近藤の剣
文机の上にひろげられた奥州地方の地図を、頬杖ついてぼーっと眺める。
大村は、江戸城ちかくに設けられた新政府軍の本営の一室で、長時間おなじ姿勢のままですごしている。
ここは、押収した商家の一つである。
さしてひろくもない部屋である。
大村は、自身の商売道具である地図やら筆やらをもちこんでいる。
すでに陽が暮れ、開け放たれた障子の向こうには闇がひろがるばかり。
燭台に灯火は入っておらず、ともに駐屯している小隊の兵卒も小者も大村の周囲にちかづこうともせぬ。
彰義隊は壊滅した。だが、面白くない。一方的な殺戮になるはずが、なにゆえか自軍の将官数名が死んだという。
大村にわざわざ報告にくる者はおらず、同宿の兵卒たちが声高に話しをしているのをきいた。
敵に、まともな頭脳をもった輩がいるらしい。
だが、どうでもいい。この後もできるだけ薩摩や土佐に、江戸より逃げた旧幕府の馬鹿どもを追わせ、息の根を止めさせればいい。
武士どもは、どいつもこいつも凶暴で馬鹿ばかり。
旧幕府、新政府、かようなものは関係ない。連中は、ただの駒にすぎぬ。駒は、軍師のいうとおりただ従順に動けばいい。
自軍の武士も含めて・・・。
ばしゃっ、ばしゃっ、と庭から水音がきこえてくる。
この商家の庭に、ちいさいながらも池があることを思いだした。
鯉でもいて、それが跳ねるているのであろう。
この遠征のまえ、自身の国でみたちいさな鯉のことが思いだされる。
そして、その鯉に麩をやっていた汚らしい童のことも。
おもむろに筆をとる。つぎなる戦術を練る為に・・・。
庭にでるどころか、四、五間先の縁側にでるにも這わねばならぬ。
もう暗くなったというのに、このところ毎日のようにやってくる黒猫が庭先に座って病床の沖田をじっとみつめている。
自身、猫が嫌いなわけではない。それどころか、野良猫に餌をやったり可愛がってさえいた。
だが、この黒猫だけは好きになれぬ。
食欲がなくなり、筋肉も身も落ち痩せ細り、体力も失われた。
迫りくる死を実感しはじめた時期にあらわれたその黒猫は、死を告知しにきた使者のように思えてならぬ。
「くっ、くそっ・・・」
肉のない枯れ枝のような右の腕を伸ばし、枕元にある刀掛けから愛刀の「菊一文字則宗」を掴みとろうとする。震える指先がその柄をかすっただけで、右の腕はそのまま畳の上にぱたりと落ちた。
黒猫を斬ってやろうと思った。だが、枕元の剣を握るどころか、半身を起こすことすらできぬ。
うつ伏せのまま、頬のこけた自身の相貌を枕におしつけ泣いた。
世話をしてくれている植木屋の老婆が、今朝上野のほうで戦がはじまったといっていた。
新撰組は、どうしているであろうか。
近藤さんや土方さんは、無事であろうか。
想いは、すべてそちらに向いてしまう。
そして、近藤や土方のことを案じることで、自身の死から目を背ける。
いつの間にか眠ってしまったのか?
瞼を開け、天井をみつめる。
松本法眼の知り合いの植木屋の離れにあるこの一室は、日中も夜半も静かである。
植木屋らしく、庭には樹木や盆栽がたくさんある。
まだ調子のよかった時分には、そういった草木をみてまわったものだ。それも、ずいぶんと遠い昔のように思える。
気配はまったくなかった。
いつもさせぬが、すぐ真横にいたにもかかわらず、ようやっと気がついた。
その気配に、驚きよりも嬉しさで不覚にも双眸から涙が流れ落ちるのを止めることができない。
「坊?誠におまえなのか?」
嬉しさが、わずかばかりの力を与えてくれる。
起き上がろうとするのを、少年がやさしくおしとどめる。
「総司兄・・・」
「黒猫は?」
なにゆえか、そう訊いていた。庭先に、その黒い肢体の獣の姿はみえぬ。
傷跡のある相貌が、左右に振られる。
「黒猫は、あなたの気持ち次第で二度とあらわれることはありませぬ、総司兄・・・」
それが幻想であることを、少年にはわかっている。
「左之兄もきています。いまは、つかれて隣室で眠っていますが」
少年はそういった。
が、原田はこれから沖田と少年との間で起こることを気配で感じようと、布団のなかでまだ起きているはずである。
「総司兄、局長は四月に斬首されました」
隻眼が沖田の双眸をしっかりととらえている。
その一言が、沖田にどれだけの衝撃と絶望を与えるかを、少年も隣室の原田も充分すぎるほどわかっている。
それでも、告げねばならぬ。
「な、なんだと?なにゆえ?おまえや土方さんはどうして・・・」
怒りが沖田に膂力を授けたようだ。半身を起こしたばかりか、黒装束をまとう少年の胸倉を両の掌でむ。小柄な少年を宙に浮かせそうな勢いで、胸元を締め上げる。が、それもすぐに萎えた。
沖田の肺にわだかまる病巣が、激しい咳となって媒体を襲う。
大量の血が口内から噴出し、布団や少年を赤く染め上げる。
「局長を護れなかったのは、おれの責です。総司兄、局長は最期まであなたに生きよ、と切望されていました。そして、おれは局長と約束しました。あなたに生きる気持ちがあるのなら、絶対に死なせない、と」
少年は、枕元に置いてある手拭で沖田の口元や胸元を拭ってやる。
そのなんの感情もこもらぬ声音はかえってそらぞらしく、沖田はわれにかえることができた。
「京の局長の別宅で御陵衛士の残党に襲われた際、あなたは生きたい、とおれにいいました。局長亡きいま、その気持ちにかわりはありませぬか?」
かいがいしく沖田の寝間着の乱れを直しながら尋ねる。
すでに、その答えはわかっている。
「病があなたを殺すのに、もはやさほどときはいりませぬ・・・」
沖田は、明日死んでもおかしくない。
「近藤さんがおれに生きろ、と?ああ、ならば近藤さんの分までおれは生きたい。たとえ生き恥を晒すようになっても、近藤さんの遺志と剣をおれは護りつづけたい・・・」
沖田は、双眸で相手の隻眼をしっかりとみすえる。
なにゆえか、その一つしかない瞳の奥、否、相手自体一人の一つの意識ではなく、なにか違う者の存在と意識が感じられる。
「おれたちは、あなたの病巣を根絶することはできませぬ。ですが、あなたに生命の一端を授けることはできます。あとは養生し、あなた自身が病魔を断ち切ってください」
近藤の別宅のときとおなじように、急に睡魔に襲われる。
沖田は少年に床に横たえさせられながら、たしかにそれを感じることができた。
大いなる生命の息吹を・・・。それはやさしくあたたかく、そして、なにより尊いもの・・・。
一命をとりとめた二人にたいする少年の伝授は、苛烈をきわめた。
原田は、宝蔵院流の繁栄の基を築いた胤舜直伝の槍術を。
これは、裏十一本式目にもない秘伝の技を、わずかな時間のなかで継承された。
沖田は、隻眼ですごした柳生の剣豪柳生三厳が、長年の歳月をかけて編みだした秘伝の杖術と、同時期の剣豪宮本武蔵の二天一流の秘技を授けられた。
沖田は、病み上がりとは思えぬほどの気魄と理解力の速さとでそれによく応えた。
それぞれの技は、公式に伝わってゆくわけではない。
だが、たった一人がしっていて、それを地獄へ運ぶだけでは本来の技の持ち主たちに申し訳がたたぬ。せめてほかのだれかがこの素晴らしい技をしり、それを遣いこなしてくれれば・・・。
ときをかけ、鍛錬と努力を重ねた剣術・槍術家たちも、すこしはその血の滲むような努力が報われるやもしれぬ。
もっとも、当時の武術家たちはじつに飄々としている。
継承する者がいなければ、それはそれで仕方ない、と笑っていたが・・・。
あとは、それぞれが鍛錬してくれる。
原田も沖田も、日頃からがむしゃらに槍や剣を振りつづけるような努力型ではない。それでも、人一倍の鍛錬は欠かさぬ。
なにより、二人ともそれぞれの武器にかけては天才肌である。
ほどなく、このあたらしい技を遣いこなせるようになる。
それをみることができぬのが、残念でならない。
「時期をみて、尾張にゆく。案ずるな、坊」
沖田は、植木屋の離れにある井戸端で汗を拭いながらいう。
諸肌脱ぎになったかれの体躯には、まだ肉も筋肉もついていない。だが、日にち薬でなんとか元に戻るであろう。
顔色もずいぶんとよくなっている。先日までとは、文字通り雲泥の差である。
原田も上半身を手拭で拭っていたが、もともとあった腹の一文字傷のすぐ上に大きな穴がふさがった痕が残っている。
これの話しも、これからことあるごとに披露するつもりである。
どうやってついたか、そして、どうやって塞がったか・・・。
陽が暮れようとしている。
上野の方角をあおぎみると、数日経ったいまでも幾筋もの煙が天に向かって伸びており、鼻梁には焦げた臭いがしみついている。
本来は静かだったらしいこの千駄ヶ谷の界隈も、上野方面から逃れてきた民草でにわかに騒がしい。
まさかいまここに、新撰組の幹部三名がいるとはだれも予想だにせぬであろう。
原田は、それを思うと苦笑せざるをえない。
立派な松の木の枝に朱雀が翼を休めているのに、ふと気がつく。
自身の太くて長い右の腕を上げると、大空の勇者はすぐに止まり木をそちらにうつす。
「坊、いくのか?」
原田は、朱雀のちいさな頭を指先で撫でつつ、汗一つかいていない少年に尋ねた。
すると、隻眼とおおきな傷跡の下に、やわらかい笑みが浮かぶ。
「朱雀、左之兄と総司兄にしばしの別れを・・・」
朱雀は、鋭く一声鳴く。それから、原田の腕からゆっくりと翼をひろげ、飛翔する。
陽が落ちるまでに会津へ向け、偵察にでるのである。
「やめろ。なあ、このままおれたちと尾張へゆこう」
原田の唐突なまでの提案である。
が、沖田も提示された本人も、さして驚くべき内容ではない。
「おまえなら、土方さんの真意をわかってるよな、坊?」
原田は諸肌脱ぎのまま、黒装束の少年のまえに膝を折る。がっしりとした両の掌で、ちいさな、ちいさすぎる両方の肩を力いっぱい掴む。
沖田もその二人にちかづく。気持ちは原田とおなじである。
そして、少年が拒否することも、原田とおなじくわかっている。
「主を頼みます。この戦がおわれば、主はおおくのものを失います。尾張にいる信江殿とあなた方だけが、主にとっては生きる力となるでしょう・・・」
隻眼が二人の双眸を順にみつめる。
その悲しみに満ちた色は、年長者の二人を躊躇させる。
自身の死んだ後の土方のことを、心から憂えている。同時に、土方の喪失感の内に少年が自分自身のことを含めていないことにも気がついた。
「なにをいってる?近藤さんが死んだいま、土方さんがもっとも怖れているのはおまえが死ぬことだ。左之さんのいったことは、おれにも理解できる。だからこそ、土方さんは自身の側からおまえを遠ざけているのであろう?」
自身が土方でもおなじことをしたであろう。
近藤の死にたいする自身の喪失感と絶望は、いまだ自身のうちでおおきい。
その塊は、肺の病巣よりも執拗に心の奥底に巣食っている。
たとえ将来、肺を治す治療法がみつかったとしても、この心の奥底にある病巣を取り除く手段はないであろう。
それでも、生きなければならない。なにがあっても生きて、生き抜かねばならぬ。
それが死んだ近藤や井上や山南にたいする、自身なりの武士道である。
ちいさな相貌を、右に左にわずかに傾ける少年。
与えられる命令に従う凶器として育ち、生きてきた少年。原田や沖田のいわんとしていることを理解できぬわけではない。だが、同意できるものでもない。
所詮、自身は主の鈍刀。折れるまでの関係。そして、もはやそれだけにとどまらぬ。
この邪悪でちっぽけでくだらぬ生命、おおくの生命や矜持を護り抜き、代替とならねばならぬ。
「左之兄、高い高いをしたければ、されてあげますよ」
少年は、わざとおどけて話しをすりかえる。
二人の兄貴分の気持ちに、なにゆえか精神を揺さぶられそうになったから。
「馬鹿なやつだ。頑固だな、誠に。土方さんにそっくりだ。もういい、おまえなどどこにでもいっちまえ。新八のことも忘れてやるなよ」
原田の言は、ほとんどききとれぬ。
なぜなら、それはちいさく、しかも震えをおびているから・・・。
刹那、原田は少年の脇腹に両の掌を添えると天に向かって抱え上げた。
軽い。誠に軽い。
夕焼け空に少年らしい笑声が響き、異相に愉しそうな笑みが浮かんでいる。
二人は、このときの少年の笑顔を瞳に、そして脳裏に、しっかりと焼きつけた。




