小天狗と少年と白狼
やはり、片腕では限界がある。
これまでがただたんに幸運だったにすぎぬ。
腹部を撃ちぬかれ、足元もおぼつかない。
ずっと側で付き従ってきた田村も、必死に自身を支えようと踏ん張ってくれている。
田村は、新撰組の土方さんからの預かりもの。
自身の為に、死なすわけにはいかぬ。
否、死ぬにはまだ若すぎる。まだほんの童なのだ。
「伊庭隊長、頑張ってください。あと少しで峠を越えられる。ここを越えればしつこい敵を撒けるかもしれない・・・」
田村もまた背が高くなり、筋肉もついてがっしりとした体躯に育っている。
伊庭の残った腕を自身の首に回し腰を支えながら歩きつづけた。
歩くごとに、跳弾が足元の土を跳ね上げる。ときおり、体躯をそれらがかすめてゆく。
田村は、勇気を振り絞って歩きつづける。
伊庭を護るという約束を、養父の春日左衛門や榎本総裁としていたからだ。
この年に入ってすぐ、総裁の榎本附きの小姓になった。
今回の従軍は、新撰組にいた頃から気にかけてくれていた伊庭の手助けができればと、榎本に頼み込んでさせてもらった。
労咳で戦線離脱した玉置の分まで、そして、土方とともにある市村と危険を共有するために・・・。
「追いつかれる。田村、先にゆけ。ここは、わたしが防ぐ」
なだらかな上り坂。
山道には、燦燦と朝日が射し込んでいる。木々には青々と葉が茂り、それがやけに眩しい。
「隊長、嫌です」
銃声すらかき消すほど、田村は大声で逆らう。
こうなったら、自身がここで隊長を護る。
立ち止まって伊庭の苦しげな横顔を、盗みみる。
元の上役の眉間に皺のよった相貌が、脳裏を横切る。
市村は無事だろうか?
敵の鬨の声が、すぐそこまで迫っている。
飛んでくる弾も、その命中率を上げていくのがはっきりとわかる。
ここで死ぬんだな。
ああ、せめて隊長だけは、護りきりたかった・・・。
意外と冷静なのに驚きつつ、田村はなんの気なしに空を仰ぎみた。
木々の間から青い空と白い雲がみえる。そして、一つの点が・・・。
「きいっ!」
点が鋭く鳴いた。
「朱雀っ!朱雀です、隊長」
歓喜の叫びと、敵の小隊の出現とがほぼ同時だった。
意識が飛びそうになるのを、気力だけで繋ぎ止める。
痛みは感じられぬ。
失血が、意識と生命すら奪おうとしている。
耳朶のすぐ近くで、田村が怒鳴っている。
せめて、せめてこの童だけは・・・。
体躯が勝手に動いた。
伊庭の残っているほうの掌が空を切り、かろうじて田村の肩を掴む。
そのままうしろへ引き摺りこむ。
無意識のうちにやった。
狭い山道に現れた敵の小隊から身を挺し、田村を護る形となる。
抜刀どころか柄を握ることすらできぬ身では、文字通り田村の楯となるより他ない。
「隊長っ!なにを・・・」
童の悲痛な叫びは、敵の無数の射撃音によって掻き消される。
耳障りな金属音、そして静寂。
幾つもの息遣いだけがきこえる。
だがそれは、人間のそれでなく獣のそれだ。
なぜなら、はっはっはっ!と、短く鋭いものだから。
「伊庭先生、田村さん・・・」
伊庭は、意識朦朧とするなかでかろうじて、田村ははっきりと、その小さな背をみた。
それぞれの掌にくないを握り、それで銃弾を弾き飛ばした。
伊庭はわずかに覚醒する。
あの宴でみた技は、脳裏にも瞼にもはっきりと焼きついている。
生涯、とはいえここで生き残れたらのことだが、けっして忘れられないそれほど凄いものだ。
それをまた感じることができた。
旧知の童の妙技・・・。
自身、幼少より才能に恵まれていいなと周囲にもてはやされながら、実際のところは血の滲むような努力と鍛錬を重ねつづけてきた。周囲の期待に応える為に。
それゆえこの小さな坊のそれもまた才だけでないことを伊庭はよく知っている。
「白い狼?」
伊庭と田村の周囲に、まるで二人を護るように六頭の白毛をもつ巨獣が控えている。
幾つもの息遣いは彼らのものだったのだ。
田村は、壬生狼に会ったことはなかったが、まだ京にいる際にその白き巨獣の伝説は大人たちからきいて知っていた。
ゆえに、このなかの一頭がそうかと思った。
敵の小隊は、この狭い山道では散開することもできず、こちらからみえているのはわずかに十名足らず。
いまや一兵卒に到るまで、天下の大罪人である辰巳、否、軍神の名は浸透しきっている。
敵兵たちは、いまも眼前に忽然と現れたと同時に神業をみせつけられ、ミニエー銃を構えることすら忘れただ呆然と立ち竦んでいる。
前方の敵兵をみながら少年はわずかに後退し、伊庭に近寄ると膝を折った。
みえる方の瞳ですばやく傷を確認する。致命傷・・・。
くないを地に置き、空いた掌で旧知の凄腕の剣士の血にまみれた頬をやさしく撫でる。
少年は、頬を撫でながら囁いた。
「伊庭先生、生きたいですか?生き恥を晒しあらゆることに怯え、絶望や理不尽を直視することとなる。たとえどんなことがおころうとも・・・」
伊庭は苦しいはずなのに、そうとは悟らせぬよう努力しているのが伺えた。
弱々しいが笑みさえ浮かべ、さして間を置くこともなくその問いに応じる。
「わたしは厚顔無恥。生きてさえいれば、たとえどんなことがおころうとも、乗り越えてみせる。次になにかを繋げる為に・・・」
少年の掌の動きがぴたりと止まった。
この人間もまた強い、と心底思った。そして、この漢もまた、いつか主の支えになってくれると確信した。
「ならば死なせやしない。伊庭先生、おれたちがあなたを死なせない。いましばらくお待ちください。大鳥先生のことも気がかりです」
最後にもう一度伊庭の頬を撫でると、少年はくないを地から拾い上げ、ゆっくりと立ち上がった。
六頭のうちで一番小柄な白狼が一歩前にでた。
「田村さん、あなたも強い」
田村を見上げ、少年は心からの讃辞を年長の朋輩に送った。
送られた側はまだあどけなさの残る相貌を真っ赤にしている。
「ヌイといいます」
少年は小柄な白狼の頭を撫でながらいった。「アイヌ語で炎。田村さん、あなたの脇差を貸して頂けますか?それを投げて下さい」
いわれるまま田村は自身の脇差を鞘から抜き放ち、宙空に放り投げた。
それが宙で弧を描くよりもはやく、ヌイと呼ばれる白狼は、跳躍するとその柄をしっかりと強靭な顎で銜えた。
「おれの兄弟のなかで、一番の剣の達人です。一個小銃隊位なら、ヌイはあっという間に片付けてくれます。この茂みに隠れ、待っていて下さい。田村さん、伊庭先生を宜しくお願いします」
「ああ、大丈夫。ヌイに触れても?」
少年が無言で頷くと、田村は膝を折ってヌイの太い頸に腕を回した。
強がってはいるが、じつは怖くて心細いのだ。
脇差を銜えたまま、ヌイはおとなしく田村に頭部を抱かれていた。
人間の子と心を通わせることは、狼神の血族たる白狼にとって、造作もない。
田村が白くてふさふさの毛から相貌を引き剥がしたとき、少年と五頭の白狼の姿はなかった。
無論、敵兵の姿も・・・。




