提督と神々
回天は非武装艦だ。しかも、外輪船で舷側に水車が飛び出している為、甲鉄に横付けできない。
それでも回天の非凡な艦長の甲賀源吾は、巧みな操船技術で甲鉄に自艦をぶち当てた。
だが、甲鉄の左舷に艦首が乗り上げるような形となってしまった。
ゆえに回天から甲鉄の甲板まで二間程の差ができてしまった。
「飛び降りろ!いけいけっ!」
回天の甲板上で、海軍奉行の荒井、艦長の甲賀、土方が声を枯らして抜刀隊に指示をだす。
この作戦を提案した元仏海軍のニコールら数名の元仏軍兵士と野村が率いる彰義隊や神木隊の隊士たちが甲鉄へと飛び降りていく。
だが、回天の船首は細身であるがために、飛び降りることのできる人数が限られてしまう。
相馬の隊が駆け寄ろうとしたとき、甲鉄の甲板に備えられたガトリング砲が火を噴いた。その凄まじいまでの連射により、何名かの体躯が宙を舞い肉片が飛び散った。
いち早くこの奇襲に気づいた春日もその甲板上から容赦なく砲撃を開始した。
「持ち堪えろ!撃てっ!撃てっ!」
甲賀は、遠江国掛川藩出身。子どもの時分は剣術好きでその道に進もうとしたが、蘭学を知ってからは航海術に傾倒し軍艦繰練術を学ぶ。
語学にも堪能で繰練術に関する訳書も記している。
小柄で小回りがきき、海の男らしくよく陽に焼けている。
寡黙で頑固なところも海の男らしい。仲間を何より大切にし、朋輩や部下たちの受けもよかった。
その甲賀自ら甲板に立って指示を出していたが、甲鉄や春日からの砲射撃によってその体躯に幾つも穴を開けていた。
そして、ついにそのこめかみを一発の銃弾によって打ち抜かれたとき、この奇襲作戦が失敗に終わったことを土方は悟らざるをえなかった。
「荒井殿、退きましょう。これ以上無駄なことをしても被害が大きくなるばかりだ」
海軍奉行の荒井は甲賀の幾何学や代数学の師のようなものだ。
生粋の幕臣である荒井は、長年海軍にいながらなにゆえか泳げない。
幕臣にしては偉ぶったところがなく、それどころかだれに対しても謙遜家だ。将として、武人としてはぱっとしない荒井ではあるが、人間として、長としてはできている。
このときも土方の上申にすぐさま従った。
「撤退っ、撤退だっ!土方君、抜刀隊を収容しろ」
宮古湾の空は先日からの嵐の影響かいまだ分厚い雲が垂れ込めている。
その朝、朝日はその雲に隠れ、陰気な空模様だった。
「野村っ!」
土方の指示で回天に飛び降りることのできなかった相馬らが縄梯子を降ろして僚友たちに声を張り上げる。
ニコールらが先に戻ってきた。
飛び降りた抜刀隊の半数が回天の甲板上に転がっていたが、生き残れた者は縄梯子を使って次々に戻っていく。
野村は彰義隊の一人が脚を撃ち抜かれたのに肩を貸し、それを庇いながら縄梯子に近づこうと躍起になっていた。
「行ってくださいっ!局長っ、相馬っ、後は頼みました!」
わずかなときでも回天にとっては致命傷になる。
ついに野村は、甲鉄の甲板からそう叫んだ。それがきこえたかどうかはわからないが、回天の船首がゆっくりと離れてゆく。
「待ってくれ新井殿、向こうにまだ隊士が残っている」
自ら舵を握る荒井に土方が声を荒げたが、この騒擾の中にあっては届くわけもない。
無常にも回天はゆっくりとその船首を相手の脇腹から離していく。
この接舷攻撃に要したときはわずか四半とき(三十分)だったという。
「局長、野村が・・・」
相馬が悲痛な叫び声を上げたそのとき、頭上から鋭い鳴き声とともに土方の左肩に鉤爪がしっかりと喰い込んだ。
軍服が破けたかもしれないが、この際そんなことは瑣末なことだ。
そんなことよりこの左肩上の存在そのものが土方にとってはなにより重要であり同時に大切だった。
「朱雀・・・。あいつがいるんだな、あっちに?」
土方にはいまでははっきりとその存在を感じとることができていた。
確かに自身の懐刀、否、甥は甲鉄にいる。
そして、甲鉄に残された野村たちの生命が助かったことも、はっきりと確信できた。
「あんた、名は?おれは新撰組隊士野村だ」野村は肩を貸している相手に尋ねた。
自身と同年くらいであろうその若い隊士は、痛みに相貌を歪めている。
それでも、その手負いの隊士もまた覚悟を決めたようだ。
「彰義隊隊士桐生。野村さん、つきあわせて申し訳ない。みてくれ、あそこに転がっているのは同じ彰義隊の笠間と加藤だ」
「ああ、おれたちもすぐに逝けるさ・・・」視界の隅に樽が幾つか並んでいるのがみえた。
そのとき、その陰でなにかが動いた。
「走れるか?」
野村は、そう尋ねるなり桐生を背負うようにして樽に向かった。
「ひっ!」
人影は敵の兵卒だった。
銃を持たず、腰の得物も抜刀せず、樽の陰で息を潜めていたようだ。
それは、この世界でも珍しい接舷攻撃をただ間近でみてみようと、一人近寄って眺めていた東郷だった。
「桐生、しばし抵抗してみようではないか?」
野村は桐生を樽に寄りかからせた。それから小柄な体躯をより小さくして樽にしがみついている東郷にすばやく近寄ると、その軍服の襟首を掴んだ。
「おれは新撰組の野村だ。こんなことはしたくないが、わが軍が安全な海域にでるまでしばし付き合ってもらうぞ」
東郷を楯にするしかなかった。回天をすこしでも遠くに逃すために。
敵の攻撃がぴたりと止まった。急に静かになった。まるでときの流れごと止まってしまったかのようだ。
緊張と不安とで震えているのは、野村も東郷も同じだ。
東郷の細首に回す野村の腕も回されている東郷の体躯もぶるぶると震え、両脚はがくがくしている。
まさしく四面楚歌。敵のなかで息巻こうとしているのだ。
野村は亡き近藤に祈った。どうか、土方局長や相馬が無事に箱館に戻れるように。そして、自身は敵のなかで局長のように立派に死ねるように。
「なんてこっだ」
甲板まで上り、兵卒を搔き分け進んでそこにひらけた光景に黒田は自身の双眸を疑った。
甲板上左舷で自身のお気に入りの部下が敵兵に楯にされているのだから無理もない。
「おいに説得させてくいやんせ」
黒田の酒精はすっかり抜けていた。状況をすぐさま解したのはさすがである。
周囲で息を潜めている銃隊を突き飛ばしつつ、黒田は長州や佐賀の将官に近寄ると怒鳴った。
砲術家特有の大声は、静かになった甲板上に異様に響く。
「そのような必要はない。たった一名の為に敵を逃すわけにはいかぬ。ガトリング砲の餌食にしてくれる。砲手よ、撃ち方用意!」
海軍参謀の増田はにべもなくいい放った。それだけでなく、嘲笑を浮かべながら黒田を突き飛ばした。
参謀の命で砲手たちに再び活気が戻る。
ガトリング砲発射の準備を整えてゆく。
「増田っ、貴様っ!」
黒田は腰の得物に手をかけた。
刹那、その掌が何者かに握られた。
「黒田先生」
はっとして自身の得物を見下ろすと、そこに小さな人影が佇み、自身を見上げていた。
ぼろのような着物をまとい、左半面には薄汚れた包帯を巻いている。
「辰巳・・・」
このような場と状況のなかであるにもかかわらず、黒田はなにゆえか欲情した。
それほどまでに、この優秀な間者であり暗殺者である童が自身の双眸に妖艶に映ったのだ。
童は小さくて分厚い掌で鞘を掴む黒田の左掌を握っていた。
それはぞっとするほど冷たい。
同時に、ここは任せろといっていることもよみとれた。
辰巳の小さな掌が離れたときにはすでにその体躯も消えていた。
ガトリング砲が火を噴いたのもちょうどそのときだ。
野村はわが瞳を疑った。
それは、人質に取られた東郷にしても同じことだったろう。
無論、武士としてこれほど不名誉なことはない。
自身の口から「わたしに構わず攻撃して下さい」といわねばならない。
だが、なんの躊躇もなく攻撃の命をだした増田に対し、東郷は自身を人質に取っている敵以上に怒りを覚えた。
長州者、ということもその怒りを煽る。
甲鉄には二基の大型ガトリング砲が甲板に備えられてあり、いまやそれが火を噴こうとその冷たい口をこちらに向けている。
二名の射手に、弾を支える砲手が二名ずつ。長州と佐賀の兵だ。
薩摩兵はいない。
敬愛する黒田がみえる。そして、その黒田のすぐ後ろに自身が連れてきた童がいるのがかろうじてみえた。
(黒田さぁ、無様な死に様で申し訳あいもはん・・・)
叫びたくとも恐怖のあまり小さな呻き声すらでそうにない。
隊長の号令以下、砲に弾が装填された。
「撃てっ!」
隊長の腕が振り下ろされ、甲板上にガトリング砲の乾いた連射音が響く。
野村、東郷ともにそれぞれの双眸を閉じた。
衝撃があり同時に横様に倒れた。樽の向こうに身を隠した桐生がなにか叫んだような気がしたが、なんと叫んだかは砲声に掻き消されてわからなかった。
「きんっ!きんっ!きんっ!」と、身の毛もよだつ金属音が耳朶に飛び込んできた。
そして静寂。
耳朶が痛くなるほどの無音がそれまでの騒擾にとってかわった
「・・・?」
「・・・?」
野村も東郷もおそるおそる瞼を開けてみた。死んだかと思った。
が、どうやらまだ生きているようだ。
東郷は、後帝国海軍を率いて連戦連勝し、自身神格化までされるようになってもこのときのことをけっして忘れることはなかった。
このときの光景は、脳裏にそして精神にしっかりと刻み込まれたのだ。
「まさか坊、おまえか?」
気丈な野村でさえ、このときばかりは驚きと嬉しさとで声音が震えた。
それまで自身らが立っていた場所に小さな童が背を向けて立っていた。
その手には抜き身が握られている。
少年は野村と東郷を突き飛ばして最初の数弾から救うと、残りの弾は刀ですべて両断したのだ。
それは甲板上にいるすべての者の双眸と精神を魅了するには充分すぎた。
この甲鉄には薩摩などの軍事教練を行った英国軍人も十数名乗り込んでいた。
異国人は、概して謎多き東の果ての国日の本に対しなにかと神がかり的な思想を抱いている。
このときもこの少年の妙技を目の当たりにし、まるで神の降臨であるかのように騒ぎだした。
「大事ありませぬか、野村さん、東郷先生?」
背を向けたまま少年が訊いた。
「ああ、かすり傷だ」
野村はこれまでに小銃で数発撃たれていたがこともなげに応じた。
「いけんしておいを?おはんんったい・・・」
「東郷先生、あなたに拾って頂いた借りを返したまでです。大切な刀、しばしお借りします」
背を向けたままそう告げると、少年は銃砲を構える敵に向かってゆっくりと歩を進めた。ぼろをまとったその左腰に、手際よく日本刀を佩く。
東郷はそこではじめて、左腰から自身の得物がいつの間にか消えていることに気がついた。
自身の無銘の刀が銃弾を両断できるとはとても信じられない。
自身が拾って連れてきた童の背をただ呆然とみつめた。
『わが名は辰巳。貴国で「竜騎士」の称号を与えられしこの国の武士である』
少年は流暢な英語で告げる。
『自軍の兵を見捨てるは武士の風上にもおけぬ振る舞い。どうか天誅を下すことをお許し願いたい』
『「竜騎士、わたしはあなたを知っている。わが国の恩人。存分にされよ。わが軍はあなたの味方だ』
英国軍の将校が応じた。
若い将校だ。実際、英国でも有名な「東方の忍者」たる「竜騎士」と戦場で轡を並べたことはないだろう。
だが、その伝説はよく知っている。
英国軍人のなかには古参らしき兵もいる。それらもまた、小さな「竜騎士」に対し敬意を表する敬礼を送ってよこす。
「竜騎士」はこの場では敵であるにもかかわらず・・・。
ときがない。
少年は、すばやく左腰の得物の柄に右の指を走らせ、刀自身とその持ち主を讃える詠唱を送った。同時に自身の封印を解く。それは、剣士としての封印。
これからやろうとしていることは、柳生の兵法家としての技と力と精神が必要なのだ。
気を高めていく。再びゆっくりと歩を進める。
「なにをしている。撃ち殺せ。ガトリング砲を装填しろ・・・」
気の高まりにつれ艦上のすべての人間がそれに吞まれ身動ぎ一つできなくなる。
増田の指令の声量はほとんどききとれないほど小さくて弱い。
全員がその場に釘付けにされた。ただ両方の瞳だけが小さな童の動きを追う。
それは敵だけでなく、野村や桐生そして東郷も同じだ。
自身の気、相手の気を操ることで相手を倒す活人剣の極意。
静寂と少年の発する鋭利な気だけが支配する艦上。
少年はガトリング砲の真ん前で歩を止めた。借り物の得物を一閃、返す刃でさらに一閃させた。
その抜刀術のあまりの速さは、示現流の達人である黒田でかろうじて感じとれたにすぎない。
得物が鞘に納まったその直後、二つのガトリング砲の砲身が切断され、同時に甲板の床板の上に轟音を立ててそれらは落下した。
柳生新陰流抜刀術。
少年はその極意で百貫以上ある大きな鉄球を両断することもできるのだ。
英国軍人たちが嘆息を漏らした。
異国人だけではない。この国の者ですらこれほどの剣技を目の当たりにできるわけもない。
しかもぼろをまとった小さな童が行ったのだ。
大人たちは、ただただ驚愕した。
増田、そして甲鉄の艦長中島、この二人の長州人が生命の危険に直面したことを知ったのは、それぞれの頸を小さな掌で握られたときだった。
二人は自藩や佐賀藩の側近に囲まれて安全なはずだった。
しかし、その取り巻きどもを飛び越し、童は両名の頸を取ったのだ。
つい先ほどまで立っていた位置からゆうに七、八間以上は離れているというのに。
凄まじい力が喉を締め上げてゆく。
増田も中島も悲鳴を上げるどころか一気に呼吸困難に陥った。
周囲で側近たちが騒ぎ立てているが、双方ともに相貌を真っ赤にし白目を剥いている。
意識は急速に遠のいていっているだろう。
黒田が駆け寄ってきた。
少年は自身よりも大きな男二人の頸を握り、腕を精一杯伸ばしてその体躯を宙に浮かせている。
刹那、二人の視線があった。
そうと周囲にわからぬほんのわずかなとき。同じ側に与しているわけではないが、互いの存在を認識してから四、五年にはなるか?互いの思いを知るのに、あるいは伝えるのに両者の間に不自由はないだけの付き合いはあろう。
「なにをしとお!銃隊、たった二人の為に敵を逃すわけにんきません。すぐに撃ってくいやんせ」
黒田は、つい先ほど増田が東郷に対して下した命と同様の命を下した。
無論、東郷と増田とでは立場も地位も違う。しかもここにいる長州藩の海軍の兵卒たちが薩摩藩であり陸軍参謀である黒田の命に従うわけはない。
充分にわかってはいる。
だが、これで黒田はわずかでも東郷の、さらには薩摩藩の矜持を保つことができた。
敵である童の機転によって。
「わが名は辰巳。無駄なことはお止めなさい、陸軍参謀殿」
童は不敵な笑みをその異相に浮かべ、黒田に調子をあわせた。
これで黒田や東郷の面子は保たれる。
いま、自身の掌中にある増田と中島、この二人をこのまま縊り殺せば、ここにいる部下たちは死に物狂いで仇を討とうと、否、討たねばならなくなる。
それは回避したいところだ。
「機関部に細工をさせて頂いた。われわれを追おうとしてもそれは叶わぬ。部下の命を虫けら程度にしか扱わぬ海軍参謀と艦長など、殺ればわが刃の穢れとなるだけ。さあ、受け取れっ!」
そう叫ぶなり、童は大人二人を軽々と放り投げた。
甲板上に放り投げられた増田と中島は冷たい床の上でぐったりとしている。
気を失っているだけのはずだ。部下たちの視線が哀れな上官に集まる。その隙に、童は船首近くでこちらを見守っている野村たちの方へと駈けだした。
「東郷先生、いい得物をお持ちだ。刃はまだ人の血を知りませぬ。知らぬままのほうがよろしかろう。ですが申し訳ありません、柄がわたしの血に染まっています。すぐに手入れをなさって下さい。穢れた血です。このままでは目釘や柄糸が腐ってしまいます」
借りた得物を持ち主に手渡しながら少年は囁いた。
このときには東郷はその意味がよくわからなかったが、こくこくと相貌を上下に振って了承の意を示した。
「間もなく迎えが参ります。野村さん、動けますか?」
「どういう意味だ?」
野村がきき返す間もなく、少年は野村を左の肩に、樽に寄りかかっていた桐生を右の肩にそれぞれ担ぎ上げると甲鉄の船首へと駆け寄った。
「来たれ、海神!」
眼前に広がる大海原に向かって少年は文字通り咆哮した。
召還に従い、すでに彼らが集まってきてくれているのを少年は感じていた。
全長約三十町、排水量は約一屯半はある当時では重量級の軍艦がその大波に揺れた。
「みろっ!」
「なんだあれは?」
「鯨だ」
将兵がわれ先に舷側に集まった。
誰かが指差す方角をみると、何頭もの鯨が潮を吹き、なかにはその巨体をうねらせながら海面上に飛び上がっているのもいる。
抹香鯨や白長須鯨だ。
哺乳類のなかで最大のこの鯨たちの出現は、海の男たちにとっては畏怖に値する。
そして、その巨体が起こす大波はさしもの軍艦甲鉄であってもまるで枯葉のように揺らし漂わせた。
少年はみえるほうの隻眼を背後に向けた。艦橋近くでは黒田が、マスト近くでは東郷が、それぞれの思いをこめた視線を送ってきているのを感じることができた。
「鯱神よ!」
船首から海を覗き込むと、すぐ真下で多くの鯱が群れをなして海面上に現れている。
「おっ、おい、どうする・・・。うっ、うわっ」
尻を前にして少年の肩に担がれている為野村も桐生も様子がまったくわからない。
野村がようやく相貌を少年の後頭部に向けた瞬間、少年は船首から飛び降りた。
「ぎゃーっ」
「ひーっ」
どちらがどのような悲鳴を上げたかまではわからぬが、兎に角、勇敢な若侍二名の情けない声が海上にこだました。
その瞬間、一頭の鯱が水中から空中へと跳躍した。海面へと落下する少年たちにあわせたもので、その鯱の大きな頭部に少年はうまく乗ることができた。
鯱のほうは、人間をその頭上に戴いたままできるだけ静かに海面へと着水した。
「なんてことだ、なんてことだ」
鯱の頭部に降ろされた桐生は、その場にへたり込んで同じ文言を呟きつづけている。
無論、野村もそれに同感だ。
「甲鉄の機関を破壊しました。すぐには追いかけてはこれません」
背後の軍艦を伺いながら、少年が説明した。
鯱の群れは回天が去った方角へと移動を始めていた。
野村も背後を振り返った。
甲鉄は鯨たちが起こす大波にもまれ、まるで筏のように翻弄されている。
(こいつはいったい・・・)
強いことは知っていた。詳しくまでは知らないが、すごい腕と地位を持っていると噂できいた。
確かに、これまで目の当たりにしたことを思えば、その噂は噂に過ぎず実際にはもっと凄いのだろう。
兎に角、こいつのお蔭で自身も桐生も死なずにすんだ。
誰かが激しく咳き込みだしたので、野村ははっとして甲鉄から視線を引き剥がした。
少年だ。少年は両方の掌を鯱の頭部に置き、激しく咳をしている。
その口から血が大量に流れ落ちていく。
「おまえ・・・」
野村が掌を差し伸べようとした。その隣で桐生も動揺しているようだ。
「こないで・・・ください・・・」
吐血しながらも、少年は片方の掌を上げ野村を拒んだ。
汚れて黒くなっている着物で気がつかなかったが、それが血に染まっていることを、野村も桐生もこのときはじめて気づいた。
「坊・・・」
あのとき、自身の身を挺して庇ってくれたのだ。
「野村さん、軍服の上着を・・・。野村さんっ!お願いです。大したことではありません。どうか普通に振舞ってください。こんなこと、大したことではないのです」
一喝され、野村はいわれるままに上着を脱ぐと少年に手渡した。
掌が血で染まっていることを、野村は見逃さなかった。
普通の人間なら致命傷だ。死んでいてもおかしくない。
よたよたと逃避行する回天にはすぐに追いついた。
野村が声を限りに叫ぶと、回天の艦上から縄梯子が下ろされた。
先に野村が上った。桐生には縄を下ろし、少年がそれを桐生の腰に結んでやった。桐生はゆっくりと引き上げられてゆく。
「ありがとう、わたしの友よ」
桐生の姿が回天の艦上に消えると、少年は包帯に覆われていないほうの頬を、鯱の頭にこすりつけた。
「わが朋輩 海神たる鯱神、わたしたちの召還に応じてくれたことに心から感謝します。それから、あなたの頭をわたしの穢れし血で汚したことを心より謝罪します」
あのとき、最初の二発は間に合わなかった。
ガトリング砲の弾はさすがに掌で受け止めることはできない。掌が吹き飛ばされるのが落ちだ。だから自身の体躯を使うしかなかった。
できるだけ傷ついてもいい片方の肺に当たるように。
だが、いかんせんこの器は小さすぎる。
弾は貫通した。しかし、その威力は自身が思っていた以上だった。
これが自身にとって致命傷となったことを認めざるをえない。
自身の業。判断の誤り・・・。
「まだ死ねない。大神よ、この戦が終わるまでどうかわたしを、この器から奪わないでください」
鯱の頭に頬をつけたまま少年は懇願した。
痛みと大量の出血が少年の意識を無慈悲に奪おうとしている。
必死にあがらう。
死ぬ覚悟はとうについており、むしろ、それを切望してさえいる、だが、いまはまだその時期ではない。自身の意識を、この妖としての意思をなくすことがなにより怖ろしい。
「ええ、わかっています。鯱神。あなたの高貴なる力、ありがたく拝領致します」
海神の申し出だ。
海こそがあらゆる生命の起源。
その大いなる力、母なる力を少年に貸してくれるという。
『さあゆけ、狼神の子、否、全智全能の神 大神よ。わが海神の力を用い、人間を救ってやれ』
少年が縄梯子に縋り付くと、海神はその美しくも猛々しい姿を海中へと消し去った。
艦上は、凄惨極まりない。
艦長の甲賀をはじめとし、戦死者や戦傷者で溢れ返っている。
上に辿り着くまでに少年は朱雀から上の様子をきいていた。
大鷹は自身の主の戦傷を敏感に察知し、悲痛な鳴き声を上げている。
「朱雀、お願いだ。甲鉄の様子をみてきてくれ」
命じられてもしばらくは少年の頭上で舞っている。三度目の呼び掛けでやっと飛び去ってくれた。
「坊っ!」
ちょうどそのとき、今度は少年の主が手摺から身を乗りだした。
心中をよむまでもなく、その険しい表情で野村から話しをきいていることがわかった。
少年が軽やかに手摺を乗り越え甲板に膝をつくと、土方が両腕を伸ばそうとした。
主の腕を掌で軽く払い、そのまま軍服の胸元を掴む。そして、それをぐいと引き寄せ、自身の相貌に近づけた。
少年の荒っぽいその所作は、土方を当惑させた。
「局長、あなたはこの艦上の生者すべてに対して責があります。いまあなたがしなければならないことは、ご自身の鈍刀の手入れではありませぬ。この艦を、ここで生きている者たちを無事陸へ戻すことです」
土方の耳朶に囁く。
それはまるで狼の唸り声のようだ。殺気まで放たねばならなかった。
空いている方の掌で借りた野村の軍服の下にある傷と血を隠す。
少年の主はただ無言で頷いただけだ。
それでも相馬を呼びつけようとする。
介抱させるためだ。
それすら少年は拒絶した。自身でできるから、と。
甲板に寝かされた戦傷者の手当てをこの艦の軍医や元仏軍の衛生兵が文字通り駆けずり回って行っている。
士気は最悪だ。ここで土方まで動揺すれば蝦夷までの航行すら支障をきたす恐れがある。
ゆえに、少年はわざと激しく振舞った。
少年は回天の医務室に転がり込んだ。
モルヒネはきかない。少年はモルヒネや阿片など常用性のあるものも含め、あらゆる薬に耐性がある。
鎮痛や抑制効果はある程度の摂取量では、その効果は望めない。
血が止まらない。
野村の軍服とぼろぼろの着物を脱ぎ捨てて褌だけになる。
医務室に置かれた鏡で傷を確認すると、背中に小さな穴が、腹部に大きな穴がぽっかりと開いている。
みるみる内に足許に血溜りができた。
すでに生きていけるだけの血は失われている。
脱ぎ捨てた着物を探るとそこからくないを取りだしそれをアルコールランプの火で焼いた。
鉄が焼けるまでの間でも傷の痛みと失血とでふらつき、机に慌てて掌をつかねばならなかった。
焼けたくないを傷に当てる。肉と血の焦げる異臭が医務室に充満した。
「くっ・・・」
どうにかなってしまいそうだ。
それを何度か繰り返し、背の小さな傷も焼いたとき、少年の口唇から小さな笑声が漏れた。
人殺しの末路・・・。
人を喰らい、あらゆるものを破壊しつづけた妖の成れの果て・・・。
それがこれだと思うと、笑いがこみ上げてくる。




