がむしんの義
市川宇八郎とは、松前藩士の子弟で神道無念流の同門ということもあり、餓鬼の時分からのつきあいである。
餓鬼の時分にはやんちゃがすぎ、よく性質の悪いいたずらをしてまわったものである。おおきくなると存外まともになり、芳賀家の養子となって名をあらため、幕臣となった。いまは、芳賀宜道と名のっている。
それでも、短気で粗暴なところはかわりない。
縦にも横にもおおきい体躯。膂力のすぐれた宇八は、剣を握らせればそこそこ遣える。だが、それはあくまでも道場剣術の域にあるもので、実際の戦闘に関しては、そこいらの素人に毛が生えた程度、しかも銃火器をまえにすれば、それも餓鬼の時分の「戦ごっこ」以下のひどいものだ。
これまで生き残ってこれたことのほうが、正直驚きであろう。
ずいぶんと転戦した。試衛館の時分からの相棒の左之は、靖兵隊として江戸を進発し、はやいうちに抜けちまった。
いや、わかってる。近藤さんが捕まった、という噂が舞い込んだからだ。総司のことが心配でならなかったんだろう。
たった一人、江戸に残っている総司のことが・・・。
おれも思いはおなじである。
だが、おれは戦いを選んだ。これは、意地や義務なんかじゃない。やらなきゃならない、というだけだ。
どうせ負け戦、ほっときゃいい。どこかとおくで傍観しながら、剣術修行すりゃいい・・・。
おれに、それはできぬ。
これまで、この体をはって戦ってきた。新撰組の連中と。新撰組の生き残ってる連中は、かわらず戦いつづけてる。
だったら、おれもおなじだ。
近藤さんが自身、悪者になって生き残る機会を与えてくれたが、それでも戦いたい。その上で、生き残りたい。
近藤さんにだまされたふりをして袂を別った。そして、靖兵隊を抜けるという左之を引き止めなかった。
あいつらは、どうしてるだろう・・・。
宇八と靖兵隊を率いて転戦したものの、どこでも負けてばかりだ。所詮、敵とはあらゆる点で劣っている。会津を経て米沢に向かったが、途中で会津藩の降伏をしった。米沢もすぐに降るのはわかっている。
はやばやとあきらめた宇八に付き合い、江戸に向かってる。ばらばらになった靖兵隊や江戸からの脱走兵と合流できるやもしれぬ。
そうすりゃ、そこでまた戦えばいい・・・。
なんという名なのかもしれぬ山の獣道を、朝からずっとあゆみつづけている。
ときおり、生い茂る木々や茂みが揺れ、奇妙な獣声もきこえてくる。
どうやら、迷ったらしい。
二日ほどまえ、靖兵隊が銚子のほうへと逃げてったという噂をきいた。その方角に向かってるものの、山んなかでなにもなく、だれとも会わぬ状況では、向かう方角どころかここがどこなのかすらたしかめようもない。
「なあ、新八?わたしたちは熊か狼に喰い殺されるのやもしれぬな?」
うしろから、宇八ののんびりとした声音が風にのってきた。
ふりかえると、宇八はこちらに背を向け、立ちすくんでいる。大きな体躯は、これまでの苛烈で苦しい戦や状況にあっても、まったく痩せ衰えることもない。それどころか、江戸で再会したときと寸分も違っておらぬ。
なぜなら、どれだけ糧食や物資がなくとも、こいつはどこからか喰える物を調達してきていた。その入手方法を、あえて問わぬ。それをきけば、こいつと袂を別つか、斬ることになることがわかっているから・・・。
そのおおきな体躯の向こう側に、真っ黒い人影があるのがかろうじてみえる。それは、六尺はある宇八よりわずかにおおきい。毛むくじゃらで。胸に真っ白い月が刻まれている。
熊だ。しかも、冬眠まえの大型の熊・・・。
「死んだふり、死んだふりしろ、宇八・・・」
囁いちまう。
それから、得物を抜き放ち、宇八にちかづく。
「はあ?いまさら?」
宇八は体ばかりだけでなく、声もでかい。相手は、その大音声に刺激されたらしい。鼻から空気を放出する。ちいさな瞳は、予期せぬ侵入者であるおれたちをしっかりと捕捉しているだであろう。
そのとき、木々の間からわずかにみえる青い空に一つの染みができたかと思うと、それがあっという間に落ちてきた。
即座に、それがなにかがわかった。
「うそだ・・・ろ・・・?朱雀?」
驚きつつも、体躯は昔のことをよく覚えているらしい。得物を握らぬ左の腕が勝手に上がる。
「キイッ!」
さすがは朱雀だ。
鬱蒼と茂る木の枝の隙間を縫い、目標に向かって正確に急降下してきた。
これらは、こうして野鼠などの小動物を捕食する。そしていま、かれはおれの左の腕にいる。
鉤爪の痛みは、久方ぶりである。
「ずいぶんと山深くに分け入られましたね、新八兄?」
頭上から、声が降ってきた。
まだ声がわりするまえのそれがだれのものなのか、上をみるまでもない。
それでもみ上げてしまう。
太い杉の木の枝上にいるあいつを。
誠の仲間から離れて一人になったおれは、そのちいさな姿を双眸にしっかりと焼きつける必要があったのである。
枝上で両の脚をぶらぶらさせているあいつは、どっかの屋敷の庭先で家宝ともいえる松の枝によじ登ったいたずら小僧のようだ。
おれの双眸と隻眼がしっかりと合う。
それだけで、あいつはおれのこれまでしてきたことを、あるいはしてこなかったことを、すべてを把握したであろう。
一つ頷いてみせると、あいつは笑顔になった。そして、ひらりと枝上から飛び降りる。足下には枯葉やちいさな木の枝が敷き詰められている。それらは、おれたちが歩をすすめるごとに乾いた音を立てた。だが、地に降り立ったあいつは、なんの音もさせなかった。
さすがである。
宇八と熊の間に立ったあいつを、宇八は口をあんぐりと開けてみている。
ちかづいたおれに、その表情のまま無言で問いかけてくる。
昔、江戸で引き合わせたことがあった。宇八は、そのときもあいつの得体のしれぬなにかを感じとったのだろう。
総司や斎藤とは手合わせをしたがったが、あいつにはけっしてちかづかなかった。
それが、童だからという理由だけではなかったはずだ。
「山の守護神よ」
あいつは、おれたちに背を向けると大きな熊にちかづく。熊は立ったまま、ちかづくちいさな人間の子を睥睨している。
「山を騒がせたことを、心よりお詫びします。すぐに立ち退きます。どうか、通ることをお許し下さい」
あいつは、真摯に依頼する。
その瞬間、熊が吼えた。それは、おれの心胆を寒からしめるに充分な威力をもっている。
同時に、熊の両の掌がふり下ろされた。そこにある鋭い爪は、枝の間からわずかに射し込む陽光を受けてきらきらと光を放っている。
あいつは、それをがっしりと受け止めた。四十貫はある熊の渾身の一撃を、受けてもびくともしないその膂力。それは、大坂での事件を思いださせてくれる。
芹澤さんたちと訪れた大坂で、大坂力士たちと橋を渡ることで揉めた。その際も、三十貫以上ある力士たちの攻撃を軽く受け止め、さらにはその巨躯を軽々と放り投げていた。
あの芹澤さんですら、その膂力に驚きを禁じえなかったにちがいない。だからこそ、あいつを凌辱し痛めつけた・・・。
そして暗殺・・・。
おれは、それからはずされた。芹澤さんの暗殺そのものに、それからはずされたということじたいに、その両方におれは憤った。
同門だったという理由で信じてはもらえなかった、ということか?
それ以降、近藤さんや土方さんと合わなくなった。否、おれが一方的にそう思っていただけなのであろう。
そのとき、あいつの笑声が耳朶に入ってきた。はっとして眼前をみると、ちょうどあいつが熊を背負い投げしていた。
柔術は得意ではない。それでも、この背負い投げが基本に忠実に倣ったものであることがわかる。
四十貫はあろうかと思える熊が、たった八貫程度のちいさな人間にいとも簡単に投げ飛ばされている。
毛むくじゃらのおおきな黒い巨躯が、宙にきれいな放物線を描いている。そして、ずしんと地に落ちた。
きっとあいつは、地にうちつけるまえに相手に加わるであろう衝撃を最小限に抑えるよう加減したはずだ。
「山の守護神、大事無いですか?」
あいつは、笑いながら熊を助け起こしてやる。熊は、素直に太い腕をひっぱってもらっている。
熊も本気ではなく、ただじゃれただけなのであろう。
「も、桃太郎か、あいつは?」
へなへなと地に倒れこみ、胡坐をかいてその様子をみつめる宇八の呟き。
「それをいうなら、金太郎であろう?」
否、浦島太郎であったか?そう思いながら、訂正してやる。
「山の友たちよ、しばしわれらの侵入を許し給え。すぐにこの地を去るゆえ、どうか安らかにすごし給え」
熊はおおきな頭を下げて臣従を示し、周囲には鳥獣が集っている。
じつに不思議な光景である。鳥羽・伏見でも、こいつは敵軍の騎馬をことごとく操っていた。それ以前に、犬猫、鳥、どんな動物も、こいつは人間とおなじように心を通わせることができるらしい。
そもそも、こいつ自身白き狼であるのだ。
いったい、こいつはなんなのだ?
「芳賀先生、お久しぶりです。お怪我はありませぬか?まもなく陽が暮れます。このあたりは、人間の領域ではありませぬ。参りましょう」
動物たちは、あいつに挨拶するとその姿を消してゆく。
いまは、おれたちだけだ。おれたちが迷ってここで徘徊していたことを、あいつは笑うようなことはせぬ。おれもまた、どうやっておれたちをみつけたのか、訊ねる様なことはせぬ。
当然のことであろう。
そして、おれたちはあらためてあゆみはじめる。
とりあえず、人間がいていい領域に向かって。
「下総国です。この山を下ると、下総国 匝瑳郡松山村です。水戸の諸生党に江戸からの脱走兵と、わずかばかりが水戸の天狗党や新政府軍に追われ、逃れております。どうやら、そのなかには靖兵隊の隊士もいるようです。ところで芳賀先生・・・」
少年は、状況を説明した。
獣道から外れ、しだいに人家のちかくであることをにおわせる雰囲気を感じることができる。
先頭をすすむ少年がそういってふりかえったとき、三人は人があるく道にいた。
すでに陽は暮れ、少年のちいさな左肩で朱雀が翼を休ませている。すでに一っ飛び、山の下の様子を探ってきていた。
「先生のご親族で、二十数年まえに蝦夷で謎の死を遂げた方はいらっしゃいませんか?」
「へっ?」
予想もしない突然の問いに、さしもの芳賀もしばらく相貌を傾げて考えた。が、じきに「いいや、すくなくともちかい親戚にそんな人はいなかったはずだ」、と答える。
永倉は少年と出会ったばかりの時分、松前藩脱藩といったときにおなじ問いを投げかけられたことを思いだした。
永倉も、芳賀と同様の返答をした。
そこではっと思いいたる。
少年が三歳のとき、禁を破って自然を侵し、利潤を貪ろうとした二十名以上の松前藩士を斬り捨てた。
その人数のうちに、自身や芳賀の親族がいたかを問うていたのだ。
はっと気がつくと、隻眼が永倉をみている。
「このまま江戸へ逃れますか、新八兄?」
返答をわかっていて訊ねる少年。
永倉は、ひろくて分厚い掌でそのちいさな頭をごしごしと撫でた。
池田屋でちぎれかかった親指は、くっついたもののおおきな傷跡を残した。筋を絶たれたそれは、もはやうまく機能しない。
だが、剣を握るのにそこは必要ない。
「坊、この瞳で様子をみたい。連れてってくれ」
「なんだと、新八?おれたちだけで、どうにかできるものはなかろう?このまま江戸へ戻ろう。そのほうがいい」
芳賀がすぐさま異を唱える。
だれもがおなじことを申すはずだ。
だが、永倉、そして少年は違う。
たとえ付き合いがみじかかろうと、数千の敵に囲まれていようと、ともに酒を酌み交し、馬鹿な話に興じあった仲間を、見捨てるようなことはせぬ。
それが、新撰組二番組組長永倉新八という漢である。
そして、少年がそれを助けることも・・・。
少年が案内したのは、追い詰める側のすべてをみ下ろせる山の中腹である。すでに闇に支配されており、夜営の灯火でその数や規模がしれた。
少年の話では、追われる側は少数。完全に包囲されているらしい。
逃れようもないことが、容易にみてとれる。
「こりゃ、どうしようもない。あきらめろ」
永倉は、ほれみたことかと笑う幼馴染に苦笑しながら応じる。
「宇八、このあたりで隠れてろ。いくぞ、坊」
少年は、さっさとあるきはじめる永倉の軍服の裾を掴んで引き止める。
「あなたもここに残って下さい、新八兄」
「馬鹿をいうな。これは、おれの戦だ。おまえは、おれの背を護ってくれ」
「新八兄・・・」
斎藤と違い、永倉はある意味ではまっとうな剣士である。
気心のしれた者が間合いを侵すことを、気にもとめぬ。
空には上部の欠けた月が浮かんでおり、無数の星が瞬いている。
芳賀が両の掌を空へ突きだす。伸ばせば届くとばかりに。
夜目に慣れた永倉の二つの瞳と、さらに夜目のきく少年の一つのそれとがしっかりと合う。
「帰藩されるのならお止め下さい。それに、あなたの剣は暗殺などという穢れたものに遣うべきではない」
「おれは、おまえの剣を一度たりとも穢れたものだと思ったことはない。おまえや斎藤がやってきたことを、否定するつもりもない」
永倉は、きっぱりという。
本心である。「土方二刀」の裏の働きがあればこそ、自身らの表の活躍が成り立ったのだ。感謝しているくらいだ。
少年は、ちいさな相貌を右に左に傾ける。
永倉の背を護りたい、ともに剣を振るいたい、という剣士としての精神が、そのわくわくする誘惑に打ち勝つことができぬ。
「がむしん殿、されば正攻法で参りましょう」
月明かりの下、不敵な笑みが浮かぶ。
その夜、夜営中の長州軍は奇襲を受けた。それは、じつに不可思議な夜襲であった。軍馬が逃げだし、兵卒がそれを追っている間に、士官級ことごとく何者かによって殺されたのだ。
その何者かは、陣を去るまえに宣言した。
「辰巳がきたぞ。辰巳が将の首を狩ったぞ」、と。
夜が明けると、水戸諸生党や靖兵隊らことごとくその潜伏場所から忽然と消えうせていた。
その後、水戸諸生党は壊滅し、靖兵隊は高崎藩に投降する。
この包囲網からの奇跡の脱出からわずか後のことである。
それでも、この脱出行はかれらにわずかな希望を与えたであろう。
生き残ることへの、そして、逃げきることへの・・・。
奇跡を起こした当事者たちは、江戸へと向かった。




