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武士大神(もののふおおかみ)   作者: ぽんた


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薩摩隼人と少年の天理人情

   黒田にはわかっていた。


 そろそろそれが現れるころであろうことが・・・。


 飛龍丸はアメリカの木製汽船であったが、小倉藩が購入し、いまは新政府軍の運送船としてこの戦で活躍している。


 排水量三百八十屯、九十馬力の機関を有し、砲を二砲積んでいる。

 新政府軍の陸軍参謀黒田自らが選抜した薩摩の陸兵約二百五十名を乗せ、江差沖に停泊していた。


 黒田はこのところ上機嫌だった。

 ここには薩摩の将兵ばかりで気兼ねなく過ごせる上、戦況は長州にとって不利なことばかり。

 大勢はこちらに有利。


 長州の名のある将官が討たれたことが、黒田の機嫌をさらに良くしていた。

 いや、この飛龍丸に乗船している多くの将兵が、内心胸のすく思いだった。


 甲鉄での東郷の一件を伝えきいた薩摩勢の怒りは、尋常ではない。

 誰もが長州に対して恨みこそあれ、けっして相容れようとはしない。


 それは、東郷の件とは関係なくこの戦が始まるずっと以前からそうであるし、この戦が終わってからもつづくだろう。


 同じ敵を戴き、仕方なく同じ方角に向いてはいるものの、その手段、速度、目標はまったく違う。

 無論、それは薩摩側だけの思いではなく長州勢もまたおなじことである。


 両者は、その点だけは共通している。


 子飼いの側近たちと打ち合わせを行った後、黒田の部屋で国の焼酎を呑むこととなった。


 黒田は、上機嫌で側近二名を連れ自身の船室にやってきた。


 穏やかな日がつづいており、黒田も海上での生活に徐々に慣れつつあった。

 間もなく上陸できる。

 箱館を襲うのだ。愉しみでならない。

 戦のことではない、おかに上がることがである。

 無論、陸戦できることもまた愉しみだ。


 甲板から急な階段を降りているときから、黒田はそれを感じていた。

 それは自身の部屋に近づくほど、強く感じられる。

 それが黒田に感じさせていることを、黒田自身よくわかっていた。


 自身の部屋のドアの前で、黒田は側近たちに向き直って心底残念な表情を浮かべてみせた。


「申し訳んござんで。いけんも気分がすぐれんごっ。酒を呑むのはつぎにしもんそ」

 側近二人もまた示現流の遣い手で、それを感じているのだろう。

 黒田が西郷を慕うように、二人は黒田を慕っている。

 そして、二人はいま感じているそれについて知っていて、東郷の一件もきき知っている。

 なにより黒田を信じている。

 二人は頷いた。


「残念ござんで。なにか用意すうものはあいもすか?」

 一人がいった。血臭が漂っていることも感じているのだ。

ドアの前に置いておきもす、参謀」さらにいま一人がいった。


 自身にはもったいない、できた側近たちだと黒田はつくづく思った。

 なにより、二人とも若くて美しい。そして、強い。


 まさしく自身の好みだ。


「頼みもす。そいから・・・」

「誰も近寄らんごっしておきもす」

 二人はその美しい相貌ににこりと笑みを浮かべると背を向け歩き去っていった。


 しばらくその二つの背を見送ると黒田は改めて扉に向き直った。

 それから、ひとつ深呼吸をすると自身の部屋に入った。


 血の臭いに噎せ返りそうになった。

 丸い舷窓が開いているにもかかわらず、血の臭いがきつくて濃い。 


 小さな舷窓から丸い月がみえていて、その冴え渡った光は京でのあの一夜を思いださせてくれた。

 ずいぶんと昔の出来事のような気がするしついこの前のような気もする。


 船室内にある一つだけの燭台カンテラに灯がともされた。

 質素な船室には異国のデスク背の低い卓ローテーブル長椅子ソファーが二脚、本棚が一竿あるだけだ。


 燭台カンテラは卓上にあり、この夜の客人は長椅子ソファーの一つに座していた。


「辰巳、そろそろ来う頃だと思っておいもした」

 黒田は囁くように客人にいった。


 そのとき部屋の前で気配がし、それはすぐになくなった。

 側近たちだ。


 黒田は十数えてからドアを開け、側近たちが持ってきたものを取り上げてドアを閉めた。


 卓の上にそれを置いた機に、小さな客人が形のいい口唇を開いた。


 客人は長椅子に浅く腰掛け、前屈みになっている。


「侵入せし無礼、ご容赦願います、黒田先生」

 黒田は自身のデスクにまわると一番下の抽斗を開け、そこから自慢の焼酎の壜と湯呑み茶碗を二個取りだした。


 今宵、側近たちに馳走してやろうとしていた自慢の一品だ。


「東郷を助けてくれた礼をいわせて欲しか」側近たちが置いていった紙袋の横に、焼酎と湯呑み茶碗を音を立てて置くと、自身は客人の向かいの長椅子に腰を下ろした。


 客人の隻眼と自身の双眸が絡みあう。

 客人からいまはなにも感じられない。


「東郷先生はお元気ですか?」

 黒田は無言で頷いた。


 燭台カンテラの灯が客人の異相を照らしている。


「用件はお分かりのことかと、黒田先生?」再び無言のうちに頷く黒田。


 不意に自身の内部で怒りが湧き、それはあっという間に沸騰した。


「わかっとう。そちらん上層部の助命、恩赦。時間はかかうかもしれんが、こん黒田が責任をもって請け負おいもす」

 荒げた声音が小さな船室に響く。


 客人の形のいい眉がわずかに動いた。


「辰巳、そんなかになおまえも含まれう。おまえも生き残うこっが交換条件だ」

 客人の形のいい口唇が開きかけた。

 それを、黒田は右掌を上げてすかさず制した。


「おまえを死なせたら、おれは西郷せごどんの信頼を失ってしまおいもす。心配はいらん。江戸で謹慎しとお徳川や松平も含め、あん連中の好きになさせやせん」

 あん連中、というのが長州や岩倉、そして、黒田と同藩の大久保も含まれているのはいうまでもない。


 黒田はうんざりしている。


 やはり、あの連中と組むことじたい間違いであり、愚か極まりない所業だった。


 だが、すでに遅すぎる。ときを戻すことはできぬ。


 そして、この戦の決着かたがついたら、この次は薩摩だ。


 あの連中の欲が尽きることはない。それどころか、ますます大きく、盛んになっていくだろう。


 標的を次々にかえ、最終的には自らをも喰い潰す。

 残念ながら、その前に薩摩はなくなっているはずだ。


 姑息な陥穽にすでに片脚を突っ込み、それを抜くことはかなわぬ。


「黒田先生、わたしはあなたや西郷先生を信じております。武士に二言なし。いま、あなたが誓って頂いた言を、あなたは必ずや遣り通して下さる。わたしは、あなたに頼るしかない・・・」


 この戦における第一等の戦犯は、なんの躊躇も迷いもなく長椅子から滑り降りると、船室の床の上で土下座した。

 さしもの黒田も、返す言もないままそれをみ下ろす。


「わたしの首級くびと、新撰組局長であり箱館政権の実質上の陸軍指揮官である土方のをもって、一兵卒に至るまで恩情を被るようどうかご助力願い・・・」

「はっ!馬鹿なこっぉいうな」

 黒田の声音は、ますます大きくなってゆく。


「餓鬼の塩漬けの首級など、いったい誰がみたいと考えもすか?趣味が悪すぎう」

 黒田は、鼻で笑う。


 戦国時代ではあるまいし。

 あの岩倉でも、たった十歳とおの餓鬼の首級くびを送り届けられたところで、はたして首実検などするだろうか?


「誰もが無事でこの戦を終えることなどできませぬ」

「・・・。ああ、わかっておいもす。そうなうごとおまえが仕組んだこっも。それでん・・・」

 木の床の上から隻眼が双眸を射る。


 黒田は長椅子の背に身を預け、腹の底から嘆息した。


「もうだめなんなあ?」

 相貌を船室の低い天井へと向ける。


 辰巳が座していた長椅子とその下の床が垣間みえた。それらは真っ赤な血で染まっている。


「おまえの要望は、了承しもした。いまから半月後、んだどんは、そちらに陣中見舞いの品を贈いもす。それが、こん戦の終焉ほいならぁこっぉ、榎本先生に伝えて欲しか。それまでに、根回しをしておきもす」

 宙を仰いだまま、右の指で目頭を揉む。


 黒田は、立ち上がった。


「密約は整おいもした。こん話しは、もう終いござんで。椅子ん上に横にないなさい。傷を診てあげもそや」


 辰巳は、いわれるまま長椅子の上に横たわりながら詫びる。


「申し訳ありません。長椅子や床に、わたしの穢れた血がついてしまいました」

「気にすうな。傍に寄いもすよ」

 近間に入ることを告げ、横たわる辰巳の傍らで膝を折り、小さな体躯から軍服を脱がしてやった。


 白かったはずのシャツは、真っ赤に染まっている。


 この小さな体躯に、どれだけの血があるのだろうと考えずにはいられない。


 器用でない黒田も、やはり釦が苦手だ。

 すべての釦をもどかしげに外し、シャツも脱がせた。


 不覚にも、心の奥底からなにか得体の知れぬものが競り上がってくるのを止めることができぬ。それが嗚咽となり、口唇から漏れでてしまう。


 腹部の傷は、致命傷どころか死んでないとおかしいほどのものだ。


 自身の掌を叱咤する。側近が置いていった袋から清潔な晒しを取りだし、とりあえず血を拭き取ってゆく。


「血が止まらぬのです。焼いて頂けますか?」


 隻眼は船室の天井に向けられており、辰巳は力なく依頼した。


「わかいもした。モルヒネを使おいもすか」「いえ、必要ありませぬ。モルヒネをはじめとした依存性のある薬物には、耐性があるので効果がありませぬ」


 その言をききながら、黒田は机の抽斗のなかから小刀を持ってきて、燭台カンテラの灯でその刃を焼いた。


 それを焼きながら、辰巳の小さな体躯をみ下ろす。


 そこにあるのは、無数の傷と火傷・・・。


 心の臓の辺りに、刺し傷がくっきりと残っている。

 その痕もまた、致命傷であってもおかしくない。奇妙な刃の痕もある。


 そのほとんどが、自傷であることがみてとれた。


(こんおとこの生き様は、いったい・・・)


 ぞっとする。


 自身が想像している以上の地獄を、生きている修羅・・・。


 そして、黒田にはいま一つ、確かめねばならぬことがある。


「なにか噛みもすか?」

 準備が整ったので尋ねたが、辰巳はそれすら拒んだ。


 頸の下に右掌を当てると、そこにも致命傷の大きく深い傷痕があることに気がついた。


 これは、なに者かに頸を斬り落とされかけたに違いない。


「やいもすよ」


 辰巳が頷くのを確かめてから、黒田は焼いた小刀を腹部の傷に当てた。


 じゅっという肉が焼けるぞっとする音とともに、臭いが立ちこめる。


 様々な戦を経験し、その数だけの凄惨な光景や悲惨な状況を目の当たりにしてきた黒田ですら、これには参った。

 口で息をし、吐き気を催すのを耐えた。


 辰巳は、呻き声ひとつ上げることがなかった。それどころか、拳一つ握ることすらせぬ。


 消毒液を使って消毒し、包帯を丁寧に巻いてやる。


 その間、船室内には沈黙だけがおりていた。


 船窓からみえていた月は、いまははるか船上に昇りきっているのか、その控えめな姿をみること叶わず、無数の星だけが瞬いている。


 応急処置が終わると、黒田は自慢の焼酎を二つの湯呑みに注ぎ、一つを卓上から取り上げて船窓に近寄った。


「ありがとうございます、黒田先生」

 物憂げに起き上がり、長椅子の背にもたれかかる辰巳。


「国の焼酎ござんで。味がわからんでしょうが呑むとよか」

「海江田先生にも馳走になりました」

「海江田も酒に強く、なによい、そんよさをゆうと知っておいもす」


 黒田は、船窓から江差の海岸を眺めた。


 明かりのほとんどないおかは、黒い影となってひっそりと横たわっている。

 それはまるで、この小さなわっぱの生き様のようだ・・・。


「いけんして、東郷を助けたでしょうか?よかや、いけんして、東郷を選んだでしょうか?」


 黒田は、船窓から視線を長椅子に座す辰巳へと移す。


「東郷先生は、将来この国を必ずや護ってくれます。東郷先生に、わたしが甲鉄で借りた得物を手放さぬよう、お伝え下さい」

「千里眼ちゅうわけだな?心配よかません。東郷も見抜いておいもす。その得物を神器だといって、肌身離さず腰間にぶら下げておいもす」


 辰巳は苦笑する。


 やはり見抜かれていた。

 大人でわかるのは、否、感じることができるのは、生命いのちを分けた相手ぐらいだ。


 やはり、東郷はこの力を受け継ぐべく選ばれし者である。


「東郷は、お前の中にそいをみた、といっておいもす。おいも、その東郷のいうこつを信じておいもす・・・」

「黒田先生、わたしはばけものです。もとより、人間ひとではありません。そういうことにして頂けませんか?」


 黒田は、辰巳の横にどかりと腰を下ろす。

 長椅子ソファーの背に身を預け、再び嘆息する。


ばけもの?ああ、知っておいもすど。そいどん、東郷がいうのはそいとは正反対の存在のごとじぁんどん? 」

「・・・」


 辰巳は無言である。


 おもむろに手を伸ばすと、焼酎が注がれた湯呑みを掴み、それをぐいと呑み干す。


 やはり、なんの味も感じられぬ。

 酒精の匂いだけが、鼻梁にまとわりつく。


「おいに、なんも感じられんごっが、東郷のいうこっぉ信じとう。土方は、知っとうのか?」

 それぞれの湯呑みに焼酎を注ぎながら、尋ねる黒田。


「わたしの新撰組での名は、佐藤龍です。佐藤は、わが主の実姉の嫁ぎ先の名字ですが、龍という名は、出会った頃につけてもらった名です。わが主は、みた・・のです」


「・・・」

 次は、黒田が無言を貫く。


 驚愕の表情でみつめられるなか、話しはつづく。


「もっとも、それらの記憶は封じています・・・」

「生家の連中は? あん宴ん様子ば、知っとうようにはみえなんかったじぁんどん」

「実母と、実母の兄妹のみ・・・」

 複雑な事情があるのだろう。


 そもそも、黒田自身の隣に座すその存在そのものが、複雑なのだ。


 黒田自身は、難しいことは苦手である。

 考えたところで、いまの状況が覆るわけもない。

 正体が何であろうと、こいつは辰巳という名のわらべで、稀代の暗殺者で天下の大罪人。敵であり、日の本一の剣士である。


 自身がみききし、感じ、接したすべてでいいではないか?


「申し訳あいもはん。いけんでん、いかちゅうこつだろう、なっ?」

「ええ、そのとおりです・・・。黒田先生、西郷先生や桐野先生と疎遠になりませぬよう。武力による体制の変化、いきどころをなくした武士。敵味方関係なく、わだかまった不平不満は、必ずや爆発します。そのとき、担ぎだされるのが誰か?人望と実力、義侠心があり誠実でまっすぐな性質たちをもち、そのくせ要領が悪く、頼まれればけっして否と拒めないお人よし・・・」

西郷せごさぁが?叛乱を起こすとでんいうですか・・・」


 わずかに声を荒げてしまったが、辰巳のいうことは否定できぬ。

 なぜなら、黒田自身、今後の政局の流れによってはそれを使嗾する可能性があるからだ。


 その相手は、まさしく西郷以外にはない。


「薩摩藩はいけんなうですか?西郷せごさぁや桐野は?」

 自身のことよりも、西郷や桐野のことを案じる黒田。


 だが、辰巳は小ぶりの相貌を左右に小さく振っただけである。


 運命さだめは、人間ひとが自ら切り拓くものであり、ある種の存在の啓示に従うものではない。

 すくなくとも、辰巳という名をもつばけものは、そう信じている。


「そうか、そうなあ。わかいもした。忠告は心しておきもそや」

 辰巳に、というよりかは自身にいいきかせるように呟くと、黒田は湯呑みの焼酎を呑み干した。


 今宵は、酔えそうにない。


「あんとき、じつはおまえを抱きたいと思おいもしたが、雅清の手前諦めもした。いまは、よかったと心から考えもす」


 陰間茶屋での初対面のことだ。


 黒田は、燭台カンテラに照らしだされて黒光りする相貌に、はにかんだ笑みを浮かべて告白した。


 辰巳は、声をださずに笑う。


「ご心配なく。全力で拒みましたよ。なぜなら、わたしを抱いた人間ひとで、存命している者はおりませんので。ですが、あなたのお気持ちは頂いておきます・・・」


 絶句する黒田の、なんともいえぬ表情。


 辰巳は、妖艶なまでの笑みを浮かべた。

 それは、この上ない艶かしさを伴っており、そそられるものだ。


 自身の性欲を抑える努力を、全身全霊をもって試しつつ、話題を逸らす。


 声音が上擦っているのが、われながら情けない、と思いつつ。


「土方は?あん宴でいっどみたきいじぁんどん、なかなかたいしたおとこのよなあ。しっかい話しをしておいたほうが、よかと考えもす。生き残う者いも、それないの覚悟と気力がひつごとです」


 先刻の密約の内訳の「土方の死」、というのは、あくまでも表向きだ。


 新撰組の「鬼の副長」の行く末は、箱館政権の他の官僚とは違う。

 十中八九死罪なのだ。


 この戦で戦死、もしくは自害する必要がある。


「・・・。仰るとおりです。手当てをありがとうございました。それから、焼酎をご馳走様です。黒田先生、あなたご自身は、どうかお酒がすぎませぬよう・・・」


 辰巳が立ち上がるのをみて、黒田も立ち上がる。


 ああ、酒についてはよくわかっている。


 黒田は内心、苦笑せざるをえない。


「いくですか?辰巳、こやあくまでん戦ござんで。謝罪はしませんど。じぁんどん、残念でんもはん。こや、おいだけでなく、西郷さぁや桐野など、ずんばいの薩摩藩士の正直な気持ちござんで。そいから、個人的にな・・・」


 黒田は昔馴染みの敵に向き直ると、膝を折って目線をしっかり合わせた。それから、その小さな体躯を抱きしめた。


「おはんに惚れてもした。剣士として、美しかわっぱとして。ほいならっで、土方が羨ましゅもあったが、いまは気の毒でならん。申し訳あいもはん、許しやったもんせ・・・」


 薩摩隼人は、けっして他者に弱音をみせず、悟らせることも嫌う。ましてや、涙をみせることなどありえぬ。


 黒田は、生まれて初めて男泣きした。


 抱き締めるわっぱの過酷な過去と、近い将来さきにたいして。そのわっぱの主たる土方に対して。

 そして、自身が主と慕う西郷や朋輩たちに待ち受ける、過酷な将来に対して。


 あらゆる想いが涙をとめどなく流させる。


人間ひとというのは素晴らしい。あなたは、誠にいい男性ひとだ・・・」


 辰巳は、黒田の抱擁から解放されると、右の小さな指先で黒田の涙を優しく拭ってやった。

 それから、自身の形のいい口唇を、黒田のそれにきつく押し付ける。

 黒田の口唇が開かれ、口中に舌が侵入する。


 その不意打ちに、黒田は呻いた。自身の舌と相手のそれが絡み合い、互いの唾液が混じりあう。


 それだけで黒田は恍惚となった。それほど、相手の接吻の仕方が、舌の遣い方がうますぎるのだ。


 辰巳は、そちらの方も玄人なのだと、興奮の際にありながら、漠然と考える。


 灯を消し、窓から射し込む星の光だけで残った焼酎を呑む。


 いまだ口唇にも下半身にも、余韻が残っている。

 自身、不遜極まりないことをしでかしたような気がしてならぬ。


 さきほどの行為は、雄同士の欲望のぶつけ合いというよりかは、互いの敬虔な精神こころの確かめ合いのような体験であった。


 自身の頭部を、左の掌で抱える。右の掌には、空の湯呑み。


「許しやったもんせ・・・。許しやったもんせ・・・」


 黒田は、幾度も同じことを繰り返す。


 黒田清隆は、約束どおり榎本や大鳥などの助命、恩赦に奔走した。


 新政府において、西南戦争後の西郷や、暗殺される大久保にかわり、薩摩の重鎮として活躍する。

 だが、酒による醜聞は絶えることなく、最後まで支持したのは、皮肉にもこの戦で裁いたはずの榎本である。


 明治三十年(1900年)に、脳内出血で死亡する。

 享年五十九歳。


 西郷や大久保、桐野が死んだ後、一人残った黒田は、いかなる気持ちで国事に携わっていたのか。


 それは、最期までその傍らから離れなかった榎本にしか、わからなかったであろう。




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