狼神(ホロケウカムイ)
「一人一杯だ。それ以上呑んだら酔っ払っちまって使いもんになりゃしねぇ」
土方は衝鋒隊・伝習隊の隊士と新撰組の一部約三百名を率い、四月十日に台場山に到着した。
迫り来る新政府軍は七百名。
これを迎えうつ為、二日がかりで十六箇所に胸壁を築き、銃隊を配置してそれに備えた。
土方の懐刀は、物見としても軍師としてもじつに有能だ。
正確な偵察能力に状況判断を経由し、緻密な戦術を提案する。
土方は、さして意見を差し挟むことなくそれに従った。
明日戦闘になる。この夜はどれほどの歴戦の猛者でも緊張と不安とで容易に眠れないだろう。
五稜郭から陣中に見舞いにと運ばれてきた酒樽を開けさせ、全員に酒を振舞った。
士気を鼓舞する為、呑めないにもかかわらず土方自身も杯をあげた。
この夜は、敵軍の斥候を警戒して火の一つも焚けぬ。
月と星明りの下、蝦夷の大地の息吹をじかに感じることができる。
この年は、箱館政権にとって幸運にも冬が長かった。
その所為で、遅咲きの桜が最後の開花をみせているところもあった。
冬は辛いこの地も、これからいい季節になっていく。
土方に頼まれ、少年が笛の腕前を披露した。
数曲奏でたがどの曲も隊士たちの心に沁み、鼓舞し、なにより勇気と希望を与えてくれた。
笛を奏でながら少年は苦笑せざるをえなぬ。
いまや逆賊の自身が吹くこの名笛「桜花」こそ、いまは亡き先帝より賜りしものなのだ。
皮肉以外のなにものでもない。
一方で、部下たちよりはなれた場所で一人笛の音をきいていた土方は、あいかわらずこめかみの痛みと心の痛みとの双方に苛まれた。
さきのことは考えるな。いま、このときのことだけを考えろ・・・。
何度も自身にいいきかせる。
あいつが死ぬ。
これまではその思いもまだ遠いものだと、もしかするとなんとかなるかもしれぬと、そう信じようとしていた。
だが、もはやその思いも、しょせん絵空事に過ぎないことを認めざるをえぬ。
あいつはけっして弱味をみせぬ。おれにも周囲にも、苦痛に苛まれていることを絶対に悟らせぬ。
厳蕃の忠告が脳裏をよぎる。そして、山南のそれも・・・。
こめかみが痛む・・・。
どうにかしてくれ。かっちゃん、あいつを、あいつを助けてくれ。あらゆるものから救ってやってくれ・・・。
「なっ坊、頼むよ。おれにもなにか凄い技を教えてくれ」
「やめろ、市村!坊に構うな」
「なにをしている?やかましいぞ。この辺り一帯に響き渡ってる」
見張りの隊を残し、そろそろ仮眠をする時刻だ。
久方ぶりの酒は、たった一杯だけでも隊士たちにひとときの安らぎを充分与えてくれた。
隊士たちは、それぞれの持ち場に引っ込み、割り当てられた毛布にくるまっている。
そのようななか、市村は少年に執拗に迫っていた。その市村を、相馬が叱り飛ばす。
市村は玉置が、相馬は野村が、ともに傍にいないことが寂しいらしい。
野村は、甲鉄奇襲の際に受けた小銃の弾の所為で左の腕がつかえなくなった。日常生活はなんとか問題ないものの、刀を振るうには厳しい。
土方は、野村を説得、否、なかば強制的に、玉置の介護をするようにといいつけた。
病院から連れだした玉置とともに、少年がアイヌの村に連れていった。
玉置は、少年がその生命を助けた。沖田とおなじように。
アイヌの村で養生すれば、元気に生活できるようになるかもしれぬ。
玉置と野村、二人はこの蝦夷でそれぞれの生命をしっかりと護りあって生きてくれるはずだ。
土方はそう信じて疑わぬ。
「なぁ、いいだろう?おれも局長の役に立ちたいんだ。せめて敵の攻撃から局長を護りたいんだ」
市村の決意はすくなからず土方を喜ばせた。無論、内心で。同時に危惧も抱いた。こいつも無茶するに違いない、と。
「馬鹿いってんじゃねぇ、市村。おめぇを盾にするほどおれの腕は落ちちゃいねぇ。相馬、こいつを早く寝かせろ」
「はっ!局長。さぁくるんだ、市村」
「えー、相馬さん、なんでだよ?」
「護るべき局長の安眠を妨害しているんだよ、おまえが」
相馬は苦笑しながら、市村の腕をひっぱった。
「市村さん」
これまで無言でみつめていた少年が、市村を呼び止める。
「・・・!」
刹那、笑顔で振り向いた市村のそれが凍りついた。
その首筋に、白刃が吸い付いていたのだ。
「市村さん、これはあなたの得物です。近藤局長の目利きはなかなかのものです。いい刃紋を持つ刃だ。しかもまだ人間の血の味を知らない」
自身の腰間に、慌てて瞳を向ける市村。
月と無数の星の光の下、そこには中身のない鞘だけがぶら下がっている。
「おれは三つのときに初めて刀を握ってから、来る日も来る日もただ素振りをつづけました。いまもそれをつづけています。それはなにもおれだけではなく、永倉先生や沖田先生、斎藤先生も同じですし、世に有名な剣豪も同じです。基本こそが真に上達する近道。技はおのずとついてきます。これがおれがあなたに伝えられる唯一のことです」
少年はふわりとやわらかい笑みを浮かべる。
「失礼致しました」と、刀自身とその遣い手に詫び、すばやくそれを市村の腰の鞘に納めた。
市村は、ずっと後になってもこのときの年少の大剣豪の教えを護りつづける。
「どこへゆくっ!」
相馬と市村が去ると、自身の懐刀もまた一礼して立ち去ろうとするのを土方は制した。
自身との接触を、あれ以降あきらかに避けている・・・。
回天の甲板上での後処理は、思った以上に土方に打撃と喪失感とを与えた。
この奇襲作戦そのものが無謀で無為であったことを突きつけられたのだ。
怪我人は無論のこと、そうでない者の精神を鼓舞するのに、土方は全身全霊をもってそれを行わなければならなかった。
そして、その間にもつねに根底には恐怖と不安がとぐろを巻いていた。邪悪で兇悪な大蛇が自身の精神をいとも容易に呑み込もうとしている。
あいつが死んでしまう・・・。このたった一つの想い・・・。
ある程度片付いたところで、土方は後の処理を相馬と海軍奉行の荒井に任せた。
自身は、船中にある医務室へと向かった。狭い階段と廊下を歩きながら不安に苛まれ、どうにかなってしまいそうだった。
そして、医務室の前でその扉を開けることをかなりの間迷い躊躇った。新撰組の鬼の副長、いまや新撰組の冷酷な局長であり、箱館政権の残酷な陸軍奉行並たる土方歳三が・・・。
鼓動が早くなり、扉の握り手を掴む掌が震えた。そして、自身を鼓舞し叱咤してそれを開けた。
なにかが焦げた臭い、そして血の強烈な臭気で不覚にもむせ返ってしまった。その焦げた臭いが人の肉のそれであることにすぐに思い至る。
さらなる不安と恐怖に襲われ、土方は狭い医務室に視線を走らせた。そして、その室内の床の上、机に背を預けぐったりしている少年をみつけた。
木製の床の上で木材が吸収できなかった血が溜まっていた。尋常ではない量だ。小さな体躯にこれだけの血が?否、これだけの失血で生きているのか?自身の両脚が体躯が震える。
褌だけの姿で、右掌にはくないを握ったまま少年は隻眼を閉じ俯いていた。いつも源さんが刈り揃えていた頭髪は伸び、そこにも血がこびりついている。腹部を被弾し、そこを自身で焼いたのだ。そして、血まみれの体躯にも四肢にも所狭しと新旧さまざまな傷や火傷の跡で覆われている。それはまるで、刺青のようだ。
そのほとんどの傷跡が、他者によってではなく自身でつけたものであることを、土方は気がついていた。
「坊・・・」
声まで震えていた。
室内は医師のものらしく、狭いながらも片付いている。
唯一、机上とその周囲だけが、乱れ汚れていた。
室内に一歩踏み込む。少年の隻眼がわずかに開いた。
「大丈夫です。近寄らないでください。おれの血で穢れます・・・」
少年はくないを握ったままその拳を上げ、土方を制した。
「なにゆえ、なにゆえここにきた?」
自身の想いとは裏腹に、土方は厳しく問うていた。
自身でも情けないほどに声音が震えている。
心底傍にいて欲しい。そう願っているにもかかわらず・・・。
「斎藤らは引き止めなかったのか、えっ?」
「・・・。斎藤先生はあなたからの命を伝えてくれました。おれがその命に従わなかっただけです、局長・・・」
できるだけ苦しさを悟られぬよう、少年は演じている。
だが、土方にはわかっていた。すでに感じているのだから。
ときが迫っていることを・・・。
このときから、少年は土方との接触を避けるようになった。
そのときはちかい。
それを自身に、自身の主にいいきかせるかのように・・・。
いつもと同じようにこいつは地に片膝つき、面を下げている。けっしておれをみようとしない。
「どこへゆく?」
馬鹿みたいに、おなじことを繰り返す。
「物見に参ります」
「必要ねぇ!休め、いいな?」
「休むことも必要ございません」
俯いたまま、あいつは頑なな態度を崩そうともせぬ。
すぐ右横の木、蝦夷松の枝に大きな梟がいる。おれたちを見下ろしている。
こいつが「長老」と呼んでいる、大きな梟だ。
アイヌたちはこの大型の梟を「コタンコロカムイ」と呼び、古来より村の守り神としているらしい。
この蝦夷の地はまだまだ開かれておらず、自然や資源が豊富にある。
ただこうしているだけでもなにかおおいなるものの力を感じ、得ているような錯覚をおこす。
静かだ。長老の仲間の鳴き声が、夜のしじまに流れていく。
そんななか、おれたちはこうして明日をも知れぬ命を噛みしめている。
「強情なやつだ」
おれが一歩近寄ると、こいつはあからさまな拒絶反応を示した。
「局長、どうかおれに構わないで下さい。敵にせめて一矢報いたいのです・・・」
白々しいいいわけだ。
こいつは自身が死ぬ前に、否、おれたちを助ける為に長州勢にさらなる畏怖を与えたいというのだろう。
こいつのなかで、もはやこの戦の勝ちはない。被害を最小限にし、この箱館政権の幹部連中の助命を得、なおかつ一兵卒や小者も含めたすべての者の無事を確保する。
こいつは、傷つき疲れきったこの小さな体躯と頭脳で、それらを必死に考え動いている。
おれはそれを止めるどころか、わずかな休息すらとらせることができぬのか?
「勝手にしろ」
そう吐き捨てた。
できるだけ考えていることを悟られぬよう、おれはこいつに背を向けた。
不毛な会話で、これ以上こいつの体力を奪うことはできぬ。なにもできぬ、止められぬのなら、せめてこいつの好きなようにさせてやらねば・・・。
背後で気配が消えた。
あいつはわかっているはずだ、おれの想いを・・・。
くそっ!どうすりゃいい?おれはなにをやりゃいいんだ、かっちゃん?
「長老」が羽ばたいた。
おれの頭上をゆっくりと旋回し、あいつを追って森の闇のなかへと入っていく。
なにゆえか、それはおれを誘っているような気がした。だからおれも森のなかへと入っていった。
深い森の闇のなか、いくつもの小さな光が微動だにせず灯っている。
夜目のきく少年には、その小さな光がなにかがはっきりとわかっている。
木々の間からつぎつぎに四つ脚の獣たちが駆けだしてくる。
うしろにいる風神も雷神も、本来なら怖がるであろう相手をまったく意に介していない。
二頭の裸馬は、少年のうしろにぴったりと付き従っている。
何十頭もの狼たち。
小さな池の畔には、狼だけでなく、羆や鹿、狐や狸、野犬や小動物たちが集っており、池の傍の樹上には、梟や猛禽類がそこを占拠している。
朱雀だけは、当たり前のように少年の右肩の上でその翼をたたんでいる。
雲の間から月が顔をだした。ほぼ満月に近いそれは、淡い光を蝦夷の大地に静かに注ぐ。
小さな池には鮒でもいるのか、ばしゃばしゃと跳ね回り、その水しぶきが月光を吸収してきらきらと光った。
じつに幻想的な光景。
十間ほど離れた木陰から、土方はそれを目の当たりにし、感動を覚えずにはおられぬ。
狼たちが、少年の周囲で跳ね回っている。
黄色みを帯びた体毛に尾の先端だけが黒い。本土のそれとは違い、ひとまわり大きな体躯の蝦夷狼。
狼たちは、まるで踊っているかのようだ。少年は、その中央でそれをただ嬉しそうに眺めている。
そのとき、遠吠えがしじまを斬り裂いた。低く太いそれは、まるで大地の咆哮のようだ。それが止むと同時に、池の向こうの木々の間から、あらたな四つ脚の獣たちが飛び出してきた。
六頭。それらはいずれも子牛位の大きさだ。獣たちは池の畔に達すると後ろ脚のばねを使って跳躍した。
小さいとはいえ、五間はあろうかというその池を、六頭の獣たちは軽々と飛び越えた。そして、地に着地する頃には、それまで飛び回っていた狼たちは地に腹をぴたりとつけ、臣従の姿勢をとる。
月光の下、六頭の獣の体躯はその光を吸収して白く光り輝いている。
「壬生狼・・・」
土方は木陰で呟いていた。
その六頭の巨獣は、まぎれもなく壬生狼、白き狼たちだったのだ。
六頭は、ゆっくりと歩を進めた。先頭の一頭は、他よりさらにひとまわり大きい。
立ち止まり、白き巨獣は相対する人間の子をみた。
それからゆっくりと四肢を折り、腹を大地につけた。無論、他の五頭もそれに倣う。
「狼神、そしてわが兄弟たち」
その声音には、まるで何十年ぶりかに再会する肉親に対する想いが込められているかのように感じられる。
土方は、この狼たちが少年を育てた狼の子孫であることを知った。そして、少年のもう一つの姿である壬生狼の原型であることも・・・。
土方がこっそりみ護るなか、とはいえ気づかれているではあろうが、少年は最前で礼をとる白き狼の太い頸に小さな腕を回し、その頭部をしっかりと抱きしめた。
辛抱できぬのか、五頭はわれさきにと少年に群がり、じゃれつく。
公平に抱きしめてゆく少年。人間も獣もその表情は優しく、なにより喜びに満ち溢れていた。
土方の頬を涙が伝う。
この夜みた光景は、生涯けっして忘れぬであろう。
たとえ愛する妻の信江であっても、このことは語らぬであろう。
自身だけの光景にしたい。
このとき、そうかたく決心した。




