母上
松田三佐衛門は、尾張柳生家第八代当主厳久、第九代当主厳政、そして、第十代の厳蕃と十一代の厳周とともにすごした柳生の高弟である。
厳久は厳蕃の父にあたる。
三佐衛門と厳久は、幼少の時分からともに陰流を学んだ仲である。
まだ子どもらが幼い時分、厳久は病の為当主の座を一時実弟の厳政にあずけた。そして、厳蕃が免許皆伝を得た際、その座が譲り渡された。
三佐衛門は、厳蕃の子の厳周にも数年付き添う。じつに六十年以上の月日を、尾張の柳生家ですごしたのである。
齢古稀をすぎ、ようやっと生まれ故郷の八神城下のはずれに戻てきた。
それからひっそりと暮らしている。墓守をしつつ・・・。
みなから「三佐」と呼ばれ、当主の右腕としても柳生の兵法家としても有能だった老人は、いまでも背筋がぴんとしており、動きも老人のそれとは思えぬ。
がっしりとして体躯にはまだ筋肉が残っており、皺のすくない精悍な相貌は陽に焼け黒光りしている。なにより、眼光が鋭い。
無論、平素は好々爺とした表情で、地元の民と助け合いながら暮らしている。
「長生きはしてみるもんじゃな。のう、姫様よ?」
八神城下のはずれにある三佐の生家は、ちいさいながらも手入れがゆき届いている。
柳生家ですごしていた時分から、だれも棲まぬ生家をときおり戻っては手入れをしたのである。
囲炉裏を設えた居間以外に三部屋、ちいさな庭。裏には、自給自足ができる程度のちいさな畑ある。
独り身である三佐はここで独り暮らしをしているが、ときおり、近所の小者が家事を手伝いにきてくれるので、なんら不自由はない。
老人は、ちいさな庭で二人の客人を迎え入れた。
まずは幼少の時分よりお転婆できかん気の強かった信江を抱きしめる。
さしもの厳蕃兄妹も、この三佐には弱いのである。
幼少の時分より、「爺、爺」と甘えたものである。
それは玄孫にも相当する厳周も同様で、いまだに「爺や、お元気ですか?」と訪ねてゆく。
そのお蔭で、此度世話になることになったのである。
少年は、三佐のまえで片膝を地につけ神妙に礼をとる。少年は、その昔尾張を訪ねて三佐に会った際も、柳生宗家の者と同様の礼をとった。
その技量や人となりを瞬時に解し、自然ととった行為にすぎぬが、尾張柳生宗家の面々は心底驚いた。
「よう生きておられた、辰巳殿・・・」
三佐は生来涙もろい。黒光りした相貌の細められた瞳から、大粒の涙が幾つもこぼれてゆく。
自身もまた地に膝をつき、少年のちいさな体躯を抱きしめた。
「上の姫様にそっくりじゃ・・・。さあ、なかへ。滅多なことはないが、この寒空のなか庭で話し込むのは不自然じゃ」
厳周から、否、その父の厳蕃から話がいっていたのであろう。
居間はきちんと片付いており、囲炉裏には火が入ってあたたかい。
「大丈夫かね、姫様?」
「爺、これでもわたしは疋田の嫁として、母として長年すごしたのです。茶くらい淹れられないでどうします?」
信江が茶を淹れてくる、というと三佐は苦笑混じりでいう。すると、信江は即座に抗議する。
三佐にとって、厳蕃はいつまで経っても若君であり、その姉妹たちは姫、厳周はちいさな若君なのである。
そして、当時からすべてをしっている三佐は、眼前の辰巳もまた大きな姫の忘れ形見であり、江戸のちいさな若君である。
「辰巳殿は、やんちゃがすぎるようですな?それにしても、いかような病で?すこし背が伸びたくらいで、ほんに童のままとは・・・」
三佐は囲炉裏をはさんで坐すと、相好を崩して尋ねる。
「十歳のまま、心身ともにその成長が止まっております・・・」
隻眼が老人の双眸と合う。
あのことがあってからということか・・・。
三佐は、そのように解するだろう。あたらずともとおからずである。
「ええ、仰るとおり面目次第もござりませぬ・・・。三佐殿・・・」
少年は、茶を淹れて戻ってきた信江に礼を述べてから、言をつづける。
「わたしは、いまや逆賊。できれば尾張柳生やその係累の方々に、ご迷惑をおかけしたくありませぬ。なれど、わたしたちがすすむべき道はとても険しく・・・」
三佐は言葉を濁す少年にゆったりとした笑みを浮かべ、右の掌を上げ制した。
「なんの、このやんちゃ姫は爺に任せ、辰巳殿、おぬしらはおぬしらの本懐を遂げなされ。ただ、そのまえに、是非とも会ってもらいたい者がおります」
「爺、だから申しておるではないですか?わたしは嫁であり、母でもありました。いまでは、このやんちゃ坊主の叔母でもあります。いつまでも幼いお転婆姫ではありませぬ」
信江が気色ばんで怒鳴ると、三佐も少年もこらえきれずにふきだす。
三佐もこのちいさな家もじつにやさしく心地よい。
主も叔母と、こんなところで暮らせればよい。
やさしくあたたかな家に、厳しくもやさしい父と母・・・。
少年は、はっとした。
なにを考えている?馬鹿な想いは捨てよ。そもそも、考えるな。
貴様は妖なのだ。人間ではないのだ。
その心中を、柳生の血筋の者もそうでない者も解している。
わざわざ心中をよまずとも、異相にありありと浮かんでいるからである。
三佐もこの家も、ほっとさせるなにかがある。
「陽が落ちるまえに参りましょうか、辰巳殿?ぜひとも会ってやって下され」
三佐が立ち上がりながらいう。
その所作は、とても老人のそれでない。じつにきびきびとしたものである。
それは、八神城やその城下を見下ろすことのできる山の中腹にある。桜の木々が立ち並んでいる。
春になれば、桜の花がきれいであろう。
一つの墓がひっそりと建っている。手入れがゆき届いており、いまは寒椿が供えられている。
三佐は、ながきにわたりこの墓を護りつづけている。
信江は、なんの迷いもなく墓前に膝を折り掌を合わせる。
慣れたその所作は、昔からつづけられている習慣であることがわかる。
「上の姫様や、此度は妹君だけでなく、姫様のお子もおみえだ。姿形はちいさいが、柳生の最強の兵法家ですぞ」
三佐もまた膝を折り、墓のまわりに落ちている枯葉を無骨な掌で撒き散らしながら話しかける。
それから、墓から四、五間ほどはなれたところで立ちすくむ少年を手招きする。
「辰巳殿、母上の墓ですぞ・・・」
少年は躊躇している。
三佐に、それから信江に、助けを求めるかのように隻眼を向ける。
「母上・・・」
呟くその声音は、哀れなほど震えていた。
ながきにわたり、この日の本だけでなく世界でその名を馳せた稀代の殺し屋とは、とても思えぬであろう。
三佐は、立ち上がると尾張柳生の年長の姫の忘れ形見にちかづいた。
自身の懐を探る。そこからでてきたのは、桑名の刀匠村正の名をかえた「千子」の懐剣であった。
「「大太刀」と会話し、遣いこなせるとききました。さすがとしかいいようもありますまい。なれば、これがなにかわかりますな?厳蕃殿が、今朝こっそりまいられました。この懐剣を辰巳殿に、と。辰巳殿なら、この懐剣を通じてお母上と会話ができるであろう、と・・・」
いまだ筋肉のついたままの腕が突きだされる。
無論、その掌には懐剣が握られている。
それは、疋田家の「千子」とおなじようになんの拵えもない鞘に納められた、一振りの懐刀である。
「わたしには・・・」
柳生の「大太刀」を御すことのできる少年は、隻眼を母のものであった剣に釘付けしたまま、懐剣から後退した。
「わたしにはその資格がありませぬ・・・」
口唇からやっとのことで言の葉をしぼりだす。
「わたしは、外道にまで落ちた身。そもそも、あなた方と接触する権利すらありませぬ。それをどなにゆえ・・・」
「柳生俊厳、坊っ、しっかりなさい」
姉への挨拶をおえた信江は、立ち上がると三佐から懐剣をかすめとった。甥に詰めより、そのちいさな胸部にそれをおしつける。
甥がみ上げる。
そこには、二十数年前尾張柳生邸の庭の桜の木の上から、少年を無礼者呼ばわりした少女とおなじ凛とした威厳と美しさをもつ叔母の姿がある。
「だれもあなたをそんな風には思ってはおりませぬ。この姉の剣と対話なさい。そして、母を感じなさい。それが、あなたの主の命でもあるのですよ」
少年は、叱られ怯えきった子どものごとくおそるおそる信江の掌から懐剣をうけとる。
両の掌で捧げもち、墓に向かって一礼する。
それまでとはうってかわり、さすがに剣を掌にしたときの少年は様子がちがう。
疋田家の道場で信江の兄と立ち合ったときとおなじように、元のもち主と懐剣自身とを讃える詠唱が静かな山の中腹に流れてゆく。
いつのまにか、この山に棲むさまざまな動物たちがあつまっている。冬篭りをしていない動物以外ではあるが。動物たちは、じっと少年をみている。
一人は、み知った相貌である。まだ青年の域にある、疋田忠景だ。
稽古着に袴姿。忠景もまた、整った相貌をもつ偉丈夫である。
このときはまだ疋田家の「千子」は継承しておらず、無銘の太刀を左太股のすぐ横に置いている。表情は緊迫と不安とに染まり、いま一人に語りかけている。
いま一人は女である。床の上に端座している。寝間着姿で、乱れ一つない。その相貌の色から、臥せっていることがわかる。
だが、いまはしっかりと忠景に相対しようと、気丈に振舞っていることがうかがえる。
女は美しい。その相貌は、弟や妹に似ている。
無論、女の息子にも・・・。
「光江殿、どうかともに尾張へまいりましょう」
忠景は、二十歳そこそこであろうか。切羽詰った声音は、女をよりいっそう頑固にさせる。
「俊章から、わたくしを殺すように命令されているのでしょう、忠景殿?」
その女、光江は、言の葉一つ飾ることなくいいはなつ。
さしもの忠景も、鼻白んでしまう。
「な、なにを申されるか・・・」
「あなたは、ちいさい時分から嘘をつくのが下手糞じゃ、忠景殿。ここでわたくしがあなたに殺されなかったら、いったいどれだけの人々に累がおよびますか?」
「光江殿・・・。師から、いえ、父からあなたを連れだすようにといいつかっております・・・」
「景康殿は、あの子をどうされたのか?」
女は、忠景に詰問した。
忠景ははやくに母親を亡くし、幼少より剣の修行に明け暮れている為女に弱い。どう接していいかわからぬ。とくに柳生の女は、やさしさよりも気の強さがさきにたつので、余計に苦手なのである。
いまも詰め寄られ、不覚にも半身をのけぞらすしかないていたらくである。
「俊章殿の依頼で蝦夷へ・・・。未開の地へ捨てよ、と・・・。お気の毒ですが、ご子息のことはあきらめて下され。片方の瞳が金色の赤子など、柳生家に災厄をもたらす妖であると・・・」
忠景は、言の葉を選びながら慎重に説明する。
「災厄をもたらす妖?」
光江は不意に笑いだした。
狂気じみた笑声は、忠景の肝を冷やすほどの不気味さがある。
「それは、生まれてきたあの子ではなく俊章のことです。忠景殿、あの子は死にません。わたくしにはわかります」
忠景は、根拠のないその説に同意も反対もできずにいる。
兎に角、一刻もはやくこの江戸の柳生邸から光江を連れだしたい。焦燥に苛まれる。
光江は、産後の肥立ちが悪かった。それは、生まれたばかりの息子をその腕に抱くどころか、一度としてその姿をみることすら叶わぬ連れ去られたこと、さらには出産を手伝った産婆や女中、小者たちが殺害された衝撃による心因に起因する。
光江は、そのことがあって以降ずっと床に臥せっている。
そしていま、俊章の魔の手はその光江におよぼうとしている。
「忠景殿、どうか景康殿とともにあの子のことを頼み申し上げます・・・」
光江は、忠景が気づくよりもはやく布団の下に隠していた懐剣を掌に握り、同時に抜き放っていた。
「なにをされます?はやまってはなりませぬ・・・」
忠景は弾かれたように片膝立ちになり、光江の掌から懐剣を払い落とそうと両方の掌を伸ばした。が、その掌は空をきる。
刹那、光江が中腰の姿勢からうしろに飛び退ったのである。
「光江殿っ!」
光江は、忠景の叫びにやさしい笑みで応えた。
「将来、わたくしの存在があの子の妨げにならぬ為にも、わたくしはここで果てましょう。あの子をこの腕で抱き、育てられなかったことだけが心残りではありますが、あの子は母などいなくともかならずや柳生の兵法家として立派に育ってくれるはずです」
それは、母としての想い、そして確信である。
忠景は、それをただ呆然とみ護るしかない。
光江が自身の喉元を懐剣で斬り裂き、自身の寝間着を、さらには畳をも真っ赤に染めてゆくのを・・・。
忠景が俊章の命に従ったかのようにみせかける為、光江はわざと自身の喉を斬り裂いたのである。
忠景は、その出来事を父景康にすら伝えなかった。
生涯、光江を救えなかった罪悪感に苛まれつづけた。
「母上・・・」
少年は「千子」を握ったまま、墓前で両の膝を冷たい地につけた。
隻眼を懐剣へ、ついで墓へと向ける。
剣はまだ語りかけてくる。ふわりとあたたかくてやさしい空気が気流となり、少年のちいさな体躯をつつみこむ。
少年は「千子」を胸におしいただき、相貌を天に向けその空気の流れに身をゆだねる。
それは、これまで語り合ってきた武器とはまったく異種のもののように感じられる。剣はたんなる媒体で、精神にじかに接触してくる。
けっして不快ではないそれは、これまで経験のない交流である。
「は・・・は・・・うえ・・・」
口唇から無意識のうちにその言の葉が零れ落ちてゆく。
胸の辺りが痛む。その痛みは増すばかりである。
ちいさな体躯がやさしくつつまれた。
あたたかく慈愛に満ちたそれはとても心地よく、そして、哀しみをともなっている。
信江が、まるでなにかに操られているかのように少年を抱きしめたのである。信江もまた両の膝を地につけ、姉の子を両方の腕で抱いた。
両者の間に死者のもちものである「千子」がある。
平素であるなら即座に拒否するはずの少年であるが、されるがまま抱きしめられている。
異相を亡き母の妹の胸に埋め、「千子」はさらに自身の胸におしつける。
「わたくしの子・・・」
信江が呟いた。その声音は、いつもの信江のそれとはちがう。
三佐はその声音がどういうものか、だれのものであるのかが即座にわかった。
「大きな姫様・・・」
自身のきいているものが信じられぬ、というわけではない。生き別れた親類に思いがけずも再会したような、驚きや嬉しさが胸中を満たす。
この引退した柳生の高弟もまた、柳生家の者たちとおなじ想いをながきにわたり共有しているのである。
「わたくしは、いつでもあなたをみていますよ。あなたのその力を、信じるものの為につかいなさい。それが、わたくしの子に与えられた運命。あなたは、人間ではないのですから」
「母・・・上・・・」
息子は、信江の胸に、否、信江を媒体とした実の母の胸に異相を埋め苦しげに訴える。
「胸が痛いのです・・・。かように胸が痛むのに、わたしの一つしかない眼は、涙一つでませぬ・・・」
「もっと強くなりなさい」
母は、わが子を強く抱きしめたまま叱る。
「あなたは、選ばれし子なのですよ。その責を立派に果たしなさい」
厳しい言ではあるが、その表情や声音はやさしく、それ以上に母としての愛情が十二分に籠もっている。
わが子でありながら、その背負った運命はあまりにも過酷である。
母としての心情は、庇護してやりたい想いでいっぱいである。が、それが叶わぬこともわかりすぎている。
「あなたたちが、あたらしき世を創る礎となるのです。わたくしのことで自身を責める必要などありませぬ。むしろ、わたくしがあなたに謝らねばなりませぬ。わたくしを恨みなさい。あなたをこの世に送りだしたわたくしを・・・」
母は、わが子をさらに強く抱きしめる。
「さあ、おゆきなさい。わたくしは、いつでもあなたをみ護っています・・・」
「母上・・・」
信江の体躯がぴくりと動き、空気の流れがあきらかにかわった。
少年は、それでも叔母に抱かれたまま動かぬ。
意識が自身のものへと戻った信江もまた、甥を抱きしめつづける。
「叔母上・・・。これでお別れです。どうか息災であらせませ」
甥は、叔母の胸の中で囁く。
母がいなくなったあとでも、叔母の抱擁はあまりにも気持ちがいい。
このままでずっといられたら・・・。
「すべてにお礼とお詫びを申し上げます。そして、どうかわが主をわたしにかわりお願いいたします。あなたしか、わが主を助けることはできませぬ・・・」
「あなたはまことに頑固者ですね。ご存知でしたか?」
信江は、甥を抱きしめたまま囁きかえす。
声音が震えている。
それをみている三佐も、その相貌は涙でぐしゃぐしゃになっている。
「わたしがはじめて好きになった男子は、あなたなのですよ」
二人にとって、尾張柳生邸の庭でのあの出会いはいい思いでなのである。
「あなたの母が、あなたのことを教えてくれました。あなたたちのこと、運命について。わたしは、あなたを誇りに思います。どうか、あの人を頼みます・・・」
少年は、叔母が心中で「いくな、死なないでくれ」と慟哭しているのを黙殺する。
そのかわり、母の懐剣を右の掌に握り直し、叔母をしっかりと抱きしめた。
「わたしも、あなたの甥であることを誇りに思います。そして、主には内緒ですが、わたしも木の上のお転婆娘のことを、とてもきれいだと思いました」
相貌を叔母の胸元からはなし、はにかんだ笑みをみせる少年。
その笑みは、たった十歳の童の純粋な笑みである。
「三佐殿、叔母上と母をお頼み申し上げます。これにいる動物たちが、あなた方を護ってくれます」
少年は、叔母の胸から一歩ひくと三佐に一礼する。それから、まだ抱きしめたりない風情の叔母からゆっくりとあとずさった。
母の墓、そして、叔母をいま一度その隻眼にしっかりと焼き付ける。
少年は、すべての想いを断ち切ると木々の間へそのちいさな姿を消した。




