悲哀
永倉の機嫌は、朝からずっと悪い。
正確にいえば、前夜、自身の家に帰宅し、可愛い娘を抱きしめてからである。
巡察中、ずっとそのことばかりかんがえていた。ずっとそれが脳裏に、心中に、こびりついたままわすれられない。
屯所に戻ってからは、平隊士たちに稽古をつけた。その稽古は、いつにもまして苛烈であった。組長のはげしい稽古に慣れているはずの二番組の猛者たちでさえ、道場のまえを通りかかった原田や斎藤に、弱音を吐いた。
だが、吐かれた相手もまた、永倉と同様に機嫌が悪かったのである。
「斎藤、木刀をとれ」
永倉が、道場のなかから怒鳴った。
それは、かなり強引な誘いだ。
永倉の手下たちは、斎藤がどう応じるのかと興味津々である。
ことわるであろう。斎藤先生なら・・・。
だが、その期待は裏切られた。斎藤は、無言で道場のうちにはいってくると、練習用の重い木刀を無言のままむんずと掴む。
それから、永倉に面をしかける。
「ちっ!みきらいでか」
永倉は半歩左斜めうしろへ下がると、斎藤の面を摺り上げ、逆に面をしかける。
二人の激しい打ちあいがはじまった。
それは、けっして他者の介入を許さない、殺気に満ちたものである。
二番組の隊士たちは、道場の引き戸にもたれかかって腕組みしている原田に、おろおろしながら懇願した。
二人のただならぬ様子に、なにかあったにちがいないと、かれらは察知しているのだ。
「ほっとけ。あの二人なら怪我することはない。つかれりゃやめるだろうよ」
「しかし、原田先生・・・」
「どうかしたのか?」
そのとき、二番組の伍長を務める島田が、その巨体を揺すりながらあらわれた。こんな体躯でも、島田の動きは素早く、剣も重いわりには素早い技を遣う。
「伍長、あれを・・・」
隊士にいわれるまでもない。島田は、すでに永倉と斎藤の気を感じていた。
そして、二人ががむしゃらに打ちあっているわけも・・・。
「がむしん、とはよくいったものですな」
島田は、大きな相貌におおきな笑顔を浮かべた。
島田は、新撰組に入隊するまえ、江戸で永倉としばらく道場で修業したことがある。その縁で、永倉が新撰組に誘ってくれた。
その当時から、永倉は「がむしゃらな新八」をちぢめた「がむしん」という二つ名で呼ばれていた。
「伍長、なにを呑気なことを・・・」
本来ならば、とめにはいるべき伍長の呑気な返事に、隊士たちはなかば呆れ返ったようである。
永倉と斎藤は、陽が暮れるまで相手を叩きのめそうと木刀を振りつづけた。
それはすでに、剣術などではない。怒りのはけ口を、どうしてよいかわからぬ無力感を、ぶつけあっている原始的な動作にほかならぬ。
二人は、道場の冷たい床の上に同時に倒れた。
まだ新しいそれは、天井の材木もきれいである。
木刀は側に転がり、二人はただ天井をみつめ、大の字になったまま息を整えた。
かんがえている内容はおなじである。否、その二人をみ下ろしている原田も含め。
すでに隊士たちの姿はなく、島田もだれかに呼ばれたのかいなくなっていた。
いまここには、あの夜のことをみききした三人だけである。
「納得いかねぇ」
突然、永倉が叫んだ。
不評だった髭を伸ばすことは、ついにあきらめた。
いま、永倉の相貌を覆っているのは無精髭だ。
その髭面のなかで、おおきな双眸でじっと天井をみつめる。おもむろに、左の掌を自身の左側の瞳にそえた。
おれにはかようなことをする度胸はない、と閉じた左の瞼を撫でながら、心底思う。
「なんであいつが死ななきゃならん?だれか説明してくれよ」
永倉は、長年ともにやってきた二人の仲間に懇願した。
「家にかえって磯子を抱きしめたら、どうしてもあいつのことをかんがえちまう」
磯子とは、永倉の愛娘の名だ。
「柳生の御曹司が、片目の色が違うってだけで、なにゆえ過酷な人生を強要される?」
「御家の事情ってもんがあるんだろうよ。剣の名門、しかも将軍家の剣術指南役だ。験担ぎか伝承みたいなもんがあるに違いない」
原田は、二人をみ下ろしながら応じた。
「どいつもこいつもあいつを利用するだけ利用し、挙句のはてには死ねってか?」
「ふんっ!新八、おまえだってその力にあやかってるんだぞ。おれたちが、どれだけあいつに助けられてるか、おまえ、わかってるか?」
応じた原田の声音が、微妙にふるえを帯びている。
永倉も斎藤も、それに気がついたがなにもいわなかった。
なぜなら、二人もまた油断したら泣いてしまいそうだから・・・。
「近藤さんは、あいつをこのまま新撰組に置いとくつもりなのか?いっそどこかにかくまうか、逃がしゃいいんだ。くだらん争いに、律儀に付きあう義理はねぇ。なあ、そうであろう?義理は充分はたしてるはずだ。だれも文句はいわぬ。否、おれたちがいわせぬ。つぎは、おれたちがあいつを護る番だ。なぁ、そうであろう?」
「やはり、あんたは単純馬鹿だな」
斎藤は、むくりと起き上がる。いまだ仰向けのままの永倉を、そういってから笑う。だが、その表情は、泣き笑いになっている。
「あいつが、かようなことにのると思うか?あいつの覚悟は、おれたちが思っているような薄っぺらなものではない。下手をすれば、邪魔するおれたちが殺られかねん。あいつは、そういうやつだ」
「なら、土方さんは?土方さんの命なら、あいつもきくであろう?なぁ、左之?土方さんは、なにゆえ掌を打たぬ?あいつのことを、あれほど可愛がってるくせに・・・。よしっ直談判だ、それがいい」
さすがは「がむしん」である。いったんこうときめたら、前後左右などみ向きもせず、がむしゃらにつきすすむのみだ。
永倉は、反動をつけて飛び起き、そのまま道場をでてゆこうとした。
と、そこに秘密の特訓でもするつもりなのか、市村や泰助たちが相馬と野村に連れられて、道場に入ってきた。
例の拉致事件以降、相馬と野村が子どもらの秘密の特訓に付きあってやっている。
「あ、先生方」
子どもらは笑顔をさっとひっこめ、道場の入り口で一斉に姿勢を正した。
あいつは、この子どもらより幼い・・・。
永倉たちは、少年は成長が止まっているという概念はない。童だと認識している。
「あいつは、副長の命でもききやしない。否、すでにおそい。一番辛いのがだれか?悔しい想いをしているのはだれか?よくかんがえてみるといい・・・」
斎藤は、立ち上がりながら着物の乱れを直した。
鍛練中の道着と袴姿の永倉と違い、斎藤はそもそも道場のまえを通りかかっただけだ。着物に袴姿であった。
原田は、その斎藤の肩を軽く叩いた。
そこには、いたわりと同調の念がいやというほどこもっている。
土方とその二振りの懐刀・・・。遣い手とおなじく、刃もまた苦しんでいる。
原田には、それがよくわかっている。
「先生方、どうかされたのですか?局長と副長も、あまりご気分がすぐれぬようでしたが・・・」
相馬が、三人の様子がおかしいことについて控えめに訊ねた。
「副長なんて、いつも以上に眉間に皺寄せてたもんな」
市村の元気のいい言に、三人はつい苦笑してしまう。
市村は、あきらかに少年とは正反対の性質である。
「すまぬ。練習するのであろう?おれたちはもうすんだ。すぐにでてゆく」
「いえ、斎藤先生・・・」
礼儀正しい相馬は恐縮した。その横で、これもやはり相馬とは正反対の性質の野村は、幹部三人がなにを話していたのか、興味津々のていである。
「つぎの試合は、ぜったいに勝ってみせます」
「ああ、そうだな市村」
永倉は、つぎがあったらなと苦笑する。
「そういえば、おまえ、坊の頭を木刀でぶちのめしたんだって?井上先生からきいたぞ」
「へ?ええ、ああ、まぁ・・・」
市村は、叱責されると思ったのであろう。しどろもどろだ。ほかの子どもたちは、そのことをしらなかったのであろう。驚きの表情で市村をみている。
「心配すんな、市村。おまえは充分強えよ。なんせこの世で最強の漢から、面を奪ったんだから・・・」
「・・・?」
市村は、永倉の言の意味を解せずきょとんとしている。
三人は、それをみて笑った。
そう、世界ひろしといえど、あいつの頭をぶっ叩けるのはおめぇくらいだよ、市村。あいつもきっと、そう思ってるさ・・・。
永倉は、目尻から涙がこぼれ落ちそうになったのを自覚し、とっさに落ちている木刀を拾ってそれをごまかした。
だが、長年ともにすごしてきた原田と斎藤にはばれたであろう。否、絶対に気づかれたはずである。
少年は、疋田家のちいさな道場の中央に端座している。
早朝、身をきるような寒さは、精神に活を入れてくれる。
少年は、道着と袴、それに素足という格好である。
その膝頭から拳一つあけたところに、なんの拵えもない鞘に納められた「千子」が横たわっている。
少年は、傷の療養の為疋田家にあずけられていた。
だが、少年は、その日中のほとんどを道場ですごしている。そして夜間は、こっそり抜けだし新撰組の騎馬である「風神」と「雷神」、朱雀を供に連れ、北山へと通う。
きたるべき戦いに向け、一心不乱に自らを鍛える為に。
信江の息子がまだ生きていた時分に使っていた部屋であろう。その部屋に敷かれた布団は、いつも冷たいままである。
少年は、他者に寝姿をけっしてみせぬ。暗殺者の習性にくわえ、睡眠をけずって鍛錬するからである。
左の瞳の傷は、近藤の依頼をうけ往診してくれた、会津藩お抱えの医師高倉を驚かせ、ついで激怒させた。
その医師は、松本法眼に師事したことがあり、いまは沖田も診ている名医である。
少年は、高倉に頭部を包帯でぐるぐる巻きにされ、絶対安静をいいつかった。
そのはずである。
トリカブトは、少年に後遺症を残した。
わずかではあるが、左側の半身に痺れがある。脳をやられたのである。
少年は、それを医師にすら悟られぬよう隠した。
ようは戦いにさしつかえなければいい。
障害を克服する為、過酷な鍛錬を自身に課す。
「千子」をまえにし、少年は残った右の瞳を閉じている。
左半面は、包帯を巻いたままである。
一時以上、このままである。
気を発する。それは、少年自身のものとは別種の気だ。
刹那、道場の入り口で気配があった。その気配は、はっきりと息を呑んだ。そして、かすかに「忠景様・・・」という驚愕の声音が・・・。
「わたしは、刃をまじえた相手の業を真似できるだけでなく、その相手の気を真似ることもできます」
少年は、無事なほうの瞳をとじたまま、振り返ることもせず告げた。
その気配は、少年のまうしろ、間合いをおかさぬ位置に座したようだ。
「あなたはいったいなに者なのです、信江殿?」
少年は、いまだ瞳をとじたままである。すでにさきほどの気はなくなっている。
疋田忠景の気は・・・。
土方の想い人は、少年の問いに無言である。
口唇から言の葉をだすのを逡巡しているのであろうが、少年は、すでにその心中をよんでいる。
「新撰組の兄貴分たちから、いつも「男子たるもの女子は護らねばならぬ。男は、女子を護る為に存在する」、といいきかされています」
かすかに笑いを含んだ言であある。
信江には、それが永倉と原田のものであることがすぐにわかった。
信江は、土方からかれ自身の仲間たちの話しをそれだけきかされているのである。
「わたしもまだまだ未熟なようです。あなたのことをみ抜けなかったとは・・・」
他者の心中をいつもよむわけではないとはいえ、信江のことはまったくよめなかった。迂闊以上のなにものでもない。
「ご子息は、病で亡くなったのですね?」
確認しておきたいことである。
しばしの間をおき、信江が話しはじめた。
「生まれつき体が弱く、さほど生きられぬことはわかっていました。それでもあきらめきれず、尾張に助けを求めたのです。ですが、尾張公のお抱え医師にもどうすることもできず・・・。疋田は、当然の報いだと。疋田家が俊厳様、あなたにした仕打ちにたいする報いだ、といつも申しておりました」
少年は、信江に本名を呼ばれ瞼をひらけた。
それは、戒名として与えられたものである。
「尾張で息子は死にました。疋田は、そのまま江戸に向かいました。あなたのことを、御公儀に訴えるためです。そして、事故に遭いました・・・」
それについては、疋田忠景の愛刀「千子」が語ってくれた。そして、宴で会った生家の家老たちの心中もまた、それについてはっきりと応えてくれた。
息子の死をきっかけに、疋田は昔の生家の騒動を将軍家に訴えようとしたのである。それをいちはやく察知した生家は、なんの躊躇もなく疋田をだまし討ちした。
「あなたのご子息のご冥福を、あらためてお祈り申し上げます。無論、忠景殿のことも。ですが、わたしにたいする仕打ち、というのは違います・・・。あなたは、わたしのことをすべてきかれたのですか?」
少年は、正面の神棚をみつめたまま訊いた。
背後で頷く気配があった。
「わたしの主は、あなたのことを心から想っています。わたしを燻りだす為に、新撰組の副長にちかづいたのですか?」
「違います」
信江は、即座にいった。
「偶然だったのです。あなたのことも、土方様から話しをきいただけではまったく気がつきませんでした」
真実である。信江の心中は、そういっている。
あの雨の夜、ほとんど成長しておらぬ少年をみ、気がついた。そして、尾張を呼びよせた。
少年には、あのときとはすっかりかわってしまっている信江がわかるはずもない。
だから女子は苦手だ。これほどまでに美しくなっているとは・・・。
「俊厳様、あなたは母上様のことをご存知ですか?」
唐突に訊かれ、少年のちいさな両の肩がぴくりと動いた。
「母上・・・?」
かような言の葉は、生まれてはじめてきいたかのように困惑の響きがある。
「あなたは、母上の胎内から生まれいでてすぐ、左の瞳の色が金色の光を宿していたことで、一度も、たった一度も母上の腕に抱かれることなくひきはなされ、疋田景康様によって蝦夷に連れてゆかれました。そして、口封じの為、あなたをとりあげた産婆や小者たちは殺されました。無論、あなたの母上も・・・」
そこで信江は言をきった。
それは、少年自身の心身を斬ったも同様の効果を与えた。
なぜなら、少年にはつづく言がわかっているのだから。
「殺されました。すべて柳生俊章の命によるものです。そして、あなたの母上を殺したのが、忠景です」
柳生俊章は、柳生藩第十代藩主である。当然ながら将軍家の剣術指南役である。
少年の実の父である。
少年は困惑し、混乱した。
道場の外に複数の気を感じたが、いまはかようなことはどうでもよい。
「わたしが生まれてきた所為で、母は殺されねばならなかった・・・。それだけではない。わたしにかかわった者すべてが・・・」
口唇からしぼりだされた。
信江は、心中で驚きを隠せないでいる。
「わたしを生んだ所為で」、というのがたいていの反応であろう。
そのとき、少年は低い笑声をあげた。自身を嘲笑うかのようなそれは、だれの耳朶にもじつに痛々しくきこえた。
「そもそも母上という存在じたい、わたしにはまったくなかった。はっ!わたしは自身のことばかりで、わたしを生んでくれた母のことなどこれっぽっちもかんがえなかった不孝者です」
嘲笑がつづく。
「わたしは、三つの歳まで蝦夷で狼たちに育てられました。それから、アイヌの人々に。狼たちは、わたしに生き抜く術を叩きこんでくれました。アイヌの人々は、生きる工夫を教えてくれました。三つのとき、禁を破って神の領域をあらした松前藩士二十数名を、わたしは殺したのです。この掌で、一人残らず・・・」
少年は、自身の両の掌をみつめた。
刺し貫かれた傷は、まだ癒えてはおらぬ。そして、左側にはわずかな痺れがある。
「その後、疋田景康がわたしを連れにきました。わたしの師が・・・」
三十年位前のことである。少年の脳裏には、そのときの地獄絵図がいまだはっきりと描かれている。
松前藩士たちは、未開の地に潤沢にあるすべてのものを欲した。それは、神が蝦夷の地に生きるすべてのものにあたえし糧である。
それをおかすことは、何人たりとも許されぬ。
掟をしらなかった、というわけではない。人間の業だ。すなわち、欲という名の悪業である。
聖域ですべてを貪り尽くそうとした二十数名の武士たち・・・。
狼神に育てられた 神の子は、襲いかかってきた藩士の大刀を奪いとると、その藩士を頭頂部から真一文字に両断した。
それは、はじめて握る人間の武器・・・。武士の生命たる刀・・・。
幼児は、自身よりもおおきいその刃を、まるで木の枝でも振るうかのように軽々とあつかった。
その刃は、二十数名の体躯を魂とともに切断した。
死の意味すら解さぬ、たった三つの幼児・・・。獣の言の葉と、アイヌの言の葉しかしらぬ幼き童・・・。
江戸でその出来事をきいた疋田が仰天し、蝦夷へ発ったのも当然のことであろう。
金色の隻眼をもって生まれし妖・・・。
「呪われし赤子を掌にかければ、呪いがふりかかるは必定。それ相応の地に、捧げてしまえ」
俊章から疋田へ下された命である。ゆえに疋田は、まだ未開の地であった蝦夷に、その生まれたばかりの子を捨てた。
その子は、蝦夷の過酷な環境下にあって生きながらえた。それだけでなく、その数年後には大勢の武士を斬り殺した。
脅威、などというには生易しい。まさしく悪鬼か妖怪の類の所業としかいいようがない。
そう、その子はまさしく妖であった・・・。




