視線を外しやがった。
白狼たちがそれぞれの体躯をあいつにこすりつけている。一頭一頭の頭を撫でてやり、あいつは先程指差した神居古潭を仰ぎみた。
真の目的があそこであることを、おれはわかっている。
そのアイヌの村は、おれが想像していたものより大きく豊かだ。
人々は友好的で明るく、若い者や餓鬼のなかには和人の言葉を解し話す者もいるという。
そして、さすがに若いだけあり、うちの餓鬼どももすっかりそこでの生活に馴染み、どこからどうみてもアイヌになっている。
伊庭も元気だ。
致命傷を負ったときいていたが、いまでは山を歩き、残った隻腕で素振りもはじめているという。
伊庭もおれに抱きついてきた。ああ、わかっている。おれも嬉しかったのだから。
大鳥さんの元小姓の高田も、伊庭や野村と同じようにアイヌの格好だ。
それがいやによく似合っている。そして、うちの餓鬼どもと同じ位にはアイヌの言語を解し、話せる。
ここでの生活が、性にあってるらしい。
この後、蝦夷をまわり測量や調査をするつもりだという。いつか大鳥さんの役にたつつもりだ、と。
新しい世の中になり、蝦夷が開拓され荒らされるのはおれにとっても残念だ。
蝦夷が、われわれの領域ではないことくらいいまではよくわかっている。すくなくとも、あいつをみていれば蝦夷は、われわれ和人がいていいところではないことがよくわかる。
蝦夷では、われわれ和人は異種であり侵略者にすぎぬのだ。
そのあいつは、伊庭や高田に挨拶してからアイヌの村の長老としばらく話していた。
長老は、齢八十を越えているそうだ。だが、背丈こそ低いものの背筋はぴんと伸び、活発で明るい老人だ。
あいつが暇を乞うた。翌朝には戻るという。
長老がもてなしたいといっている。近くに温泉も湧いているので、ゆっくりしていてくれ、と。
耳のはやい市村がそれをきき、すぐに一緒にいきたいといいだした。おれも同じ気持ちだったが、さすがにそんな餓鬼じみたことがいえるわけもない。
アイヌの男たちが狩りから戻ってきたようだ。トナカイを仕留めたらしい。女、餓鬼、村中が総出で狩りの獲物を処理するのだという。
長老がアイヌの言葉であいつになにかを伝えると、あいつもまたアイヌの言葉で応じた。
「いまからいくところは、人間をよせつけぬところです」
長老が村人たちのところへともどっていくその背をみながら、あいつがいう。
市村に、というよりかはおれに。
「おまえは?」
市村が問うと、あいつは答えた。
「人間ではありませんので・・・」
そして、あいつは一番大きな狼だけを連れて村をでていった。
陽が落ちかけている。太陽も月も星も、蝦夷でみるのも内地でみるのも同じものだ。
あいつの小さな背が木々の間に消えた。
あいつはいったいなんなのだ・・・。
おれのこめかみが痛む。たしかになにかを思いだしかけている。たしかに・・・。




