龍虎昇駆
「おめぇが手を下すことはねぇ。だが、やつにはしっかりと屈辱と恐怖を味あわせてやれ」
主からそう命令されていた。殺らなくていいことについては複雑な気持ちだ。
仇を討ちたい。それがせめてもの供養になるのなら・・・。だが、主の命令である。
一瞬にして絶たれる命、刹那の恐怖・・・。
そんなものとは比較にならぬほどのものを脳裏に、そして精神にしっかりと刻み込ませてやろう。それが主の命であり、故人となった者たちへのせめてもの手向けであろう。
少年は、千鳥足で歩をすすめる伊東のすぐ左後ろをあるきながら、その背をみつめた。
慶応三年(1867年)十一月十八日、この夜、伊東は近藤の妾宅に呼ばれた。
その三日前の十五日、伊東のほうから近藤・土方両名を祇園に招いて接待した。その席で、伊東は資金援助を求めたのだ。この夜の近藤の招待は、接待の返礼及び資金提供を兼ねていた。
少年が薩摩藩邸で大久保を脅したことが逆に、かれに過剰な警戒と脅威を与えたに違いない。
その計画実行の刻限にあわせ、大久保は伊東をつかい、少年を実行場所から遠ざけたのである。
後世「近江屋事件」としてしられることとなる、坂本龍馬暗殺事件。
少年の行動は裏目にでた。
「近江屋」にいる坂本のもとから辞した後、少年はずっと落ち着かなかった。その夜、それがおこなわれることを特異な力で感知したからだ。
祇園の料亭で近藤・土方と呑みながら談笑している伊東に、「土方と同じ部屋にいたくない」と耳打ちし、部屋からでた。その直後、少年は料亭の庭から飛びだした。白き狼の姿で。
大久保の配下が、料亭を見張っている。見張りの連中は、料亭の飼い犬が夜の京の通りに飛びだした、ぐらいにしか考えぬであろう。
家屋の屋根を駆けに駆けた。ちかづくにつれ、血と憎悪の臭気がきつくなってゆく。
祇園から「近江屋」まで、巨獣の脚でわずかな距離だ。が、すべてが遅かった
白狼が「近江屋」の二階の窓からそのうちへと飛び込みみたものは、頭巾をかぶった複数の刺客たちだ。全員が抜き身を振り翳し、その体躯は血と体液にまみれていた。
坂本は風邪が悪化し、蔵から母屋の二階へとうつっていた。
坂本は、床にうつ伏せに倒れていた。そして、中岡もまたおなじように床にうつ伏せに倒れていた。
中岡の体躯は血にまみれている。呻いている。両掌にはしっかりと自身の得物が握り締められていた。
坂本自慢の拳銃は、坂本のいる位置からかなりはなれた部屋の入り口ちかくに落ちていた。かれの愛刀は、鞘から抜きはなたれることなく、大きな体躯のすぐ左隣に落ちている。その下げ緒は、坂本自身の血で真っ赤に染まっていた。
中岡もまた、得物を鞘から抜き放つ間もなく斬り捨てられたようだ。左掌は鞘を、右掌は柄をそれぞれしっかりと握っている。
白狼が事態を把握するわずかな間に、刺客はまだ生きている中岡にとどめをさそうと、白刃を振り上げた。
白き狼は、四、五間離れた位置から跳躍した。中岡めがけて振り下ろされた白刃を、その大きな口を開けてうまく銜えた。それをそのままぶんと振り、遣い手ごと放り投げる。二振り目三振り目の白刃も、おなじように銜えては放り投げていった。
「もうよい、もうよい」
この一団のまとめ役らしき者が頭巾のうちで怒鳴った。
くぐもったその声は、静寂満ちる凄惨な光景のなか、やけに大きく響いた。
刺客たちは、駆け去っていった。
「おんし・・・」
少年は、童の姿にもどると坂本を助け起こそうとした。
頭頂部から一刀のもとに斬り下げられている。すぐ傍に落ちている坂本の刀の柄は、そうとわかるほど太刀筋がつき、半ば破損している。
刺客と気づき、すぐさま刀を引き寄せ鞘から抜こうとしたところを、斬りかかられたのだ。それを柄でうけとめようとし、うけきれずに頭部に白刃が入ったのだ。
少年は、坂本の大きな体躯を仰向けにすると両の肩を抱いて助け起こした。
大量の血に混じり、脳漿が流れでていた。これはもう、自身たちでもどうしようもない。たとえその生命が助かったとしても、重度の障害が残ってしまう。
中岡は呻きつづけている。こちらもかなり危険な状態だ。少年は、右掌を伸ばすと中岡を仰向けの姿勢にかえてやった。
「坂本先生、申し訳ありません・・・」
少年は、自身が駆けつけるのが間に合わなかったこと、この襲撃を喰い止めることができなかったことを、死にゆく相手に心から詫びた。
坂本のがっしりとした肩を抱く少年のちいさな両掌には、力がこもっていた。
ここでもまた、自身の不甲斐なさを感じる。
「慎太は?生きちょるか?」
この期に及び、坂本は自身よりも友のことを案じている。
「大丈夫です先生、無事ですよ」
少年は嘘をついた。
「坊・・・。わしはいかんぜよ・・・。脳をやられちょる・・・」
少年の腕のうちで、坂本は弱々しく笑った。
「坊、慎太を頼むき・・・」
少年が返事をしようと口唇を開きかけると、坂本はその少年の胸元を血まみれの右掌で掴んだ。
すごい力だ。少年のちいさな相貌が坂本の口許までちかづくと、坂本は囁き声でつづけた。
「おんしは死ぬな坊、おんしは死んじゃいかんぜよ・・・」
少年は、坂本の血と脳漿とにまみれた頬を右掌でやさしく撫でた。
言の葉など必要ない。坂本は、少年がこの国の為に少年自身の力をつかうことよりも、少年が少年らしく生きてゆくことを、さらには主や新撰組の仲間たちと、平和で差別のない世のなかで、笑って生きてゆくことを、ただ純粋に願った。
坂本自身が夢をみ、構想を練り実行に奔走し、ついに実現にこぎつけた争いのない平等な世の中・・・。
「承知、努力しますよ先生・・・」
少年もまた囁いた。
坂本は、もはや視覚や聴覚のほとんどが失われているだろう。少年は、坂本の耳朶に口唇をちかづけると自身の誠の名を告げた。
それは、皮肉にも少年の実父が実子である少年に戒名として与えた諱だ。
嘘と演技に塗り固められた自身の人生。せめて尊敬する坂本には、自身の真実の片鱗だけでも伝えたかった。
「やはりおんしは・・・。土方君もきっと・・・」
最後のほうは、ききとることもその心中をよむこともできなかった。
その双眸から光が消えた後、「近江屋」の二階の窓から白き狼が飛びだし駆け去った。
その大きな背に、中岡を背負って。
この夜、坂本龍馬は暗殺された。小者の藤吉も斬り殺された。
白狼によって土佐藩邸に担ぎ込まれた中岡は、二日の間死線を彷徨った後に死んだ。
中岡の証言、現場に残された刺客のものと思われる刀の鞘などから、刺客の正体は新撰組である、と元新撰組の参謀であった伊東が証言した。
刺客の一人が「こなくそ」、という伊予なまりをつかったことにくわえ、現場に遺された刀の鞘がある新撰組隊士のものだという。
伊予出身の原田のものと・・・。
もっとも、捏造は容易にできる。事実、かような虚飾は、坂本・中岡暗殺を知らされた海援隊や陸援隊の隊士たちが、怒り沸騰したほんのわずかな間に脳裏をよぎったくらいだ。どこのだれもが信じやしない。
その兇刃をまのあたりにした白き狼は、実行犯の正体をしっている。無論、その黒幕も。
大久保の密告で、見廻組が襲撃したのだ。連中は十津川郷士と名乗り、藤吉に坂本へ取り次いでもらった。十津川郷士の幾人かと面識のあった坂本は、それらをてばなしで歓待しようとした。そこへ刺客たちがなだれこんだのだ。
剣をよく遣う坂本、中岡の両名が、自身の得物を抜いていなかった、あるいは抜けなかった理由がそれである。
自作の歌に節をつけ、それを口ずさみながら伊東は千鳥足であゆむ。
篠原や実弟の鈴木は、ついてゆくと幾度もいったが伊東は取り合わなかった。
この日、早朝から腹心の内海は阿部十郎を連れ、薩摩藩からまわしてもらったゲベール銃の性能をたしかめるために丹波方面に鷹狩りにいって不在であった。
近藤は、金子をわたした後、一時以上かけて伊東に酒を呑ませた。その間、伊東は国事について持論をぶちつづけた。さしもの伊東も月真院にかえるころにはまっすぐあるけなかった。
その性癖や性質はともかく、北辰一刀流免許皆伝、一道場の主が跡取りにと認めるだけの剣の腕前である。酒を多少すぎたところで、暗殺を決行する大石には荷が重いだろう。
土方は、このときなにかを予見したのだろう、少年に伊東を斬らせなかった。
後日、伊東暗殺の嫌疑で大石は斬首される。
この件についてはまったく関係のなかった相馬主計もまた、箱館戦争後に伊東暗殺の嫌疑をかけられ、伊豆に流されることとなる。もっとも、こちらはかくたるものがあってのことではない。新撰組の最後の局長として処罰する為の口実にすぎなかったのであろうが・・・。
初冬を過ぎ、京には本格的な冬の息吹が感じられつつある。空には満月が煌々と地を照らし、足許を照らす灯火も必要ない。
すでに人々が寝静まっているこの刻限、通りに人影はなく、家々の灯りもなく、静寂だけが支配していた。
伊東の声音はきれいで、口唇からもれでる唄はとてもうまい。
つぎの角を折れれば、じきに本光寺の石段がみえてくる。そこが襲撃場所だ。
少年は、すでに複数の殺気を感じていた。
実行犯たちは、少年のことをよくしらされていない。少年のことは、土方の甥で伊東を襲撃地点までおびきだす役、ぐらいにしかしらぬはずだ。
いましかない・・・。
「伊東先生、もう我慢できませぬ」
うしろから甘えた声で囁いた。
「おやおや、月真院まで我慢できないのかい?」
伊東は、なにを勘違いしたのか唄と歩を同時に止め、通りの中央で満面の笑みを浮かべてうしろを振り返った。
刹那、伊東の体躯になにかがぶつかった。その衝撃に耐えきれず、そのままうしろに倒れ込む。
「ひっ・・・」
声にもならぬ呻きが、官能的な口唇からもれでる。
新撰組にはじめてやってきた日に襲ってきた、あの毛むくじゃらの獣が自身の上にのっていた。四本の脚で、地面にしっかりとおさえつけている。
そうとみとめたとき、その獣が消え去った。だが、頭部も体躯も万力のようにおさえ込まれたままだ。微動だにせぬ頭部。瞳だけを動かすと、それまで体躯の上にいたはずの獣にかわり、自身の寵愛する小姓の美しい相貌が、月明かりに照らしだされていた。
真に美しい・・・。
伊東は、凍えた地にすさまじいまでの力でおさえつけられているにもかかわらず、美しいものを愛でることを怠らぬのだ。
「伊東・・・」
少年は、伊東の華奢な体躯の上に馬にりになり、その美しくてそそる相貌をちかづけた。その声音は、先ほどとはまったく違い、冷たく凄みのあるものだ。
酒気は急速に抜けた。そのかわりに、いいようのえぬ恐怖が伊東の心身を侵し、同時に支配した。酒で温まっていた体躯は、いまでは怖ろしさの為に冷えきっている。自身の上にのっている少年を、突き飛ばすどころか指一本すら動かすことができぬ。
伊東は、少年について大久保からなにもきかされていない。もっとも、きかされていたとしても信じないだろうが。
「あなたは格が違いすぎる。土方にも坂本にも近藤にも遠く及ばぬ。近藤の好意を踏み躙り、同門の先輩である坂本をうりつけ、あなたはいったいなにをしたいのか?なにができるのか?地獄でとくとかんがえるがよろしかろう・・・」
冷たく低い声音が伊東の耳朶をなめる。
伊東は、まるで金縛りにでもあったかのように、身動きはおろか口唇すら開くこともできぬ。人生で生まれてはじめてあじわう恐怖と絶望・・・。そして、それが人生最期でもあることも直感的に感じた。
瞳は月をみていた。すべての感覚が、気温の所為ではないものにより麻痺している。
美しき妖・・・。
伊東は、自身の小姓だったものを心中でそう表現した。
あたらずとも遠からず、だ。
哀れな獲物をみ下ろしながら、その獲物自身が愛してやまなかったものは、不敵な笑みを浮かべた。
そのとき、自身をおさえつけていた万力のような力が嘘のようになくなった。
少年の姿は消え失せていた。
酔いの為ではなく、心身にくわえられた衝撃により、ふらつきながらもなんとか立ち上がった。それから、右に左にふらつきながらあゆみはじめた。
呑みすぎた。どうやら悪酔いしたようだ。はやく月真院にもどり、この不快な酔いをさましたい。
伊東は、ついいましがたあったことを否定した。否、したかった。
ふらつきながらも角を曲がり、確実に月真院に向かってあゆむ。右側には、み慣れた本光寺の石段。左側には家が立ち並んでいる。
油小路と呼ばれるその地域は、伊東の暗殺とその後につづく新撰組と御陵衛士たちとの死闘で、京でも有名な地となる。
複数の小さな寺と商家や民家が立ち並ぶ、なんの変哲もない小路の一つ。
なんとか歩をすすめていた伊東の周囲に、複数の殺気が起こった。察知したのと頭巾をかぶった数名の刺客に取り囲まれたのが同時である。
刺客たちの構える白刃は、月光を吸収しきらきらと光っている。それは、獲物の血を求める獣の爪牙を錯覚させた。
伊東は、愛刀の「濃州住志津三郎兼氏」をすばやく抜き放った。 実よりもみてくれを重視する伊東らしく、拵えは過度に装飾が施され、刀身は細身で流麗なるものだ。
刺客たちがつくりだす包囲網が、獲物を確実に追い詰めてゆく。
大石率いる暗殺者らもまた、三人一組を基本としている。この夜は二組で仕掛けた。
大石の兇暴極まりない殺気は、そのまま太刀筋に通じる。上段からの真っ向斬りを、伊東はわずかに体を開いてかわした。精神的打撃で、まともに得物を構えられぬ伊東ではあるが、免許皆伝は伊達ではない。斬撃をかわすと、得物を右から左へ払う。
刃金どうしがぶつかる音が、静まりかえった油小路に大きく響く。
一刀目を簡単に薙ぎ払われた大石につづき、第二、第三の刃が伊東に襲い掛かる。これでは、さすがの免許皆伝も防ぎようがない。二組目の第二刀までは無我夢中で「兼氏」を振りまわし防御できたが、第三刀目、槍遣いの繰りだす突抜けが、とうとう伊東の左脇腹を刺し貫いた。その衝撃で、伊東は後ろへよろめいた。その機を逃さず、大石らは文字通り伊東を膾にした。
伊東は、それでもまだ死ななかった。血まみれになり地に這い蹲りながら、本光寺の石段を這い登りきって小さな門を潜ろうとした。
その門のすぐ傍に門派石が立っている。数本の桜の木の間にあり、数段ある石段の下からは死角になっていてみえぬ位置だ。
伊東は、地を這いながら血でほとんどみえぬ双眸を門派石へ向けた。そこに、自身が寵愛した小姓がいた。門派石にもたれかかり、右脚をぶらぶらさせている。それはまるで、まち人をまちかねているかのような、のどかな気配すら感じさせる。
二人の視線が絡み合う。うしろから、刺客たちの無言の狂気が肉薄してくる。
「奸賊ばらめがっ!」
伊東は叫んだ。その相手は、元小姓だったのか、それとも刺客たちだったのか・・・。
伊東は最期の力を振り絞り、刺客の一人の腕を斬り裂いた。だが、そこまでであった。
伊東は、振り下ろされる六本の白刃の間から門派石に瞳を向けた。
そこには、なにものも存在せぬ。
あれは、最期にいま一度みたいと願った錯覚だったのか?
意識が深みに落ちてゆくなか、伊東はそう感じた。
伊東甲子太郎、享年三十三歳。油小路、本光寺の門前にて殺害される。
この暗殺が、後世「油小路事件」と呼ばれるようになるながい夜の幕開けである。




