薩摩の猛牛
海江田信義もまた、西郷に魅せられた一人である。
側近のなかでも豪胆で短気、なにより、一途な性質である。
幼少の時分より示現流を学び、そこそこの腕前をもっている。
ほかの遣い手たちと同様、かれもまたよく陽に焼け、小柄だが筋肉質の体躯をしている。
この海江田、長州の大村とは肌があわぬ。ことあるごとに対立している。
上野の彰義隊殲滅の軍議でも、その戦術に真っ向から反対した。
軍議には、西郷や桐野らも出席した。
西郷が渋面をつくりながらも大村の戦術を了承したことで、海江田も口をつぐむよりほかない。
海江田は、宿舎としてつかっている江戸城ちかくのちいさな一軒家の一室で、国から持参している焼酎を湯呑み茶碗についではあおった。大村のことを大声で罵りながら・・・。
海江田は、この小さな一軒家で一人で寝起きしている。かりにも、東海道先鋒総督参謀でありながら、海江田は生来堅苦しいことが苦手である。部下や小者が私的な時間まで側にはりつき領域を侵すことをよしとしない。したがって、海江田はいつ旧幕府軍の刺客に襲われてもおかしくない状況にあっても意に介すことなく、一人で寝起きしているのである。もっとも、自身の剣や銃の腕前に自信があるからではあるが。
その証拠に、刀だけではなくエンフィールド銃とスペンサー銃を常に側に置き、不測の事態に備えている。
そろそろ暑い時分にもかかわらず、この夜は肌寒い。だが、杯を重ねるごとに寒さは感じられぬ。
大村にたいする怒りもまた、寒さを吹き飛ばしてくれる。狭い部屋には燭台の灯だけが細く揺らめいている。
閉めきった窓の外に、満月がぽっかりと浮かんでいるであろう。
小競り合いがつづいていた彰義隊は、明日には決着がつくはずである。
上野で掃討戦を仕掛けることになったからである。
燭台の灯火が不自然に揺らめく。
呑めども酔うことのない薩摩隼人は、その気配にすぐさま側の刀を鞘走らせる。
「小童、おはんか?」
上段からの真っ向斬りの一撃は、黒装束をまとったちいさな人影の二本の指の間にはさまり、しっかりと受け止められている。左半面の二つのおおきな傷跡は、醜く感じられるであろうがこの小童にかぎっては右半面の美しさを損なうことはない。
海江田は、京の薩摩藩邸に詰めていたことがある。
そのとき、「人斬り半次郎」の渾身の一撃を、いまとおなじように二本の指で受け止めた、あの衝撃的な一場面を目撃した。
あれには、度肝を抜かされた。なぜなら、「人斬り半次郎」は、薩摩だけでなくこの日の本一の剣士だと信じていたからだ。
それを、いとも簡単にあしらうとは・・・。
隻眼がじっと自身の双眸をみつめている。なにも感じられぬ。害意、敵意、誠になにも・・・。なにゆえか畏怖や不安はない。それどころか、どこか親近感さえわいてくる。
西郷から密かに命じられていることを思いだす。
この小童にはかかわるな。小童に縁のある者たち、新撰組とはできるだけ戦闘を控えよ、と。
「海江田先生、ご無礼をお許しください」
海江田は愛刀が指の間より解放されたので、すばやく刀を引き、それを鞘に納める。抜刀した際に片膝立ちになったので、胡坐をかきなおす。
侵入者は間合いをとり、きちんと端座している。真正面ではなく、かろうじて明かりの届く範囲である。
「休息中、お邪魔致します。わが名は辰巳。京の薩摩藩邸でお会いしています」
「ほう、覚えておいもしたか?ちゅうよかかは、おいをしっていたとは、正直驚きもした」
海江田は、苦笑する。
畳の上に抛り出している小振りの木箱を、刀の鞘で引っかけ引き寄せる。そのなかに掌を突っこみかきまわすと、湯呑み茶碗をとりだす。
それを無言で、予期せぬ客人に差しだす。
「いけんかね、一杯、やいもはんか?ちかよいなさい」
薩摩隼人は、童の時分より焼酎を嗜む。ゆえに、相手が童であろうと意に介さぬ。
湯呑み茶碗をうけとった小童に、焼酎を馳走してやる。
自慢の焼酎である。
あらゆる感覚が研ぎ澄まされている少年であるが、唯一味覚だけは失われている。
焼酎の味もその喉越しの良さもわかりようもないが、それでもじつに喉を鳴らしながら美味そうに呑み干す。
それが、この海江田には効果的であるからである。その証拠に、海江田はけわしい表情をゆるめ、破顔する。
湯呑み茶碗に、あらたな酒を注いでやる。
海江田は呑みながら、大村がいかに性悪な狸かを愚痴りつづける。
敵に、である。
天下の大罪人である、小童に。
小童は、その愚痴をじつによくきいてやる。
「先生のおっしゃるとおり、この作戦は彰義隊の殲滅だけではなく、薩摩の兵力を削ぐ意図も含まれております」
小童は、彰義隊との戦闘のくだりにいたるとそう告げる。
この作戦のことをしる由もないのに、小童はしっているようだ。
「西郷どんは、しっていてもうけうしかん。あん狸の思う壺ほいならっでな。じつに悔しか。あん狸、いつか絶対に殺してやう」
海江田は、湯呑み茶碗が砕け散ってしまいそうなほど握りしめ、吐き捨てる。
小童は、即座に囁き声でそれを諌める。
「滅多なことを申されませぬよう。西郷先生の忍従も、あなたの正義感からでた一言で曲解されかねませぬ。それこそ大村、否、長州の思う壺。先生、殺るのはいつでも殺れます。それこそ、わたしがいまからひとっぱしりいってきてもいいのですよ」
小童は、そこで異相に笑みを浮かべる。
「ですが、それではあなたが殺った、もしくは殺らせたと勘繰られ、即座に西郷先生に累がおよびます。それより、この戦に決着がつき、大村が絶頂期にあるときに恐怖と絶望を味あわせてやる方がよほど効果的かと・・・」
まるで呪詛のように、その言が海江田の耳朶に侵入する。
脳裏に刻まれた小童のこの言は、戦争が終結し明治期の平和をあゆみはじめた時分になっても、けっして忘れられることはない。
辰巳は、優秀な戦略家であり戦術家でもある。
このときすでに種を撒いた。
それは、すぐに実を結ぶわけではない。この戦は、いかなる戦術をもってしても勝利することかなわぬ不毛の戦。だとすれば、せめて戦略を用い、一矢報いる布石をうっておく。
長州は、いずれその頭脳を失う。すぐでなくてよい。
この戦がおわっても、無理矢理流れをかえられた不安定な時勢のなか、平穏かつ安穏に平和を謳歌できるわけもない。
さらなる戦いが、それが軍事上であれ政治上であれ、起こるは必定。
長州、薩摩・・・。
武力でもって世の中を矯正したものの末路を、身をもってしることとなるであろう。
これで、海江田がこの戦略の最初の尖兵となる。そして、その標的は大村である。
この約一年半後、大村が京で暗殺される。
それが海江田の仕業か否か、はだれにもわからぬことである。
翌朝、海江田はひさしぶりにすっきりとした気分で戦闘に臨み。
一晩中愚痴りつづけたお蔭である。
かくして、後世、上野戦争と呼ばれる戦闘がはじまったのは、予定通り五月十五日のことであった。




