幼帝
「大事ないか、辰巳?」
「御方、この神聖なる御所の静謐を乱したばかりか、穢れた血で染めしこと、万死にあたいいたしまする。どうか、お許しくださいますよう」
いまだ四肢は痺れが残り、意識は靄がかかっている。
紫宸殿の床下に、あらかじめ大量の水を用意をしておいた。
毒入りの酒を呑んだ後、床下に潜り込み、水を呑んでは吐きだした。体内の毒を洗い流すために。
だが、岩倉が用意させたトリカブトの毒は、普通の人間であれば摂取したわずかな間にその生命を奪うほどの量であった。
毒に耐性のある少年ですら、ぎりぎりのところであった。
少年は、清涼殿の床下で幼帝に挨拶をしていた。
「なにを申すか?いまはだれもおらぬ。姿をみせてくれぬか?素晴らしい舞の礼を、直接申したい」
「ありがたき御言葉。辰巳、それだけで充分でございます。いまのわたしは、御方に弓をひきし朝敵、手負いの餓狼・・・。辰巳は、御方と父帝様にいただきました分不相応な御恩情をけっしてわすれませぬ。御方、どうか御健やかに御すごし下さい。そして、父帝におとらぬ立派な帝にならせませ。どこにおりましても、辰巳は御方の御多幸と御健康を心より御祈り申し上げております」
床下の土は血で染まっている。いかなる光も届かぬ闇のなか、無事なほうの瞳ははっきりとそれがみえている。
いまだ痺れの残る掌で、土を散らす。
穢れきった妖の血・・・。
少年は、幼帝がなにかを仰るよりもはやく、床下から消えた。
「辰巳・・・。朕はただ、友の笑顔をみたかっただけなのだ・・・」
幼帝はひろい寝所の御簾のなか、敷かれた布団の上に端座されている。
孤独感・・・。
これだけは、いつまで経っても慣れることができぬ。そして、このさきもけっして慣れることはできぬであろう。
辰巳の舞いは、わずかでも勇気を与えてくれた。
孤独といいなりにたいする勇気を・・・。
失神寸前の岩倉が、紫宸殿から運ばれた後でも、いまだそこに残っている者がいる。
そそくさと退散した者がほとんどだったが。
「尾張公、否、兄上、あなたですね、辰巳を焚きつけたのは?」
「殿、おやめください」
平素は冷静で温厚な会津候が、実兄である尾張藩主に噛みついている。
その二人の実弟である桑名藩主と、会津藩の家老の田中土佐が慌ててひきとめようとした。が、会津候はそれらの掌を払いのけ、尾張藩主の胸倉を掴んだ。
秀麗なまでの相貌は、いまや真っ赤になっている。それぞれの藩の家老にくわえ、永倉と斎藤、原田も駆けつけた。
かような状況のなか、斎藤もまた会津候のその剣幕に、驚きを隠せないようだ。
かような会津候は、はじめてみる・・・。
一方の尾張公は、されるがままである。目顔で自身の家老たちにさがるように合図を送る。それに気がついた田中も、同僚たちとともに去った。
田中は、ある程度の事情をしっている。だが、もはや家老ごときが深入りできる問題ではない。そのことも充分承知している。
「そうだ、会津。わたしは、辰巳に死ねと命じた」
会津候は、掌を放すと一歩後退した。否、衝撃でよろめいたといったほうがいいであろう。
慶喜は、座したままほかの客のものだった杯を、つぎからつぎへとあけている。伊庭がその側でそれをとめるべきかどうか迷っている。
そして、慶喜の剣術指南役だった者たちもまた、居心地悪そうに立ちすくんでいる。
新撰組も同様である。事情をまったくわからぬ。その為、困惑し、混乱している。
「なにゆえ、なにゆえかような馬鹿なことを・・・」
位階など関係ない。一人の人間としての叫びである。
「なんの権利があって、かようなことができるのです、兄上?」
「権利だと?かようなものは必要ない。すべては、おまえと定敬、馬鹿な弟たちの為だ。それがわからぬのか?」
二人の弟は、同時に息を呑んだ。
尾張公の両方の拳は、握り締められ真っ白になっている。
弟に叫び返した後、噛みしめた口唇から血が一筋流れ落ちた。
それは、尾張公にとって苦渋の選択であり決断であった。
「尾張だけが責められることではないぞ、会津。余も、辰巳におなじことを命じたからな」
何杯目かの杯を上げた後、慶喜が口をはさんだ。
尾張にだけ悪役を演じさせるつもりはない。慶喜は笑顔で、こともなげにいい放つよう努力した。
「辰巳に、くそったれの徳川家と幕府、それに仕えるおおくの家臣どもの為に、犠牲になってくれと命じた。どうやら、江戸にいる幕臣もおなじことに気がついたらしい。余のために死んでくれ、と言伝させた。これだけ死ねよ果てよといわれれば、死ぬ以外に道はない。のう、尾張?」
慶喜の軽口は、すくなくともそうきこえるような努力がにじみでている。
「上様、たった一人が、辰巳だけが死ねばいいという問題でもありますまい・・・」
会津候の声音は震えをおびている。
「会津候、そうなるようわたくしも努力いたしました。どうかお鎮まり下さい」
そのとき、庭の方から当の本人が軽やかにやってきた。
相貌は、血にまみれている。その動きは、平素とわずかに違っている。
慶喜は、つぎなる杯に掌を伸ばしかけたが、中途でとめた。
毒入りの酒を呑みほしたのだ。その毒の影響がでているのか・・・。
「ご無礼の数々、ひらにご容赦下さいませ」
少年は、大人たちのまえで律儀に端座し、叩頭しながら詫びた。
「馬鹿を申すな、辰巳。将軍職を返還したのだ。近衛大将軍の地位が、事実上、この日の本で最高位。堂々としておれ」
「かようなもの、たかだか散位にすぎませぬ。金子や奉物でも買える官位でございしょう?」
少年は面を上げ、苦笑した。
「はっ!」
慶喜は鼻で笑った。
尊皇攘夷など関係なく、平和な世であったとしても、金子で征夷大将軍と同等の地位など、欲する者などいったいどこにいようか?
「たしかに」
少年はその心中をよみ、ちいさな肩をすくめて同意した。
それから、ふと思いだしたかのように側にたたずむ自身の生家の者たちへと視線を向ける。
「疋田親子を闇討ちしたのは、どなたですか?」
その問いに、土方が反応した。
だが、問われた側は無言のままである。
否、少年にとっては充分である。
なぜなら、それにかかわった牧野と坂巻、柳生藩の家老二人の心中をよむことができたからである。
「俊益殿、家と流派をお護りなさい。それが当主としてのつとめ。柳生の庄に戻り、そこでおとなしく鍛錬し、後世に業を繋いで下さい。今後、どこかで出会うことでもあれば、そのときには容赦はいたしませぬ。活人剣の真髄を、いやというほど味わうことになるでしょう。その生命をもって・・・」 少年の視線が、俊益から家老たちへとうつる。
「お二人も、よろしいですな?妖退治など、必要ありませぬ。あのときの命、この辰巳、かならずやはたします。さぁ、おゆきなさい。わたしの気がかわらぬうちに・・・」
家老二人は、相貌をあわせて頷きあい、当主の裃の裾をひっぱった。
将軍家剣術指南役だった俊益とその家老たちは、礼をするのももどかしく、紫宸殿から去った。
「岩倉は単純です。大勢のまえで謀を露見され、無様な姿をさらされたことで、このわたしに必要以上に恨みをいだいております」
そうなるように仕向けたのである。
岩倉は、少年の策にまんまとのせられた。
「開戦は、避けられませぬ。なぜなら、連中にはそれが必要だからです。そして、一旦戦端がひらかれれば、われわれに勝ち目はない」
「いまさら指摘されるまでもないな、辰巳。わかっておる。すべての責はおぬしにある。おぬしの頸一つで、余らは切腹も斬首も免れる、というわけであろう?」
慶喜がにがりきった表情でいった。
ここから飛びだし、岩倉を斬り捨てたい。そうして、すべての元凶を断ちきってやりたい。
かような子どもじみた衝動に襲われる。
無力すぎる・・・。
「ですが、われわれもただやられるわけには参りませぬ。その為に、新撰組がおります」
少年は抜け目ない。新撰組を、唯一の心のよりどころを、自身の居場所を、そして、主と近藤を、立てることをわすれはしない。
「そうですぞ、上様」
近藤は、少年のその意を察した。一歩まえにでて端座し、面を下げた。土方たちもそれにならう。
「新撰組は、どこまでも上様をお護りいたします」
「あぁそうだな、そのとおりだ。頼むぞ」
「承知いたしました」
「それにしても、岩倉の顔をみたか、え?」
慶喜は、上機嫌に話しをしはじめた。
土方は、少年にちかづいた。
「なにしてる、かえるぞ。忙しくなる、えっそうだろう、坊?」
「副長・・・」
少年は、自然な動作で土方の足許に片膝をついた。
「無茶しやがって・・・」
土方もまた、片膝をついて少年と視線を合わせる。
「おれの先祖も、おなじ瞳をもっていました」
「柳生十兵衞三厳だな?」
「さすがは斎藤先生、そのとおりです。じつは、先祖も幼少の時分に、自身でその瞳を潰したのです。そうですよね、厳蕃殿?」
厳蕃は、無言で頷いた。それから、口をひらきかけたが、なにゆえかそれは中途でとまった。
少年は、尾張柳生家の前当主の心中をよもうとした。だが、かなわなかった。
厳蕃は、柳生の歴代の剣士のなかでも尾張柳生の開祖利厳(またの名を兵庫助)に、匹敵するほどの兵法家である。否、宗祖石周斎以上やもしれぬ。
その心中をよむのは容易ではない。
敵ではない、はずだ・・・。
少年は、そうそうにあきらめた。
「どうせあっても役になどたたぬ瞳です」
「どういう意味だ?」
少年は、頸をかしげた土方に、いたずらっぽい笑みで応じた。
「あれが力の象徴?笑えますよ。みえてなかったのですから。生まれつき、左の瞳はみえていなかったのです」
「なんてこった・・・」
原田が口中で呟いた。
少年には、左眼の死角、などという概念はないのだろう。
「さぁゆくぞ、みながまってる。今度こそ、医者に診せなきゃならぬであろう、えっ坊よ?」
少年は、近藤の言に拒絶を示した。
少年は、医師の類が苦手なのだ。
その様子をみ、全員がふきだした。
「おぶってやるぞ、坊。あぁ肩車がいいか?それとも、たかいたかいか?」
「いやいや、しっかりと抱きしめてやるぞ。このおれの見事な胸でな」
「やめておけ。ちいさな坊が、潰れてしまうではないか」
原田、永倉、斎藤が、少年をたたせてやりながらからかう。
少年は、その兄貴分たちの気持ちが嬉しかった。
自身を妖あつかいせず、正体をしってもかわりなく、これまでとおなじように接してくれる。
「いやですね、まったく。ちいさな子どもでじゃないと、いつもいってるでしょう?」
少年の抗議に、ますます笑う大人たち。
「おめぇら、馬鹿ばかりいってんじゃねぇっ。さっさとひきあげるぞっ!」
土方の鶴の一声だ。
颯爽とひきあげてゆく、新撰組の漢たち。
厳蕃はその背をみ送りながら、片付けておかねばならぬ問題のことをかんがえていた。




