西郷と勝
生涯、これほど駆けずりまわったことはついぞなかろう。
山岡鉄舟は、いまや新政府軍の下、大総督府下参謀という地位にいる薩摩の西郷隆盛と幾度も交渉を重ね、勝海舟との会談を実現させた。
無論、その裏には、西郷がこよなく愛してやまない辰巳の助力による成果もあるのだが・・・。
江戸の町を護る為におこなわれたこの歴史的意義のある会談は、三月十三日および十四日の二日間にわたっておこなわれた。
徳川方からは勝海舟、大久保一翁、そして山岡鉄舟が、新政府軍からは西郷隆盛とその側近の中村半次郎改め桐野利秋、村田新八が揃い、田町の薩摩藩江戸藩邸でおこなわれた。
江戸城明け渡し、すなわち無血開城が江戸の町を救う手段の一つであり、同時に最大の難関でもある。すでにそこの城主であった慶喜は当主の座を譲り、自身は恭順を誓って謹慎している。だが、その下で禄を食んでいたおおくの家臣たちは、おいそれと従うわけもない。
そのおおくが、たとえ江戸の町が焦土と化しても戦う姿勢を崩しておらぬ。
勝は、最初から新政府軍の要求をある程度のむつもりでいる。無論、生命にかかわること以外で、ではあるが。
それは西郷率いる新政府軍にとっては迎合すべきことながら、旧幕府軍にとっては裏切り行為となる。
勝は、これ以降敵からも味方からもあらゆる意味で狙われることになるであろう。
とうに覚悟はできている。
この威勢のいい江戸っ子は、「こんなちっぽけな生命で江戸の町とおおくの人々の生命が助かるのなら安いもんだ」と、山岡に嘯いている。
西郷は、その男気と覚悟をよく解している。
したがって、会談は順調にすすんだ。
しばし二人きりで話しもした。
その際には、大久保や山岡、桐野や村田は別室で控える。
控えの間で、双方は互いの間を侵すことなく距離を置いて座している。
桐野と村田は軍服に身を包み、それぞれの愛刀を左太腿のすぐ横に置いている。
村田はずっと西郷を兄事しており、西郷が遠島された際にも鬼界島というところにともに送られている。
身の丈が六尺ある偉丈夫で、相貌のほとんどが髭に覆われている。
仁智勇を兼ね備えており、西南戦争で西郷が自決するのを送った後、岩崎口というところで戦死する。
音楽と詩をこよなく愛し、風琴をどこにでももちあるいていたという。
黒田が海軍と一緒に従軍している為、それにかわって西郷のかたわらにいることがおおくなった。
「失礼じぁんどん、山岡さぁは剣をたいそう遣うときいておいもす。機会があいもしたら、ぜひ手合わせをお願いしたかござんで」
桐野がむっつりとした表情で申しでる。
「まさか!」
山岡は、即座に右の掌を左右に振って叫ぶ。
「ほんの道場剣法にすぎませぬ。「人斬り半次郎」を相手にできるほどの腕前ではござらぬ」
山岡と大久保は裃姿で、こちらも刀えお左太腿のすぐ側に置いている。
大久保は慶喜の信任が厚く、人望のあつさは勝の比ではない。そして、常識人でもある。
「わたしより、いまこれにあらわれた者と手合わせされたほうがよろしいかと?」
山岡が示唆するまでもなく、すでに桐野もその気配を感じている。
否、感じられるよう気配を発している。
桐野は、ますますむっつりとした表情で応じた。
「あれは、だめござんで。あれに勝つこっがでくっとはこん世いもあん世いもおらんでしょう」
京での一夜は、いまだに桐野を苦笑させる。
あそこまで力量の差をみせつけられれば、気持ちがいい。
到底敵わぬと宣言できる、唯一の相手である。
「ほう・・・」
山岡は、その桐野の表情をみてわずかに頸を傾げた。
桐野はすでにしてやられたな、と剣士特有の感覚が告げている。
正直、羨ましいとさえ思える。剣士ならば、強き相手と腕を競い合いたいと思うのは自然である。
その血と感覚は、自身にも強く濃くながれている。だが、自身もまた桐野とおなじく到底敵わぬのだであろう。
浪士組として京に上洛したおり、手合わせを所望しておけばよかった、といまさらながら考えてしまう。
もっとも、あのときでもてんで敵わなかったであろうが。
「侵入を許すおつもりか?」
山岡は、苦笑とともにきく。
その気配は、大久保や村田にはわからぬらしい。
二人とも山岡と桐野の会話がみえていないようだ。
「ほおっておきもそや。あれを止むうこっもまた、こん世の者でんあん世の者でん出来んです」
桐野は陽にやけた相貌に苦笑を浮かべ、山岡の問いに応えた。
その部屋は、来客と対峙するには不向きな位置にある。
庭から一番離れた、最奥部の寝所である。
客人を害するには好都合の部屋の内にあって、勝はなにも気にすることなく平素とおなじようにふるまう。
無論、その威勢のよさもおなじである。
内心はどうあれ、外見はそうみえるようにふるまっている。
部屋はさしてひろくはないが、小柄な勝には苦にならぬ。
赤坂見附の自宅の書斎は、書物に席巻されていてさらに狭い。
下戸の西郷をまえに、勝は薩摩の銘酒をちびりちびりと手酌で呑む。
肴は断った。
酒は、いくら呑んでも酔えそうにない。
あらかた片付いている。あとは、調整だけだ。だが、いつなんどき気がかわるやもしれぬ。これは両者にいえることで、それぞれの陣営の情勢がこのさきのことを不安にさせる。不明瞭さもひろがっている。
いま何時か?
廊下側は障子、隣室との境には襖。とくに豪華なものではなく、どこにでもありそうな質素な代物である。
この寝所には床の間があるが、書や絵画がかけられているわけでもなく、華がいけられているわけでもない。
まったく装飾品のない寝所。刀掛けすらない。
あとでしったことであるが、この寝所は西郷が江戸に滞在する際に好んで使う部屋らしい。
燭台の灯火の油が、この二日間というもの勝を悩ませている。
その臭気は、鼻梁を捻じ曲げそうである。いったい、なんの油をつかっているのか?
なにをさしおいてもたずねたかったが、そこはぐっと我慢する。
勝にしてはめずらしいことである。
そして、このにおいに文句の一つもつけぬところが、さらに稀有なことである。
その異臭のもとである油が、ちいさな音を立てる。それにあわせ、灯火がわずかに揺らめく。
勝と西郷は、同時に気がついた。
向き合って胡坐をかいている両者の廊下側の障子のまえに、いったいいつのまに入ってきたのか、ちいさな人影が端座しているのである。
それは二人が気がついてからは気配を消し、害意や敵意のないことを示す。
「新撰組の餓鬼か?いや、いまや日の本一の大逆賊の辰巳か・・・」
勝は、ちいさな人影に辛辣な言をほおる。
そのお蔭で自身らが救われていることを、だれよりもわかっていて。
そうなるよう強制したことも・・・。
「おお、久しぶいなあ。また会えて本当にうれしかです」
一方の西郷は、巨躯を揺すりおおきすぎる相貌に心底うれしそうな表情を浮かべてる。
西郷の声音は、体躯のわりにちいさくてやさしい。ちいさな勝のそれは、おおきくてきつい。
すべてが対照的である。
「先生方、お久しぶりでございます」
少年はきっちりと端座しており、挨拶の言とともに叩頭する。
その異相を上げると、勝に、ついで西郷にそれを向ける。
やわらかい微笑が、左半面の傷跡の下に浮かんでいる。
その傷跡が右半面の美しさを損なうことなく、ただ妖艶さきわだたせている。
「どうやら、話し合いはとどこおりなくおわりましたようですね」
「餓鬼のでる幕じゃねぇな、えっ、辰巳?それより、新撰組や血の気のおおい連中を、とっとと江戸から追い払え」
無茶苦茶ないいがかりである。
血の気のおおい連中のほとんどが、勝の直下に属している。いまの勝は、陸軍総裁。
江戸で徹底抗戦を唱えているのは、陸軍の管轄の隊の者たちばかりある。
少年のあずかりしらぬところであることはいうまでもない。
そして、少年につながりのある新撰組はすでに江戸をはなれ、会津とともに戦うべく下総は流山に移動している、と朱雀からきいている。
朱雀は会津に飛び、会津候から文を託された。慶喜とともに謹慎している実弟の桑名藩主松平定敬のもとへその一枚を運び、ついで江戸へ向かった。江戸にいる土方に、もう一枚の文を届けるためである。
その文をよんだ土方は、甲府から江戸へと落ちてから永倉と原田が離隊したこと、斎藤に隊士の一部を率いさせ、会津に向かわせたこと、自身らは一旦流山に向かうということを、朱雀に語ってきかせた。
土方は永倉と原田の離隊についておおくを語らなかったが、二人がそうするようよう、近藤が慢心を装ったようだ。
新撰組が全滅しないように。
斎藤に別行動させたのも同様の理由である。
土方は、少年にも別行動をとることを命じた。
好きなようにしろ、と。ただ、元の仲間たち、江戸で療養中の沖田も含め、これらがどこにいても無事に生き延びるよう手を尽くして欲しい、と。
それは、神出鬼没の自身の懐刀にとってはうってつけの命であろう。
「この結果をうけますれば、いやでも戦いたい方々は江戸からでてゆかざるをえますまい。もっとも残って戦うことを選ぶ方もすくなくないでしょうが・・・」
人心のすべてを掌握することは不可能である。時勢の流れ、将来や周囲の状況をみることのできぬ者につける薬はない。そういった者は淘汰される。仕方のないことだ。
此度、それをおこなうのが新政府軍、つまり、薩摩藩や長州藩なのである。
「西郷先生、どうか長州の大村先生にはお気をつけ下さい。下手をすれば、逆賊狩りを口実にいいように走狗にされかねませぬ」
天下の大罪人からの忠告とはいえ、それは西郷の脳裏と心にしっかりと刻み込まれた。
しかも、それを思いしることになるのも、このときよりさほど遠い未来ではない。
自藩の朋輩たちともどもに・・・。
「忠告、肝に銘じておきもそや。そやそうとハリー・パークスに脅しをかけうとはさすがに抜け目がんなあ」
西郷は、そういってからおおきな相貌に笑みを浮かべる。
それは、質素な部屋をあかるくさせるような純真な笑みである。
さしもの勝も苦笑せざるをえぬ。
その笑みにもその言の内容にも。
東征軍先鋒参謀である長州藩士の木梨精一郎、および大村藩士の渡辺清が、横浜の英国公使館を訪れた。
英国大使であるハリー・パークスに、協力を申し込むためである。
だが、パークスは恭順・謹慎を示している無抵抗の徳川慶喜にたいし攻撃することは、万国公法に反すると激昂し、会うことすらしなかったという。
そのことも、西郷に江戸城無血開城を踏み切らせた圧力となった。
西郷も勝も、パークスにそうさせたのがだれであるのか、充分すぎるほどわかっている。
辰巳がただの餓鬼、暗殺者、天下の大罪人でないこと同様に・・・。
西郷の言にやわらかい笑みを浮かべただけで、とくにそれ以上なにも語ることはない。
油が異臭と音を発したとき、そのちいさな影は消えていた。
西南戦争で自害した西郷、それよりも長生きした勝、両者ともに辰巳というふたつ名をもつ少年のことは最期までわからなかった。
否、わかる必要もない。
なぜなら、人智を超えた存在なのであろうから・・・。
二人が少年に直接会うことは、これが最後である・・・。




