叔母上と甥っ子
信江は尾張柳生宗家の血をひいているだけあり、思いきりがよい。
少年が長州から京へと戻り、信江をむかえに逝ったとき、きれいに結っていた髪をばっさりときり、胸には丹念にさらしを巻き、死んだ夫の着物と袴を身につけていた。それだけでなく、一文字笠をかぶり、腰には「千子」を帯びてもいた。どこからどうみても武士の旅装である。
さしもの少年も、そのかわりはてた勇姿に言葉もなく、ただ隻眼をみひらいてしまった。
おなじ一族の者として、信江の決意と信念は潔しと感心する。だが、その一方で女たる実の叔母を平穏とはほどとおい世界へと誘ってしまったことを申し訳なくも思う。
少年は、これもまた自身の存在の連鎖だと思うといたたまれなくなる。
かくして二人の旅がはじまった。
京の家は、尾張柳生が処分してくれるであろう。
少年は、死んだ従弟の着物と袴を身につけ、相貌の傷を隠す為に一文字笠をかぶる。大人用のそれは、少年にはおおきすぎ、容貌がすっぽりと隠れてしまう。
信江は幼少の頃より兵法家としての鍛錬を積んできているだけあり、控えめにいっても体力がある。あるく速度は漢なみにはやく、距離も漢のそれと大差ない。
京から大津へ。
脱走した山南をみつけた大津の宿場町は素通りし、そのまま水口宿まですすむ。
信江は、まだあるけるし野宿でもかまわないと頑固にいいはる。だが、「まもなく薩長軍が進軍してくる」という噂でどこも不安につつまれ、それ以上に旧幕府軍の残党狩りも横行している。
できるだけ面倒は避けたい。
少年は正直にその旨を説明し、水口宿で宿をとった。
姉の子は、信江を驚かせてばかりいる。
怪我の療養であずかっているときからだが、食事はもとより眠っているところをみたことがない。
宿では、部屋にとおされて宿の女中が下がった途端、窓から飛びだしたきりいなくなってしまう。道中にいたっては口もきかぬ。それどころか、信江の話をきいているのかすら怪しい。
ただ、やさしく気遣ってくれる。それは、信江のあるく速度の調整や休憩といったさりげないところにはじまり、意見や要望をできうるかぎりきき入れてくれるところまで、多岐におよぶ。
女子に慣れてはおらぬはず。
永倉や原田といった女好きの兄貴分たちの教えがゆき届いているのか?あるいは、主と慕う土方の背をみていてのことか?
後者だとすれば、信江としては捨て置けぬであろうか・・・。
夜、信江は宿の湯を借り湯浴みした。
男の姿形がじつは女子であったとわかっても、宿の者たちは別段気にせぬようだ。
信江ら以上に胡散臭い宿泊客もすくなくないのであろう。
信江は、これだけの距離を一度にあるいたのははじめてのことである。
湯に浸かりながら、ぱんぱんに張ったふくらはぎを揉む。だが、それがほぐれることはない。正直、翌日のことを考えるとぞっとする。
この両の脚は、明日にはどうなっているのだろう。
湯浴みして部屋に戻ると、少年が窓框に腰かけ通りをみ下ろしていた。
信江は部屋に入って障子を閉めながら、布団が敷かれていることに気がついた。
「かなりの距離をあるきました」
少年は、信江の方をみることなく窓の下をみつめたままいった。
外はすっかり暗くなっている。通りではそれぞれの宿の小者たちが客引きしている。
もっとも、宿場町には飯盛女もおおい。そういった客引きも盛んである。通りは騒がしい。
部屋には火鉢が焚かれているが、火照った体躯には開け放たれた窓からの風が心地いい。
「明日が辛くなるはずです。布団にうつ伏せになっていただけませんか?」
信江は、いわれるままにうつ伏せにその身を横たえた。
少年は窓を閉め、信江の側に端座した。しばしちいさくて分厚い掌を火鉢にかざして暖める。
「失礼いたします」
しばしの後、それを伸ばすと信江のふくらはぎに触れる。それからゆっくりと揉んだ。やさしく丹念に。
それはとても気持ちがよい。おそらく、按摩の技術も身につけているのであろう。ひかえめにいってもうまい。
信江は、昼間の緊張や疲労があいまってすぐに眠ってしまった。
夜半、一度だけ目が覚めた。
灯火も火鉢の火も消えており、仰向けで布団がかけられた状態で眠っていた。
姉の子は、この寒空のなかどこで過ごしているのであろう・・・。
信江は、そう考える間もなく深い眠りに落ちてしまう。
よほど疲れているにちがいない。
翌日は、四日市宿まですすむ。
あとわずかで尾張領内に入る。だが、わざと四日市の宿で投宿した。
その理由の一つは、松平定敬の為に桑名藩の様子を探ること、そしていま一つの理由は、尾張領内の様子を探ることにある。
第十四代、十五代の尾張藩主、会津候、そして桑名少将、後に高須四兄弟と呼ばれるようになるうちで、桑名藩藩主の松平定敬は末弟にあたる。
まだ二十歳をすこしすぎたばかりの青年は、優秀で高名な兄たちの蔭でさして目立つというわけでではない。だが、けっして凡愚ではない。
京都所司代として京都守護職である兄の容保を助け、その職務を立派にこなした。
線が細く、気弱でやさしく控えめ。それでいて、根底にはしっかりとした意思を感じる。
兄たちとは年齢がはなれている為、少年とさほど交友があったわけでもない。が、少年はこの控えめな末弟が気がかりなのである。
尾張公が会津候をとくに可愛いのとおなじように、会津候はこの末弟を可愛がっている。
その定敬の桑名藩の情勢は、控えめにいっても厳しい。定敬にとって・・・。
桑名城内に潜入し探りを入れてみたが、もはや定敬のかえる場所がないということがわかった。
朱雀に文を託す。
大空の覇者は、かならずや主に文を届けてくれる。
それは、主から会津候へ渡るであろう。
桑名から尾張へ・・・。できれば、信江を実家に託したい。
江戸へ伴っても、このさき薩長の攻撃で江戸もどうなるかはわからぬ。ましてや、かのじょを護るべき土方は、どこでどうなるかまったくわからぬ状況である。
危険ばかりが伴う江戸へ連れてゆくより、実家で隠れまっていてもらったほうよい。そのほうが、土方だけでなくだれにとっても安心であろう。
無論、少年がこの柳生の女兵法家を説得できればの話である。
尾張の情勢もまた、幕府側の観点からすればかなり厳しい。
藩主慶勝は、領内でおこった佐幕派と朝廷派の争いを鎮めるのに躍起になっている。
後に青松葉事件と呼ばれるようになるそれは、交通の要衝である尾張領内を朝廷派に統一する為、慶勝が朝廷より佐幕派を一掃するようにとの厳命を受けてのおこった。それはなにも尾張だけの問題ではない。近隣諸国をも朝廷側につけねばならぬ。
苦渋の決断は重臣から一般藩士にまで及び、斬首十四名、処罰二十名にのぼる。
かような情勢では、もはや名古屋城下に潜伏することは難しい。
信江が新撰組の副長の女だということは、敵にしられてはいない。だが、辰巳とおなじ一族ということはしられている。
こちらのほうが厄介であることは、いうまでもない。
四日市宿に投宿した翌晩のこと。
信江が湯浴みから戻ると、少年が水口宿の宿のときとおなじように布団を敷き、わずかに開けた窓際に胡坐をかいて通りをみ下ろしていた。
信江が部屋に入ってくるとすぐに窓を閉め、布団に横になるよう身振りで示す。
信江は、廊下の障子を閉めるといわれるまま布団にうつ伏せになった。
「あなたという方は、まったく油断も隙もありませぬな」
少年は、信江の脚を丁寧に揉みながら呟いた。
四日市宿でも水口宿とおなじように、通りから複数の呼び込みの声がきこえてくる。
この日は朝から寒く、日中、この部屋を訪れた客人たちも相貌を真っ赤にしていた。
だが、美しい相貌に二つの大きな傷跡のある少年は、寒さなどなにも感じてはおらぬようだ。そもそも、寒さ暑さなど感じているのであろうか、とさえ思える。
「あなたはご実家を潰すおつもりですか、信江殿?」
少年の玄人はだしの按摩は気持ちよく、信江は睡魔に襲われる。
「尾張は、いまや佐幕派を一掃しております。わたしは敵方にとって、将軍家よりも大罪人です。あなたは、その大罪人と行動を共にされている。かような状況で、尾張藩主の剣術指南役を呼びよせられるとは・・・。ええ、わかっています。あなたが呼びよせたつもりのないことは。あなたは、京を去るので疋田の家の処分を頼んだだけです。あちらが勝手におしかけてきただけだ・・・」
わが一族はだれもかれもが聡く、なによりその絆を大切にしすぎている。
否、それは尾張柳生家にかぎってのこと、か・・・。
信江から文でしらせを受けた厳周は、父厳蕃に相談することなくこのあたりの宿場町を探しまわったのであろう。
江戸へ向かっているであろう叔母に会う為に・・・。
「だが、それを招き入れるのと追いかえすのとでは意味が異なります。なにゆえ追いかえさなかったのです?」
信江は、その問いが責めているわけではないことをわかっている。信江にかようなことができるわけがないことを、少年もわかっている。
「かれはしっているのですか、わたしのことを?」
尾張藩主の剣術指南役は、少年にとって従弟にあたる。
信江は、睡魔に抗いながらやっとのことで相貌を布団からあげる。それをわずかにかたむける。
実の甥と視線があう。だが、すぐにそれはそむけられる。
「しらされてはおりませぬ。ですが、高弟たちの噂話で気づいております。すくなくとも、あなたが従兄であるということと、叔母が新撰組の副長といい仲であるということは。それ以上のことは、なにもしらぬようです」
甥は、叔母のふくらはぎをやさしく揉みながらいった。
「厳周殿はなんと?それから、あなたはなんと申されたのです?」
「厳周は、わたしたちを尾張でかくまう準備があると・・・。あなたとわたし、二人ともを、と」
信江は少年の掌の動きが一瞬止まった隙に起き上がり、敷布団の上に端座する。
甥を真正面から見据えるが、甥はその異相を伏せてしまう。
甥は、意識的に視線を合わせぬようにしている。
それをひしひしと感じる・・・。
一方で、少年は隻眼を布団に向けたまま、厳周の提案について思案する。
信江を尾張にあずければ安心できる。
情勢はどうあれ、領内のどこかにかくまってくれるであろう。
信江、否、叔母には生きていてもらわねばならぬ。主のたった一つのよりどころとなるであろうから・・・。
ああ、くそっ!これだから同族は嫌だ・・・。女子は苦手だ・・・。
少年が上目遣いに信江をみると、信江の怖い表情がある。
こちらの心中をよまれたのである。
少年が口唇を開くよりもはやく、信江が口唇をひらく。
「厳周には、かくまっていただくようお願いしました。厳周は、忠景が疋田新陰流を指南しました。わたしは、そのときに忠景と懇意になったのです。そして、同時に江戸でのことをききました。無論、きいたのは兄とわたしだけですが・・・。厳周は、幼い頃より才があり、あまつさえ性根も穏やかでひろい子です。だからこそ、兄ははやくに引退し、当主と指南役の座を譲ったのです。わたしたちの祖父、あなたにとっては曽祖父にあたる代から仕えていた高弟が、現在は尾張領内ではなく美濃の国八神城下に引退し、住んでおります。その一帯は現在もまだ幕府領ですが、八神城主である毛利様は、此度の騒動で尾張公の呼びかけに応じ恭順を誓っております。小さな城下です。隠れるにはいいところです・・・。厳周がすでにその高弟に話をしてくれております」
いっきにまくしたてられ、少年は無言で頷くしかない。
このことは、おそらく厳蕃もしっているはず。息子を信じ、やりたいようにさせている。自身が動けぬかわりに・・・。
正直、ありがたい申しでだ。
三代にわたって仕えている高弟なら、任せて安心であろう。
「そこまで送っていただけますか?」
信江の声音には凛とした響きがある。
悩み、葛藤し、苦しんだ後の・・・。
少年は、無言で頷いた。
「あなたは、覚えていらっしゃらないでしょうね?」
それは、さきほどとはうってかわりやさしい声音でである。
少年の耳朶に、心地よく響く。
「昔、あなたが景康様といらっしゃったとき、わたしはあなたに助けてもらったのですよ」
少年は上目遣いにではなく、信江の双眸に自身の隻眼をしっかりと向ける。
微笑む叔母は美しい。
そして、そこに可愛らしい少女の姿が垣間みえた。
「ええ、覚えていますとも・・・。木に上って下りられなくなったお転婆な女子など、そうそう忘れられるものではありませぬ」
左半面の二つの大きな傷跡の下に、少年らしい笑みが浮かぶ。
柳生邸の庭に迷い込んだ小猫が、木の上に上って下りられなくなっていた。それを助けようと、ちょうどいまの少年と同年齢だった信江が木に上り、猫ともども下りられなくなってしまった。
信江は桜の細い枝に座り込み、左の腕に小猫を抱き、右の腕を桜の幹にまわし、途方にくれた。
柳生の血は、かような場合でも安易に助けを求めたり泣いたりせぬ。
そこに、尾張柳生を訪れていた少年が、大人たちの話よりも尾張柳生の屋敷内探検という少年らしい興味をもち、通りかかった。
少年はそのとき七歳で、すでに疋田・柳生、それぞれの陰流の免許皆伝を得、師の景康とともに諸国を旅しながら様々な仕事を請負っていた。否、その仕事こそが、鍛錬・修行であった。
少年は、木の下で立ち止まった。それから、信江よりも美しい相貌を上げ、珍奇な光景をみつめた。
すくなくとも、信江にはそうみえた。
「なんなのですか?じっとみつめるなど無礼でしょう?」
年上の少女は不安や恐怖などおくびもみせず、木の下の年少の少年を叱りつけた。
少年の美しい相貌にある双眸は、驚きと興味とでみひらかれている。
尾張柳生邸の庭には、たくさんの桜の樹がある。この時期はまだ、開花するにはわずかにはやい。それでも、そこかしこでちいさな蕾がひらきかけている。
「申し訳ありませぬ」
少年は控えめに詫びた。その声音にも、少年らしい興味津々の響きがこもっている。
信江は、それも気に入らぬ。
「あなたは何者ですか?」少女の甲高い声音。
「どうしたのだ、信江?」青年の問い。
少年の跳躍がほぼ同時であった。
「何事だ?」青年の声音。
「きゃっ!」少女の悲鳴。
そして、少年の着地が同時である。
少年は、瞬きする間に跳躍して木上の少女を抱きかかえ、小猫は自身の頭上にしがみつかせ、地上に舞い下りた。
いなくなった信江を探しにきた厳蕃が、ちょうどそれを目撃したのである。
「ご無礼を、お許し下さい」
少年は、抱きかかえた少女を下ろしながらまた詫びる。頭に小猫をいただいたまま。
「ほんとに無礼よ・・・」
悔しさ、恥ずかしさなどで相貌を真っ赤にした少女が叫んだところに青年がわってはいる。
妹の性格をよくしる兄は、この状況を即座に解したのである。
「無礼なのはおまえであろう、信江。辰巳殿、妹にかわって礼を申す。師がお呼びだ。わたしたちの立ち合いの準備が整ったそうだ」
妹は、兄の言に驚いた。兄を、そして自身の体躯に気やすく触れた無礼な少年を、順にみつめる。
日の本一強いと思い込んでいる兄が、かような女子のごとき童子と立ち合うですって?
「にゃー」
少年は、頭上でいまだしがみついている小猫を両の掌でやさしく包み、地に下ろしてやる。
「ああ、わかっている。だが、まだ木に上るのははやいな。さあ、はやくおゆき」
小猫は、枝に止まった鶯を捕まえようとしたのである。
少年は、あらゆる動物と心を通わせることのできる。小猫をそうたしなめてからはっとした。
少女が自身にたいする嫌味だとうけとったのか、さらに相貌を真っ赤にしていたのである。
「辰巳殿、さあっはやくこちらへ」
厳蕃は、困惑し立ち尽くす少年の腕をひっぱり、さっさと道場に向かってあるきだした。
妹がうしろから追ってきているのをしりつつ、江戸柳生の少年に告白する。
「柳生の女子は強い。怖くてかなわぬ」、と。
「兄上、なにを申されるか?」
刹那、少女の怒りの声が飛んでくる。
このときにはまだだれも真実をしらなかった。
無論、二十数年後、いかなる立場や状況であいまみえることとなるかも・・・。
それはある春の一日、尾張柳生邸でおこったささやかな一幕・・・。




