沈黙の提督?
明治元年(1868年)10月、松前藩と交戦状態に入った旧幕府軍は、これを一月たらずで制圧しここに拠点を築くことができた。
蝦夷地平定後、旧幕府軍は箱館政権を樹立、入れ札を行いその総裁を榎本武揚とし、松前藩にかわって蝦夷の一部を統べるようになった。
この入れ札で土方は陸軍奉行並に、大鳥は陸軍奉行に就任する。
新政府軍は旧幕府軍が箱館を制圧した時点で江戸でそ諸藩の将兵をかの地へ送り始め、11月には追討令が出された。
だが、どの藩もろくに冬支度をしているわけでもなく、本格的な箱館征討は翌年の雪解けを待つこととなる。
その為青森辺りで冬営を行った。
ストーンウオール号はアメリカの軍艦だった。もともとは幕府が購入する予定だったのを、新政府軍が横取りしてしまった。
名を甲鉄とかえ、春日・陽春・丁卯といった軍艦に豊安丸・戊辰丸・晨風丸・飛龍丸の運送船四隻が、甲鉄を旗艦とし、品川沖を青森に向けて出帆した。
明治二年(1898年)三月九日のことである。
新政府軍は、長州藩士増田虎之助を海軍参謀に、陸軍参謀には薩摩藩士の黒田清隆を任命し、この任に当たらせた。
そして、各艦に陸軍を分乗させ、新政府軍は宮古湾までやってきたのだった。
三月二十日のことだ。
同日、箱館政権は、喉から手がでるほど欲している甲鉄が宮古湾にやってくることを察知し、その奪還を元フランス軍のニコールの助言で実行する為、海軍奉行荒井郁之助を指揮官として、陸軍奉行並土方歳三以下百名の陸兵を乗せた回天と蟠竜、箱館で拿捕した高雄の三艦は宮古湾に向けて出航していた。
東郷平八郎は薩摩藩士で、後、大日本帝国海軍の提督となる武人である。
このときにはまだ若く、この遠征は初めての戦であった。
とはいえ、生来、優しい気性のこの海の男は、このときも戦働きよりも、操船の技術や海戦の戦術のほうに興味を抱いていた。
剣はお家芸たる示現流を、他の薩摩武士たちと同じように道場の門を叩くも、まったくものにならず、かといって砲術もずば抜けた技量を持っているわけでもない。
それでも、前向きで物おじせず、気端のきく性質は、朋輩のみならず、上官にも大いに気に入られるところであった。
薩摩の誇る軍艦「春日」に乗船し、そこで軍務に従事してはいたが、陸海の域を越え、黒田がこれを大いに気に入って、ことあるごとによく使っていた。
後年、大日本帝国海軍にあって、「沈黙の提督」と世界中の海の武人たちの畏怖と尊敬の対象となったこの東郷も、若かりし頃は美男子で話し好きであった。
まさしく、黒田の好みでもあったのだ。
この日、たった二時程度ではあったが、上陸の許可が出た。
もっとも、その主な理由は、来るべき箱館征討を前に、艦で下働きをする小者を集めることだ。
湾に住まう地元人なら海にも船にも慣れているだろう、というわけだ。
思惑が外れることもなく、十数人の漁民を雇った。同時に、蝦夷から箱館政権の艦隊がこちらに向かっているとの情報も仕入れた。
それらを伴い、意気揚々と春日に引き揚げようとした。
その際、東郷は港で哀れな戦災孤児と出会った。
それは、旧幕府軍に親を殺され、二人の妹になにか食べさせる物を探してふらふら徘徊している童だった。
その童自身も隻眼を失っており、左半面は包帯で覆われているものの、もとはかなりの美童だったのだろう。
右半面はたいそう美しかった。
敬愛する黒田の性癖を知っている東郷は、この港に停泊している間だけでも、童やその妹たちが食べられるだけ稼げるよう、一緒にくるよう誘ったのだった。
東郷は自身がかの有名な暗殺者を招き入れているなど夢にも思ってはいなかった。
「なんだと?はっ!旧幕府の野良犬どもになにができると申すか?やつらの船などこの甲鉄の前では筏も同じこと。一瞬にして海の藻屑と化してくれるわ」
深更ではあったが、黒田は甲鉄の艦長室に出向き仕入れた情報を海軍参謀の増田、艦長の中島に教えてやった。
そこには、丑三つ時にもかかわらず他艦からも将官が招集され、長州藩や佐賀藩の将官どもがその雁首を揃えていた。
薩摩の春日だけは、黒田の命で哨戒にでていてる。
だれもが黒田の進言を笑った。増長と怠慢の空気が艦長室内に満ちており、黒田は酒を引っ掛けてきてよかったと心から思った。
まこのような馬鹿ども相手に、とても素面では耐えられそうにない。
「あいわかいもした。好きなごとしなさい。おや、ちゃんとおはんらに教えもした。おやちゃんと職務を果たしておいもす。そんこたあ忘れうな」
机ごしに、酒精を撒き散らして叫ぶ黒田を、長州海軍の将官たちは冷笑した。
薩摩芋はこれだからいかぬ、とどの相貌にもそう書かれていた。
「もうよか!」
薩摩武士は、短気を起こす前に艦長室を辞した。
自身の軽率な行動が即西郷の立場を弱いものにすることがなによりも怖い。
それは敵軍と戦うよりもよほど陰湿で手強い。
重い扉を力いっぱい閉めてやった。
廊下には等間隔でカンテラが吊るされている。
艦内の廊下は人一人通行するのがやっとで、黒田はそれが嫌で嫌でたまらなかった。
加えて、この揺れも不快だ。
昨日までの暴風は、停泊しているとはいえ、船に不慣れな黒田を閉口させた。
国から持参した酒をずっと呑みっぱなしだった。
早く陸に戻りたい。とにかく、部屋に戻って酒を呷らねば・・・。
割り当てられた部屋は、甲板に上る手すり階段から一番遠い位置にあり、それも気に入らない。
だが、その部屋の前にお気に入りの美男子が立っているのを認め、黒田はあらゆる意味のこもった笑みをその陽に焼け黒光りした相貌に浮かべた。
「黒田さぁ、お待ちしておいもした。お慰みに使い走いの童を連れて参いましたよ」
東郷は、狭い廊下の壁にもたれかかっていたが、黒田の姿を認めると姿勢を正した。
その東郷は腰に得物を佩いてはいるが、それで人間を斬ったことはいままで一度もない。
「東郷、春日は?哨戒にでとうではなかったか?」
お気に入りの部下を前に黒田の機嫌はよくなった。生来、黒田は単純で一途なのだ。
「はい。港で雇おいもした人足を連れて参いもした。黒田さぁにな、本当に美しか童をと・・・」
「なんだと?そや気がきくな。それでそん童はどこにいう?」
一瞬、東郷の話しに喰いつきかけた。
だが、そう尋ねながらどうも引っ掛かるものがあった。
「艦内を探検したかと。すぐに戻うごといっておいもす」
お気に入りの部下の返答に黒田ははっきりと悟った。
「なんてこっだ。そや・・・」
腕を伸ばすと分厚い掌で東郷の肩を力いっぱい掴んだ。
「痛いほいならんですか・・・」
東郷が抗議の声を張り上げた刹那、「どーん」という音が響いた。
それが春日の放った空砲であることを、東郷はすぐに理解した。
「何かあったですよ、黒田さぁ」
た東郷はそう告げるなり、自身の肩を掴む黒田の掌を払いのけ、同時に走り出した。
「待ってくいやんせよ」
三半規管が弱いのであろう。掌を払いのけられた拍子に、黒田は体勢を崩した。それでも、東郷の後を追おうと必死に脚をもつれさせながら走り出した。
東郷が甲板に上がったときには、すでに敵の軍艦が接舷しており、そこから抜き身を振り翳した抜刀隊が飛び降りようとしていた。
箱館政権の奇襲部隊、回天・蟠竜・高雄は、途中嵐に遭い、蟠竜とはぐれ、高雄は機関の故障で脱落し、回天一隻での攻撃となった。亜米利加の国旗を掲げ、宮古湾に堂々と入ってきた。
新政府軍は旧幕府軍を軽視していたが為に、その偽装を疑いもしなかった。
そして、甲鉄が間近に迫ったところで回天は国旗を亜米利加のそれから日章旗にかえると、甲鉄に文字通り体当たりしたのだ。




