鯉つかみ
新政府軍の事実上の総司令官は、宿舎の割り当てられた自室で文机で頬杖をし、ぼーっと庭をみていた。
この部屋から、すべてが発令される。そのわりに、この部屋は古くて安っぽい。そして、発令する当人もまた湯浴みすらまともにせず、軍服も着たきり、異臭を放つほどにくたびれてみえる。
ここによりつく者はめったにおらぬ。
ここにくるとすれば、指令を伝達するための伝令か、日に二度、食事を運んでくる小者くらいか。
どうやら、残党どもの主力は蝦夷へ渡ったようだ。
江戸から軍艦で逃げた榎本ら海軍に、伝習隊を率いる大鳥・・・。
幕府が購入しようとしていた軍艦ストーンウオール号を、まんまと分捕ってやった。これをつかい、榎本らを血祭りに上げるか?
さて、人選は・・・。
薩摩の黒田。わが長州からは、増田と中島・・・。
どうなっても、どちらに転んでもいい連中ばかりである。
軍の人数の比率は、七分三分の割合でよかろう・・・。
それにしても・・・。
大村は、頬杖をついた姿勢で溜息をつく。
戦局を見渡せば、新政府軍の快進撃はつづいている。
どの戦いにおいても、常勝していることはたしか。これは、ゆるぎない事実である。
だが・・・。
再度、溜息が薄っぺらな口唇から漏れる。
つねに薩摩や土佐を主軸にし、長州への被害はほとんどでぬよう配置している。たしかに、これらはほかの藩のそれより、被害、減少は最低限におさえられている。
しかし、それを率いるべき将官の減少は、ほかの藩のそれらより著しくおおい。それどころか、一方的に減っているのが実情である。
ここでいくら素晴らしい策を練り、指示を与えたとしても、現場でその指示を的確にこなせる優秀な将がいなければ、なにもならぬ。
何千何万の駒と武器があったとしても、それをつかいこなせる将がいなければ、その大軍はもはや烏合の衆にすぎぬ。
いまの長州にさほど優秀な将がいるわけではない。くだらぬ将でも、その損失は正直痛い。
辰巳という名の暗殺者は、それを狙っている。
否、長州だけを狙っているのだとすれば、それはあきらかに自身への挑戦ではあるまいか?
さらに、辰巳は暗殺だけではない。機略をもちい、長州藩を要所要所で撃退もしている。
背筋に悪寒がはしる。
古今東西、優れた軍師、勇猛な武将は存在するが、それを兼ね備えた戦人は稀である。 個の武、衆の才気・・・。しかも、用兵にも長けている。
寒い・・・。
これが気温によるものでないことくらい、無頓着な自身ですら理解できる。
辰巳の目的は、わたしなのか?
その考えは、ぞっとするものである。
江戸にいて、机上で策を弄し指令するだけでは、死や破壊が身近に感じられることはない。
それが自身におよぶことなど、このさきあるのか?
自身の血すらみたことのない自身にとって、まったく未知のものである。
一応、これでも元医師だったはずで、他者の血はみたことはあれど、それとは異種のものであろうから。
大村は、重い頭を両の掌で支え、庭をじっとみている。
ばしゃっ、ばしゃっ、と庭の池の鯉が騒いでいる。
庭にでてみたい、と思った。
なにかに誘われているような、なにかがいるような、かような錯覚がしたからである。
自身の不吉な想像から、逃れたかったのやもしれぬ。
部屋の中央に置いている、質素な燭台を縁側までひっぱてくる。
縁側の下に履き古したような草履が置いてあるので、それをつっかける。
重い頭を上げると、ちいさな池の傍にだれかが立っているのに、やっと気がついた。
ちいさな人影である。
空に浮かぶ上弦の月の光と、縁側の燭台の灯火とで、それが童であることがわかる。
夜目に慣れてくると、背を向けたその童は、いっぱしに軍服をまとっていることがみてとれた。
童は、なにかをちぎっては池に放り投げている。その度に、池のなかで鯉が跳ねる。
それは、国の用水路でみたあの光景を、鮮明に思い出させてくれる。
「かわいそうに・・・。池がちいさすぎるよ・・・」
背後にいる大村に気がついていないのか、童が呟く。
その声音は幼く、悲哀に満ちている。
そして、その声音は、大村にあのときのことを聴覚的にもはっきりと認識させた。
「おおきな鯉ばかり、かようなところに閉じ込められて・・・」
掌に握っているのは、麩なのであろう。
童はそれをちぎることを止めることなく、その左半面を背後に向けた。
隻眼と頬に傷跡のある半面を・・・。
大村はこの童が、あのときの童だと気がついた。
あのときは、物乞いのようだった。しかも相貌の半面は、汚れた包帯を巻いていた。
否、かようなことより、このちいさな童が、稀代の大罪人辰巳だったのだ。
「ひいっ・・・」
ちいさな悲鳴が、薄っぺらな口唇から漏れる。無意識に一歩後退する。
のけぞった拍子に重い頭のせいで体勢を崩してしまい、冷たい地に尻餅をつく。
「大村先生、お会いするのはこれが二度目でございます」
童は背を向けたまま、両膝を折る。
池の鯉に、麩を与えつづけている。
その声音は、さきほどとは違っておとなのそれにちかい。
「蝦夷へ発つまえに、ご挨拶にうかがいました」
敵意や害意がこもっているわけではない。叔父に挨拶にきた甥っ子のような、自然な雰囲気が漂っている。
が、それには大村自身の生命と矜持を、その根底から震わせるなにかがある。
「先生、江戸での戦ごっこは愉しいですか?」
童は、そう尋ねるとくすくす笑う。
「大勢の朋輩に、刺激を与えていらっしゃるようですね」
くすくす笑いがつづく。
その間にも、麩をちぎっては池に投げ入れている。
「この戦は、最初から結末はわかっています。誰にでも。問題は、その後ですよ・・・」
麩がなくなった。
童は、立ち上がると両方の掌をぱんぱんと叩き、掌についた麩のかすを払う。ゆっくりと振り返る。月光と燭台の灯火がまざり合ったわずかな明かりのなか、いまや日の本一の反逆者であるちいさな童の、傷跡のある相貌がそこに浮かび上がる。
じつに妖艶である。
一つの紙に描かれた醜美。この童にいたっては、美が完全に勝っている。
「こ、こ、こ、ころ、殺す、の、か?」
ようやく、喉の奥から声がしぼりだされる。
童は、尻餅をついたまま絶望的な表情で自身をみている大村に、ゆっくりとちかづく。
童の口許に、やわらかい笑みが浮かぶ。
隻眼は、大村の双眸をとらえてはなさぬ。大村は、その隻眼から双眸をそらすことができぬ。
童は、傷跡のある異相を右に左に傾ける。
「わたしが、あなたを?」
くすくす笑う。
「先生、いまはこの戦ごっこを存分にお愉しみなさるがよろしかろう。いまここで、わたしが殺さずとも、すでに種子は蒔かれております。その種子は戦略という名で、育ったあかつきに成果をあげてくれます。先生、あなたの得意なここでの駆けひきは・・・」
童は、ちいさな指で自身の頭をとんとんと叩く。
「所詮、その場凌ぎの机上の空論にすぎませぬ。あなたは、そのときになって、はじめてお気づきになるでしょう。将兵を道具とし、使い捨てにする小賢しき策士は、どの時代でも確実に淘汰されます。その道具によって・・・。そのときがきたら、このわたしの姿を思いだしなさい。わたしが手を下さずとも、わたしの蒔いた種子が、ちかい将来あなたを葬る。それが誠の戦略であることを思いしりながら、地獄へ参りなさい。さきにいって、おまちしております」
宿舎のなかで、同宿の将兵たちの愉しげな笑声がきこえてくる。
ここに侵入者がいることを、だれも気がついておらぬ。
大村は、叫びたくとも小声ひとつだせぬ。
童は、不意に指を鳴らした。
その背後で、鯉がいっせいに池から跳ねた。月光と重なり、鯉の鱗がきらきらと光っている。
そのたくさんのきらめきが童と重なる。
じつに幻想的な光景である。
はっとすると、そこにだれもおらぬ。
痕跡すら、なにも感じられぬ・・・。
このときからわずか一年後、種子は急速に成長し、戦略の実の一つをならす。
明治二年(1869年)九月三日、大村は京都三条木屋町上ルの旅館で、会食中に元長州藩士たちに襲撃される。
その傷の療養の甲斐なく、二ヶ月後に死亡する。
実行犯は、長州人。
だが、それを煽ったのは何者か?
大村は死ぬまでの二ヶ月もの間、病床でなにを考え、なにを思ったであろう・・・?




