兵法家
「申し訳ありませぬ。とりみだしてしまいました。それで、あなた方は、いったいわたしにどうしろと?厳蕃殿、この昔話にあなた方がどうかかわるわけですか?」
複数の気は、土方や仲間たちのもの、そして同族のもある。
少年は、この話のゆきつくさきについて、よむ気にはなれぬ。否、その勇気がない。
少年が端座したまま体躯ごとうしろに向き直った。
道場の入り口に、土方や仲間たちがたっている。
信江と少年の会話を、土方たちはきいた。
過去のくだらぬ話だ。
厳蕃は、土方らと道場に入る信江の隣に胡坐をかいた。腰の得物は左太腿の横に置く。
土方たちは、道場の壁にもたれかかったり、座したりと思い思いの位置に陣取る。
「ご無礼、お許し下さい」
少年は、どこまでも礼儀正しい。上座にいることに恐縮し、すぐに移動しようと立ち上がりかけた。それを厳蕃が、片手をあげて制する。
「気にするな。本来なら、お主が江戸の現指南役だった。そちらの方が位階は上だ。そして、近衛大将軍の位階は、征夷大将軍が返還された現在、この国で最高の位階。同時に、幕府で唯一の希望であることを、お主は自覚せねばならぬ」
厳蕃は、少年の隻眼を睨みつけながら諌める。
市村は、道場の隅で心底驚いていた。話の内容以前に、少年の頭部の包帯をみたからである。
いったい、あいつになにがあったんだ?
土方や幹部たちの様子がおかしいことに起因しているに違いない、と子ども心に確信にいたる。
少年は、厳蕃、それから信江、土方、そしてまた厳蕃をみた。
その心中を探ろうとするも、厳蕃の精神の防衛は堅固だ。そう簡単には崩せぬ。
尾張柳生のなかでも、その開祖利厳の再来、否、宗祖石舟斎をも超えたといわれているだけのことはある。
二人は二十数年まえ、尾張で勝負をした。真剣を用いて。
当時、少年は怖いものしらずで多少天狗になっていた。それを、青年だった厳蕃がいとも簡単にその鼻をはしおり、畏怖と脅威をあたえてくれた。
たしかに、師から手加減するようにといい含められた。実際、その力をおさえた。だが、厳蕃はひかえめにいっても強かった。技術はもとより、その精神もまた。少年は、自身の慢心を心から恥じた。
以降、つねに上には上が存在し、自身はしょせん井の中の蛙だといいきかせている。
そして現在、場所も立場も時間もまったく異なるが、二人は再びあの時代に戻っていた。
ただ純粋に力を磨けたあの時代に・・・。
だが、その幻想はすぐに霧散した。仕方のないことだ。すべてにおいて、あの時代とは違う。
「厳蕃殿・・・」
精神を集中する。不意に、厳蕃の心中がよめた。否、よまされた。
「信江殿が、厳蕃殿の妹君?」
さしもの少年も、驚きのあまり眼前の二人を交互にみてしまった。そして、土方をみる。
土方は、少年と視線があうと両の肩をすくめた。
疋田家の隣近所も、そろそろ起きだしたのであろう。炊飯の準備や井戸端で身づくろいする人々の声や音、匂いが道場内に流れこんでくる。
市村がくしゃみをした。薄っぺらな寝間着一枚に素足である。寒いのは当然だ。
不意に、少年が声を荒げた。包帯に覆われていない相貌は、怒りの色が濃く刻まれている。
「厳蕃・・・殿・・・。失礼ながら浅慮軽率ですぞ」
眼前の兄妹が自身にとってなんなのか?
少年は、すべてをしった。
「わたしは、わたしは天子に弓引く逆賊。朝敵です。それを・・・、なんの気の迷いで参られたのです?」
気色ばんで噛みく少年のその様子が、演技であることがわかる。ゆえに、かえって痛々しくさえ思えるのだ。
厳蕃は、秀麗な相貌にふっと笑みを浮かべた。それは、けっして相手を馬鹿にするようなものではない。相手の気勢や怒りを鎮める類のものである。
土方は、それを少年もよくつかうことをしっている。
厳蕃は、たしかに息子の厳周にそっくりだ。だが、よくみると信江や少年にも似ている。
どうやら、柳生の血筋は剣の腕前だけでなく、外見もいいらしい。
「勘違いするな、辰巳」
厳蕃は、わざとその名をつかった。
少年は、幼名すらあたえられなかった。辰巳というふたつ名が、それに相当するといっていい。
「逆賊として死にゆくお主に柳生を名のられては、尾張柳生が、さらには尾張藩そのものに禍根を残すこととなる。それゆえ、お主が柳生とはなんの関係もない、新撰組とやらのつかいばしりにすぎぬことを、はっきりとさせたかっただけだ」
厳蕃の声音は低く単調だ。双眸は、少年の隻眼をとらえたままはなさぬ。
少年がそうであるように、厳蕃もまた演じているのだ。
冷酷で非道きわまりない叔父であるように・・・。
「なっ!」
その厳蕃の努力をそうと感じとれたのは、市村ただ一人だけだ。
事情はわからないが、自身の仲間がひどいことをいわれているのだけはわかる。道場の隅で座しているが、厳蕃のその言に反応し、かっときて立ち上がろうとした。
「・・・?」
その市村を、だれかがはがいじめにし、無理矢理元の場所に座らせた。
原田である。
原田は長身の両膝を折り、座らせた市村の寝癖のついた頭髪に相貌を埋めた。がっしりとした両の肩が小刻みに震えている。
「原田先・・・生・・・?」
市村は、もがきながら原田をみ上げようとした。
そして、もがくのをやめた。原田の涙を頭部に感じたからである。
「信江・・・」
厳蕃は、自身の姉の子を睨みつけたまま、隣に座す実の妹に声をかけた。
「おまえの覚悟も、あの頑固な馬鹿な子とおなじか?」
「はい、兄上・・・」
信江は、厳蕃に体躯を向けると深々と頭を下げた。
「疋田もそれを望んでいるはずです。わたしは柳生とはなんの関係もない、ただの後家として土方様についてゆく所存です。兄上、これまでしてくださったすべてに感謝いたします・・・」
土方は、意外すぎるなりゆきに心底驚いた。事態を把握するのに、しばしときを要した。
把握すると、冷静沈着、冷酷非情な新撰組の「鬼の副長」にしては、めずらしく狼狽した。あとにもさきにも、かようにうろたえることはないであろう。
「歳さん・・・」「副長」「土方さん、やったな」
井上、斎藤、永倉が、その意をこめた視線を送った。
そして、少年もまた・・・。
「土方殿、というわけだ。さきに申しておくが、柳生の血は頑固で強情。じつにあつかいにくい」
厳蕃は、土方に背を向けたまま忠告する。
「そして、子どもも女子も腕が立ちすぎる。お主は、最強の女子どもをその手中におさめたわけだ。わたしのこの忠告をゆめ忘れぬよう、くれぐれも頼む」
厳蕃は、立ったまま自身をみ下ろしている土方にくるりと体躯を向けた。そして、なんのまよいもてらいもなく叩頭した。
「お主は、柳生の者たちが認めるだけの才覚と、なにより気概をもっている。それは、お主の仲間も同様である。お主とお主ら新撰組の健闘を、心より祈っておる」
土方はしばし瞑目した。それから、強い決意をこめ瞼をあける。
「あなたも含めたすべての者を失望させぬよう、つとめます。そして、疋田にかかわる者たちを、忠景殿にかわって大切にいたします」
相貌を上げた厳蕃と土方の視線とが絡みあい、互いに了解しあう。
妹は、この漢に任せて間違いない。漢まさりの妹も、忠景亡きいま、この漢にならついてゆけるはず。
厳蕃は、心中で嘆息した。
さて、いまひとつの決着をつけねば・・・。
瞬きする間もない刹那、というにしても、それははやすぎた。
厳蕃は、背を向け右側に得物がある位置から、それを抜いて背後に座す少年を襲った。
「さすがだ辰巳・・・」
渾身の「村正」による一突きは、座したままの少年の右の人差し指と中指の間、たった二本の指によってはばまれていた。
その場にいる全員が、厳蕃の見事な奇襲と、それをふせいだ少年の無刀取りの妙技に魅入った。
「辰巳、抜け。活人剣などわたしに通用するとは思うなよ。疋田の剣をみせてみよ。いまや、疋田の正統なる後継者は辰巳、お主だ。そして、われらが「大太刀」から継ぎし、先人らの技の後継者であることも忘れるな」
自身の二本の指の間にある刃は、血に飢えた「村正」の刃だ。そして、その刃のさきにあるのは、刃以上に血の臭いをさせた暗殺者である。
少年は悟った。
厳蕃は、尾張徳川家の剣術指南役でありながら、自身尾張公と藩の為に暗殺という穢れ仕事をやっているのだ。
政とは、つねに清廉潔白なものではない。それどころか、清廉潔白であることのほうがすくない。
どこにでも、暗黙裡に処理せねばならぬ事象はある。
厳藩は、それらを他人にさせず、みずからおこなっているのだ。
少年は、血臭のきつい刃を指から解放した。そして、傍に置いている「千子」を掴むと、端座したままで後ろへ舞った。宙で一回転し、そのまま道場の床に片膝つく。
片膝ついたまま、「千子」を道場の神棚へ両の掌で捧げもち、一礼する。それから、なんの拵えもない黒塗りの鞘に自身の左の指をはしらせる。「千子」自身と、もとのもち主たちを讃える詠唱が口唇からつむぎだされてゆく。
これは少年にとって、剣士としての自身の封印を解く為の儀式なのである。そして、遣い手と刃とが語りあい、同調同化する為の前戯でもああるのだ。
「解」
剣士としての封印は解かれた。これで、最強の兵法家をむかえうつ準備はととのった。
「市村、よくみとけ。ほんものの強さとはなにか、をな」
土方は、原田からやっとのことで解放された市村に、呟くようにいった。
自身のことのように気分が高揚し、緊張してもいた。無意識のうちに、道場の隅に端座する。信江が、自然な動作で並んで座した。
永倉や斎藤もまた、興奮した表情で並んで座す。
柳生同士、しかも当世最強といっても過言でない二人の兵法家のぶつかりあいである。だれもが自身のことのように緊張し、同時にぞくぞくするものを感じていた。
厳蕃と少年は、互いに得物を佩いた。おなじ刀匠がつくりし、銘違いの刀であるだ。
互いに礼をする。緊張をはらんだ道場内の空気は、いまにも壊れそうだ。だが、その緊張は、この歴史的一試合を固唾を呑んでみ守っている見物人だけのものである。
対峙する兵法家たちは、すでに戦闘態勢にはいっている。
気をどのようでもあつかえる兵法家たちは、それをうまく操りながら互いに様子をみ、牽制しあう。そして、相手が仕掛けるのをまつ。さらには、相手から仕掛けさせるようこころみる。
二人とも、後の先を得意とすることを、二十数年まえの立ち合いでわかっている。
柄頭が極端に前半の位置にあることを、見物人たちは気がついていた。しかも、双方ともにだ。とくに永倉と斎藤は、二人の意図をはかりかねていた。
「柳生新陰流は、そのほとんどが他流派とは異なります」
信江がひかえめにいった。
女子いえども.柳生に生まれたら幼少の時分より皺文皮撓(蟇肌撓、ひきはだしない)を握る。それは、柳生独特の特殊な竹刀である。練習の際には、防具として鹿革の籠手をもちいる。それらで打ち合い、防御を学ぶ。
その鍛錬の厳しさと量は、ほかとは比較にならないという。
先程の厳蕃の抜き打ちは、かなりのはやさであった。だが、いま抜かれた一撃も、文字通り瞬きする間に抜き打ち、鞘に納まった。
柳生新陰流抜刀術。
前半の位置から鞘をうしろに引き、同時に抜く。速さだけではない。右掌一本で抜かれた太刀は、相手を両断するだけの鋭さと破壊力を備えている。
まずは互いに挨拶か・・・。
厳蕃は少年の頸を、少年は厳藩の左手首を、それぞれ狙った抜刀。
それだけで、互いに相手がどれだけ腕を上げたかを把握した。
厳蕃は左脚を引き、「村正」を抜き放って上段に構えた。たいする少年は、「千子」を抜くことなく両の掌は自身の両太腿の位置に添えている。
ためるわけでもなく、気負うわけでもない。
厳蕃は、上段から刃を振り下ろした。それは、示現流のように勢いや力量感があるわけではない。軽く振り下ろした程度にしかみえぬ。それを少年は、わずかに体をひらいてかわしただけのようにみえたが、実際には厳蕃の振り下ろした後の振りかぶった左手首の位置を狙って抜刀し、鞘に納めていた。厳蕃のほうは、それをほんのわずか手首をひいてかわし、鞘に納めようとする少年の右手首を狙い、一刀両断の技を放った。互いに先の先の先、という具合に、何手も先をよんで攻撃を仕掛けてゆく。
その攻防は、二人の舞手が剣舞をしているかのようだ。
刃どうしをあてないことも、この流派の特徴である。
活人剣たる所以であろう。
無駄な動きはいっさいない。相手の攻撃を刃で防ぐのではなく、わずかに体を開いてかわすのだ。同時に、攻撃を仕掛ける。
剣や槍では刃でもって相手を両断し、無手の場合では相手を確実に体術で仕留める。
ゆえに、この流派では体術も重きをなす。
暗殺者でもある兵法家たちは、気合の声も発しない。動きに音もない。いまや気も発する必要もないので、道場内は無音、気配もない。
見物人たちの吐息や感嘆の声だけが、時折するだけである。
真剣でありながら、まったくそうと感じさせぬ兵法家たちの技。
見物人たちは、もはや流派の違いなど関係なく、その違いすぎる技量にただただ圧倒されるばかりだ。
「二人とも笑ってる・・・」
市村が呟いた。
厳蕃も少年も、剣を振りながら相貌には汗一つ浮かんでいない。そのかわり、双方ともそこに笑みが浮かんでいる。
「愉しそう・・・」
信江も呟いた。
昔、少年が自身の兄と立ち合ったときのことを思いだした。
まだ十歳だった信江も、尾張柳生邸の道場でおこなわれる立ち合いを、見学することを許されたのである。
兄厳蕃は、すでに異例の皆伝を授けられていた。
腕が立ちすぎるがゆえに、練習相手に不自由していたのである。
その兄が、ずっと年少の幼子を相手に苦戦していた。しかし、そのわりにはとても嬉しそうだった。それは幼子も同様で、両者はうれしそうに刃をまじえていた。
そのときの光景は、いまでもはっきりと瞼
に残っている。
いまとおなじように。
「うれしいのですね・・・」
信江は、実の兄と実の甥に心中で語りかけた。
二人は、体躯のおおきさの違いはあれ、おなじだ。
おなじ血と精神と業を受け継ぎ、懸命に護りつづけている柳生の漢たち・・・。
幼かったころ、いつも肩車をして尾張の領内をあるきながら、昔の剣豪の話をしてくれた自慢の兄。
いつも添い寝をしてくれたり、ときには剣や体術の基本を丁寧におしえてくれた美しくやさしい年齢のはなれた姉。
その姉の子は、やさしく、強い。
ときは流れても、柳生の漢たちの根底はかわらない。
眼前の二人の姿が、青年といまよりさらに幼い童子にみえた。
まるであのときのままのように・・・。
(忠景様、あなたの弟弟子たちですよ・・・)
信江は、道場の奥にある神棚に向かって語りかけた。
忠景は喜んでいるだろう。自身が殺したと思っていた童子が生きていただけではなく、奇縁とはいえあらわれてくれたのだ。
時期や場所は違えど、疋田景康を師とし学んだ三人・・・。
ほかの者が相手だったら、真剣で立ち合うなどまずありえぬ。だが、辰巳にだけは安心して「村正」を遣える。
徳川家に災厄をもたらす呪われし妖剣と語り合い、本来の力を存分に発揮させることができる相手は、もはやこの辰巳しかいないであろう。
二十数年前と違うのは、技量にかなりの差ができたことだ。年齢のせいにはしたくない。たしかに自身は年老いた。そして、辰巳はある理由から子どものままだ。だが、年齢差によるものだけではない。あきらかに鍛錬の質量、実戦経験の差、そして根本的な精神のあり方が異なる。
辰巳は、護るべきものや背負っているものがおおい。それらが、かれを強くしている。それらがあるかぎり、成長は今後もつづく。
ゆえに、なんとしてでも生かしてやりたかった。だれがなんといおうと。
否、姉の子、甥だからか?姉は、やさしく強かった。道場ではいい先輩であったし、道場以外では家族想いのやさしい姉であった。
その姉の子は、姉にそっくりだ。容姿だけでなく、性質も。
その子は、生まれてきたことじたいを否定された。母だけでなく、人としての尊厳を奪われた。苛酷な環境で育ち、さらに苛烈で劣悪な状況下で鍛えられた。地獄のなかですごし、いまもそこで生きている。
左の瞳が金色だった、というだけで。
その子は、死を選んだ。
どういう経緯があったかはしらぬが、土方という漢とその仲間たちの為、この日の本の為、すべての贖罪の為に。
それを覆すことは、もはや土方にすらできぬであろう。
わたしになどできるわけもない・・・。
誠に、馬鹿で頑固な子だ。
手加減していることはわかっている。昔の立ち合いも、師に力をおさえるよういいつかっていたはずだ。
まさか尾張柳生の後継者であり兄弟子であるわたしを、高弟たちがみているまえで一方的に打ちのめすわけにはいかぬであったろうから。
それでも、予想以上の腕をわたしがもっていたのか、最初の二、三撃で驚きの表情を浮かべた。
それにしても、かように愉しいのはあのとき以来だ。このひとときを味わえたのだ、柳生の兵法家であることに心から感謝せねばならぬてあろう。
おなじ柳生に好敵手をいただいたことにも。
会いにきて誠によかった。これが今生の別れとなるであろう。
辰巳は、否、甥は真の柳生の漢。最強の兵法家である。
「村正」もよろこんでいる。「千子」と競い合えて。
「村正」よ、許せ。遣い手の技量が劣る所為で、「千子」には打ち勝てぬようだ。
(辰巳、やはりお主にはかなわぬ)
厳蕃は、心中で語りかけた。
すぐにそうとよんだのか、少年の相貌に生真面目な表情が浮かぶ。
(よいか、土方を護り抜け。けっして死なせるな。それまで死ぬことは許さぬ。土方と新撰組を、いまから起こるであろうくだらぬ戦から、なにがあっても護り抜くのだ)
「村正」をひき、一息入れる。
辰巳の心中はよめなぬ。
(信江を、二度と悲しませないでやってほしい。以後、土方はお主にとって誠の叔父となる。お主の生命とひきかえに、叔父叔母にささやかでも平穏であたたかい幸せをあたえてやってくれ)
気がつくと、すぐ懐に入りこまれていた。
「千子」の切っ先が、自身の喉元一寸の位置にある。
ちょうど見物人たちに背を向けており、ちいさな辰巳は厳蕃の体躯で見物人たちからはみえぬ。
刹那、「千子」は鞘に納まっていた。厳蕃がはっとするまでもなく、辰巳は片方の掌で厳蕃の「村正」を握る右手首を、もう片方の掌でその着物の袷を掴み、そのまま道場の床へと軽く投げ飛ばした。
(叔父上、委細承知仕りました。どうかご安心を。叔父上にあらせましても、これからは柳生の兵法家としてのみ、すごされますよう。それが、わがままな甥から叔父上への、ささやかな願いでございます)
厳蕃は道場の床の上で、天井と甥の隻眼をみながら心中に語りかけられた。
やはりお主は、馬鹿で頑固でやさしすぎる柳生の漢だ・・・。
厳蕃は、姉が殺されたときかされて以来、はじめて泣きたくなった。




