火吹き達磨
岩倉は、あの恐怖の宴以降昼夜を問わずして悪夢に悩まされている。
夜はまともに眠れず、午睡も同様である。つねに内外の影に怯え、それらを消し去る為に酒量は増えた。寝不足と心労により眼下にくまがあらわれ、酒精の臭いがその恐怖心とともに撒き散らされる。
あらゆる負の心情が、岩倉の心身を蝕む。
慶喜が江戸へ逃げかえった以上、京での戦いは終息を迎えるであろう。
あとは薩摩や長州の武士どもを江戸へ向かわせ、幕府の武士どもを喰らわせればいい。
共喰いだ。さぞかしよい喰いっぷりであろう。
小癪な妖は、江戸へいったであろうか・・・。
岩倉を不安にさせる元凶・・・。
あの宴でみた動きは、およそ人間のものではない。その気性もまた、まともな人間ではない。
まさしく、あれは妖である。
慶喜とその一党を、早急に舞台よりひきずりおろさねばならぬ。その上で、最終的にはひきずりおろす役目を担う武士どもも、飼い馴らすか、あるいは処分すればよい。
あの妖なら、薩長を滅ぼすこともできるはず。
血祭りにあげたいほど憎悪する妖ながら、どこか惹かれるところもある。なにゆえであろうか・・・。
否、力そのものは妖にちがいないが、そのうちに流れる血は・・・。
そこまで考え、身震いする。
このことは、忘れた方がいい。
なにもしらぬ。しらぬままでいたほうがよい。
さもなくば、さきの宴どころの騒ぎではなくなろう・・・。
岩倉は、かようなことを考えながら帝のおわす清涼殿へと向かっていた。
傀儡たる帝・・・。幼さは、それだけでこちらにとっては好都合。頷くことしかできぬ帝から、玉璽を賜ることは誠に容易きこと。
壮大かつ完璧な筋書き。緻密で優雅な絵図・・・。
これで幕府もしまいだ。
薩摩の大久保は妖を怖れているのであろう。恭順を示しながらも一線を画している。
まあよい、その任は長州にさせればいいのだ。
この二つが相容れることはない。共通の目標がなくなれば、喰い潰しあうだであろう。そうにちがいあるまい。
この世を統べるのは帝。
その帝を戴くのは、われら公卿。所詮、武士どものでる幕ではない。
岩倉は、清涼殿の静謐満ちる廊下を進みながら自身の腹部を掌でさすった。
腹のなかには、この世を統べることのできる眼がある・・・。
「火吹き達磨」という異名をつけたのは、元治元年(1864年)に切腹した周布政之助であったか。それとも、慶応四年(1867年)に労咳で死んだ高杉晋作であったか。
そのふたつ名どおりである。
大村益次郎の相貌は額が異常にひろくておおきく、その下にある小ぶりの目鼻口は奥にひっこみ、一度みたらけっしてわすれられぬものである。
長州藩の村医であったこの異相のもちぬしは、いまや長州藩の軍を統べる中心人物である。
狡知に長けた軍略と緻密な戦術は、長州藩を常勝へと導いている。
これが遠隔での指揮なのだから、帝からの詔勅により江戸へと軍を率いれば、さほどときを擁せずして幕府を倒せるであろう。
だが、大村はその性質にかなり難がある。
「火吹き達磨」という異名は、愛称などではない。
密かに揶揄されてのものである。
無愛想、独善的、高飛車・・・。
この「火吹き達磨」は、他者と付き合う為に必要な要素のすべてを母親の胎内にわすれてきたにちがいない。
その性質の所為で、こののちもあらゆる人々から不快と怒りを買うこととなる。
それは自藩も含めて、である。
他者には肝要な西郷ですら、ぎりぎりのところであったという。
維新後に京で暗殺されるが、その黒幕が薩摩藩士の海江田信義であったという。 この幕府との戦いのなかで、海江田の怒りを買ったのだと・・・。
まことしやかに噂されるが、真偽のほどはわからぬ。
藩主の毛利元徳が、朝廷より進撃の宣旨を受けるにいたる。
大村は用所本役軍務専任という役職を与えられ、その進撃に随行することとなった。
山口城の城下をぶらぶらとあゆむ。
考え事をするには、あゆむのが一番である。
背が低く痩せ型の体躯に頭でっかちのその容貌は、すれちがう町民をいつも驚かせてしまう。
城下は、かねてからの戦の影響で活気がある。昨年まで、人々は異国との敗戦で貧困に喘ぎ、気力を失っていた。だが、いまではそれが嘘のようだ。
大村は頭部の重みか、それとも姿勢によるものか、前屈みであゆみつづける。
城下は、朝のうちから市が立つ。
大村は、その店々のあいだを考え事をしつつあゆむ。
無論、その内容は此度の遠征についてである。
気がつくと、市からはずれ用水路のある通りにさしかかっていた。人通りはほとんどない。
用水路には鯉を放流している。過去の戦の経験により、危急の際に食用とする為である。
鯉が尾で水を叩く音がする。
しばらくあゆむと、すぐさきにおさない童が、用水路をじっとのぞきこんでいるのにでくわした。
童は襤褸をまとい、相貌には汚れて黒くなった包帯が無造作に巻かれている。
戦争孤児だ。汗と汚物の臭気を、そこかしかにまき散らしている。
大村は、不愉快だと思った。
だが、大村自身も着物や袴は薄汚れ、体臭がきつい。
童は腹をすかせているようだ。
大村は、童が戦時の非常食用として放流している鯉を、捕まえようとしているのだと邪推した。
すぐちかくにまでよってみた。
おなじようにのぞきこんでみる。たくさんの鯉があつまり、ばしゃばしゃと尾で水を叩いている。
童は、その鯉たちに掌に握った麩をちぎっては投げ与えている。
臭いがきつい。
大村は、頭部をのけぞらした。そのとき、不衛生きわまりない包帯に包まれた頭部が、大村へとめぐらされた。
「可哀そうに・・・」
童が呟く。
まだ七つか八つくらいであろうか・・・。
大村をちらりとみたが、用水路に視線を戻した。
不意に、ちいさな指が集団からはなれた一箇所を指し示す。
長州の冬の陽光の下、そこにも鯉がいるのか、鱗がきらきらと光をはっしている。
「まだちいさくて、このなかに入って麩をもらえないんだ。まだちいさな子どもだから、おおきな大人たちの奪い合いに参加したくても、怖くてできないんだ・・・」
その声音は、じつに悲しげだ。
「でも、子どももときには大人より凄い力を発揮できるときがある」
大村に話しかけるというよりか、独語のようである。
大村は、めずらしく他者のいうことに耳朶を傾けた。
「みていてよ、ほら」
童は、そう呟くと右の指をならした。
その「ぱちん」という乾いた音は、銃の発射音のようだ。
その音と同時に、きらきらしたちいさな塊が水中を全速力でこちらに向かってくるではないか。
大村はまえのめりになり、額の奥にあるちいさくて細い双眸をみ開いた。
ちいさな鯉は、麩を奪い合っている大きな鯉たちのすぐちかくまでくると、水中から飛び跳ねた。
鯉が?飛び跳ねる?
鯉について知識があるわけではないが、飛び跳ねるようなことは滅多にせぬはずだ。すくなくとも、飛び魚のように跳躍するようなことはないであろう。
ささやかな冬の陽光を吸収し、そのちいさな鯉の金色の鱗はきらきら光っている。
大村は、それをただ呆然とみつめた。
童が投げた麩が、ちょうどちいさな鯉の口にすっぽりとおさまった。
ちいさな鯉は群れを飛び越え、向こう側に着水した。
その距離は、ゆうに五、六間はある。
大村がわれにかえったとき、童の姿はどこにもなかった。
自身の右の掌は、麩を握りしめていた。
大村は、童とおなじように麩をちぎり、それを用水路に投げる。
あのちいさな子どもの鯉は、もう二度とあらわれることはなかった。
大村益次郎・・・。
少年は用水路ちかくの柳の木の上で、黙々と麩を鯉に投げ与える大村をみつめた。
長州藩の策士。その人となりはわかった。
さきの京での用兵ぶりが、興味を抱かせてくれた。
面白い。心底そう思った。
木上より、その姿は掻き消えた。




