情緒
近藤は、雷神と朱雀のお蔭で右肩を撃ち抜かれた程度ですんだ。
例の宴の後、慶喜は二条城から大坂城にうつった。それにともない、会津候や桑名少将も大坂へ下った。
会津候は、大政奉還後京都守護職を、桑名少将は京都所司代の任を、それぞれ解かれている。
新撰組もその煽りを喰らい、京都見廻組に組み込まれた。名称も「新遊撃隊」への変更を強要された。
それはまさしく、これから起こることへの幕開けに過ぎない。
京の情勢は慌しい。
大坂城へ、近藤と療養中の沖田が送られることとなった。
弾丸は摘出したものの、右腕が動かなくなっては元も子もない。沖田の病状も懸念される。
大坂城には、慶喜や会津候に従っている医師高倉がいる。
土方の判断と、それにともなう行動は迅速だ。
淀から船で運んだ。あっという間であった。
近藤の妾であるお孝は、近藤との間にできた娘のお勇とともに、姉であり近藤の前妾でもある美雪太夫を頼ってうつった。
土方はそちらも手抜かりはなく、しばらくの間母娘が暮らせるだけの金子はもたせてやった。
「信江・・・」
その夜、土方は慌しいさなかにもかかわらず、疋田家に立ちよった。
これまで単身で行動することもおおかった土方だが、御陵衛士の残党や薩摩や長州の密偵たちの瞳がある。疋田信江の存在を嗅ぎつけられても厄介だ。
文字通り鼻のきく懐刀の一振りを供に連れ、訪れた。
その一振りは、信江にとっても大切な実姉の忘れ形見にあたる。
土方は、名を呼ぶことにまだ慣れておらぬ。それは信江もおなじである。
疋田家の玄関先で大小を渡しながら、気恥ずかしそうに「信江・・・」と呼ぶと、信江もそれを受けとりながら「歳三様・・・」、とやはり気恥ずかしそうに応じる。
その様子を、かれらの甥は玄関のそとできこえぬふりをしている。
あれ以降、少年は信江と過ごすことを拒んだ。否、怖れているようだ。
情は無慈悲である。未来がわかっている。少年は、情を通わせることがどれだけ酷なことかを理解している。
信江の為に・・・。だが、じつは自身の為にであることも認めざるを得ぬ。
「あまり長居はできぬ。だが、いつどうなるかわからぬ。よれるときにはよっておこうと思ったのだ・・・」
土方は、近藤の狙撃事件や雑多な問題の処理の為、昼夜を問わず働いている。
わずかな休息。それ以上に、好いた女のやさしさや肌のぬくもりが欲しい・・・。
「お顔の色がすぐれぬようです・・・」
信江は大小を胸元で抱え、心配げに土方の相貌をみ上げた。
土方の理性は、その憂いを含んだ瞳になりを潜めた。
どうにもおさえきれず、信江の両の肩を両の掌で掴んでひきよせる。太刀と小刀が胸部にあたって痛かったが、かようなことは問題ではない。それを無視し、土方は信江の形のいい口唇に自身のそれを合わせた。
一瞬、会ったこともない疋田忠景の背が脳裏に浮かぶ。命令とはいえ、殺した女子の実妹と添い遂げるとは、どういう気持であったであろう?という疑問も浮かぶ。
過去のことだ。漢と女子の情など、周囲の情勢に左右されるものではない。そう、いまの自身らのように・・・。
土方は、情欲のおもむくままに信江の口唇を貪った。信江は、こういう点でもできた女だ。
柳生の血は、相手の心中や心情をよく掴み、よく解するようだ。玄関先で、しかも大小をあいだにはさんだ状況でも、好いた漢の気持ちを、欲を、拒むことなくうけいれる。
ひかえめな咳払い。それには、まだ漢になるにははやい年齢頃の、親の情交を目撃してしまった子どもとおなじ類の気恥ずかしさが含まれている。
はっとしたのは、叔父叔母同時であった。
「あの、副長・・・」
二人の甥は、年相応の声で囁いた。
「気を感じます。あぁご心配にはおよびませぬ。どうやら、おれに用があるようです」
土方は、あの騒動以降いつも感心する。
少年は自身の呼称を、新撰組にいるときとそうでないときとをしっかりとつかいわけている。
「一刻ほどで戻ります」
そう告げられた途端、かれらの甥の気配は消えた。
「ませ餓鬼が・・・。いらぬ気をつかいやがる・・・」
土方自身は、いまの少年とおなじ頃から女子の尻を追いかけまわしていた。その一、二年後には、奉公先で女を経験した。
そういえば、あいつは女子にはまったく興味はないのであろうか?そもそも、修羅の道を歩むあいつに、女子をかんがえることなどあるであろうか。
ここでも、土方をたまらぬ気持ちにさせる。
否、あいつは漢しかしらぬのだ・・・。
自身の考えに愕然とした・・・。
あいつはいったい、どれだけの漢どもに抱かれてきたのか・・・。
まさか、な・・・。
自身の馬鹿げた想像を否定する。そして、意識を眼前の女へと集中させた。
その土方を信江が誘う。女も漢と想いはおなじなのだ。
甥への想い、互いへの想い・・・。
中村は、あれをみせられてから苛々しつづけている。
江戸での挑発が成功することを祈りながら待機している同僚たちをよそに、藩邸の庭に立ち並んだ立ち木に向かって一心不乱に木刀を打ち振りつづける。
昨夜、薩摩に庇護を求めかくまってやっている元新撰組の隊士たちが、近藤の襲撃に失敗した。
連中は、ほうほうのていで逃げかえってきた。
新撰組一の剣士といわれる沖田の襲撃にも失敗した。
連中は、ただの一人としてうまく殺れなかった。
苛苛の要因は、かれらの失敗そのものではない。
それを察知し、見事はばんでのけた者にたいしてである。
「はんっ!大久保さぁが馬鹿ほいならっで、また失敗しもした」
西郷の居室で、かれの片腕の一本が口さがなく批判した。
黒田は、西郷とむかいあい、胡坐をかいている。
西郷のもう片方の腕である中村は、柱にもたれ立っている。
「責められちょった。いけんやら、連中にあん童のこっぉ一言も告げんかったらしか。責められても当然ほいならなかですか」
黒田は、ひとり国の焼酎をあおっている。
どれだけ呑んでも顔色一つかえることはなく、ますます饒舌になってゆく。
「全員が傷一つおわされうこっなく、もどってきたのなあ?」
西郷は、えらの張った大きな相貌のまえで右の掌をひらひらとさせながら訊いた。
黒田の酒精が、鼻梁にまともにぶつかってくるためである。
「沖田を襲ったもんが、腰や掌脚に軽い打ち身をおいもした。あん童は、誠にびんたがよか」 黒田は、自身の膝を威勢よく掌で打った。それから、小声でつけたす。
「いけんせなら、こっそい大久保さぁだけでん始末してくれればよかのじぁんどん」、と。
薩摩の庇護下にある者を傷つければ、いい口実となる。
大久保は、それを狙っていた。
逃げだし庇護を求めてくるような負け犬たちに、最初から期待などしておらぬ。
兎に角、なにかのきっかけが欲しい。その上で近藤が死ねば、それはそれで儲けものだ。
かような浅慮に、ひっかかるわけはない。
武辺者の中村ですら、かようなことはわかる。
中村は柱にもたれ、部屋の天井をみつめたまま冷笑を浮かべた。
苛苛する・・・。
陽に焼けた相貌に、はっきりとそれがでていたのであろう。
「中村さぁ、おいがあん童を欲しよかう気持ちにかわいがなかちゅうこつを、伝えてくれんごっだろうか?」
西郷は、かろうじてききとれるほどの声量で、自身の片腕の一本にいった。
中村の苛苛の理由を、よく解しているのである。
「ほんのこてに?よかんですか?」
中村は柱から背をはなすと、部屋の上座に座す西郷の右隣までちかづき、どすんと胡坐をかいた。
薩摩藩では、灯火に使用する油はすべて国からとりよせている。よく燃え、それでいてよくもつ。しかし、独特の臭気がある。
薩摩人以外は、これが耐えられぬ。
いまもきっと、この独特の臭気が部屋のうちに充満しているであろう。
「黒田さぁ、中村さぁ、あん童と童にかかわう者にな、できうだけの配慮をしやったもんせ。ばれんごっ程度で。あん童も、おいたちにな掌をださぁはずだ」
西郷の推測の根拠のでどころを、かれの両腕にはなんとなく理解できた。
無論、二人ともそれに依存はない。
中村の苛苛の要因は、西郷の粋なはからいによって解消されつつある。
誘いの返答はわかっている。
だが、それを伝える過程、否、伝えるという大義名分こそが重要なのである。
中村は黒田をともない、さっそく藩邸をでた。二人だけで。
この時期、丹波地方からやってくる薪うりに身をやつした。
太刀は、背の背負子の薪の束に隠しておいた。
下手をすれば死ぬやもしれぬ。
だが、それはささやかな不安でしかない。
それ以上に、気分は晴れ渡り、わくわくさえする。
二人の脚どりは、しれず軽やかになった。




