誠の徒桜
大久保大和の名で投降した近藤をまっていたのは、元御陵衛士である加納鷲雄らであった。
その正体が露見されたのは、投降してすぐのことである。
土方は江戸に舞い戻ると、勝などに近藤の助命嘆願をこころみる。
一方で、新政府軍でも西郷の意を含む薩摩の軍監たちが、せめて生命だけはと手を尽くすが、土佐藩の谷干城らに強硬に斬首をおしきられてしまう。
近藤は新政府軍が板橋宿に設けた総督府に送られ、その刑場で処刑をまつこととなった。
処刑が迫る一日、総督府に近藤の助命嘆願の為旧幕府軍の陸軍軍事方の添え状を握りしめ、訪れた者たちがいた。
相馬と野村である。
二人は土佐藩の藩士らとおし問答になり、捕縛されてしまう。
かれらもまたかれらなりに近藤に殉じようと、牢に入れられた後でも「斬れ!斬れ!」と喚き散らしつづける。
井上の甥の泰助ら日野出身の子どもらは、さきの遠征の際に郷里に戻した。無論、かれらはついてきたがったが、近藤も土方もけっしてそれを許さなかった。
市村や玉置ら数名の子どもらだけ、土方や斎藤が連れている。
近藤は総督府の牢のなかで、薩摩藩が手配してくれた「三国志演義」をよみ、わずかなひとときを心穏やかにすごした。
薩摩はせめて不自由なくすごせるようにと、座敷牢に囚われた死刑囚にできうるかぎりの温情をほどこした。
近藤は、切腹すらさせてもらえぬ非情で理不尽な結末をしらされた。しかし、なにゆえか悲嘆も絶望もない。それどころか、その精神は穏やかで清々しささえある。
ただ、自身の助命を訴える為に駆けつけ捕まった相馬と野村の身上だけが気がかりである。
まだ若すぎる。自身の為に死なせるわけにはゆかぬ・・・。
そのことだけが、焦燥感をつのらせる。
あいつなら、自身のいま一人の幼馴染ともいえるあいつなら、相馬と野村を救えるであろうと確信し、わずかな希望をよせるのである。
近藤は、材木をただ積み重ねただけのようなちゃちな文机でお気に入りの書物をよんでいる。その気配に気がくと、おおきな相貌を書物から上げ、声をかける。
「きてくれるだろうと思っていたよ、坊・・・」
近藤は、妻の手縫いの着物も袴も取り上げられている。そのかわりに、囚人用の白い着物にがっちりとした体躯を包んでいる。
ゆっくり背後を振り返ると、ちいさな人影がひっそりと座敷牢の隅に端座し叩頭している。
窓一つない牢内であるが、なにゆえか時刻の感覚が失われることなく、いまが夜半であることがわかってる。
座敷牢の向こう側に一つだけある燭台の灯火が絶えることはなく、そのお蔭で書物をよみふけることができる。
灯火は、叩頭するちいさな人影を浮かび上がらせている。
膝立ちでちかづくと、ちいさな人影がゆっくりと面を上げる。
大坂城で別れたときのままの黒装束にちいさな体躯を包み、「三国志演義」の猛将夏候惇さながらの異相がある。
なにゆえか隻眼は畳をみつめたままで、それが自身へと向けられることはない。
「龍・・・」
そう呼びながら、幼馴染のちいさな体躯を太い腕で包み、胸に抱きしめる。
「おまえは悪い子だぞ、龍。なにゆえ、おれたちの記憶を封じた?ああ、わかっている。おれたちに累がおよばぬようにとの配慮であろう?だが、それはおれたちにとって、なにより酷なことだ。おまえとすごしたあのときの記憶は、なにより尊い・・・」
「いつ暗示が解けたのですか?」
少年は、近藤の胸のなかで尋ねる。その声音は、ちいさく弱々しい。
「笛だ」
即答する。
少年は昔、多摩川の岸辺の草叢で二人に笛の音をきかせた。楽などには興味のなかった年長の少年たちは、この少年の笛だけは気に入っていてた。草叢に寝転がり、よくききいったものである。その笛の音が、暗示を解いたのである。土方にかけたものより弱かったからであろう。
吉原の座敷で坂本にせがまれ奏でた一回目、そして、近藤の別宅での花見の際に奏でた二回目、これらで解けた。
それが解かれたことに気づかれぬよう、振舞ったのである。
心中をよみ、あらゆる機微に聡い少年を、まんまとだましおおせた。
「龍、歳の記憶を戻してやってくれ。あの記憶は、おれたちにとってなにものにもかえ難い大切なものなのだ」
少年の顎の下に右の人差し指と親指とを当て、上を向かせる。無理矢理、視線を合わさせる。
静かである。まったくの無音。
龍のことだ、薩摩にかけあった上でうまくここに入り込んできたのであろう。
「勝太兄ちゃん、それは主を、歳にいちゃんを苦しめることになる・・・」
昔、呼んでいた呼び名で反論してしまう。
「奪われていることも苦しみだ、龍」
即座に反論される。
勝太兄ちゃんは、漢だ。
義に厚く、やさしく強い。
主や自身にとって、頼りになる兄貴分・・・。
立派な剣士であり、誠の武士・・・。
「龍、あのときの約束をまもってくれた礼をいわせてくれ。そして、歳を頼む・・・」
勝太兄ちゃんは、そういってから傷のあるほうの頬に口唇をちかづけ耳朶につづきを囁く。
その内容に一瞬驚いてしまったが、承知したと笑みで応じようとする。だが、口許がこわばり、うまくできそうにない。
「総司や新八、左之、斎藤君のことも。歳にはかれらが必要だ。とくに総司は・・・」
そう、勝太兄ちゃんにとって、総司兄は弟というよりかは息子ごとき存在。総司兄のことが心残りでないといえば嘘になる。
心配げな勝太兄ちゃんの両頬に、両の掌をそえる。
「心配しないで、勝太兄ちゃん。総司兄に生きる意志があるのなら、おれたちは絶対に死なせやしない」
「ああ、わかっている。龍、母上には?」
その問いに、思わず照れくさくなってしまう。
勝太兄ちゃんは、大分と伸びてきた髪をくしゃくしゃになるまで撫ででくれる。
昔もよくやってくれた。
「相馬君と野村君のことも頼む。あの二人はこれからだ。死なせるわけにはゆかぬ。ふふっ・・・」
勝太兄ちゃんがふきだした。
笑顔で応じようと努力するけど、またうまくできない。
「頼みごとばかりだな、すまぬ。誠のことを申すと、おまえはいい子だ。とてもいい子だ、龍。死に急ぐな。ゆっくりとくればいい。さあ、もうゆきなさい。自慢の弟分、否、息子といってもおかしくないな、龍」
勝太兄ちゃんは、これが最期とばかりに強く抱きしめてくれる。
その腕のなか、「勝太にいちゃん・・・」としかいえぬ。
不意に抱擁から解き放たれる。
「局長、佐藤龍、委細承知仕りました」
叩頭しながら応じる。
そして、二度と勝太兄ちゃんをみることなく去った。
板橋の刑場にて近藤勇が斬首されたのは、四月二十五日。
享年三十五歳。
その頸は、京の三条河原に梟首される。
だが、ある夜、その頸をどこからともなくあらわれた野犬が銜え去ったという。
そのおおきくて白い犬は、尾張にちかい岡崎にある法蔵寺の住職にその頸を託し、何処かへと去ってしまった。
その寺の住職は、尾張柳生家とは懇意の間柄である。
相馬と野村を、板橋の総督府から救ったのもおなじ白い野犬である。
近藤の嘆願により助命はされたものの、囚われたままの二人を野犬が奪ってしまう。
その野犬がじつは狼で、辰巳の異なる姿であることはいうまでもない。
「孤軍援絶作囚俘 顧念君恩涙更流 一片丹衷能殉節 雎陽千古是吾儔」
「靡他今日復何言 取義捨生吾所尊快受電光三尺劔 只將一死報君恩」
近藤の辞世の句である。




