南海の龍虎
坂本の捕縛を禁ずる通達は、大政奉還前からでていた。
それにもかかわらず、その通達は各所にゆきとどかなかった。
坂本の行方は、それがだされるまえと同様見廻組などが躍起になって探っていた。
坂本は、かねてからの宿であった「酢屋」をひきはらい、「近江屋」という醤油屋にうつった。
後藤は、土佐藩邸にうつるよう再三にわたって勧めた。だが、坂本は窮屈なことが大嫌いである。それを笑ってことわりつづけた。
伊東がそこを探りあてたのは、誠に偶然であった。
腹心の篠原や内海も探索していたが、まったくつかめない。
焦燥のなか、伊東は少年を連れ、京でも有名な甘党の店を訪れた。そのかえりみちのことであった。うどん屋からでてきた坂本とでくわしたのだ。
朝晩と日中の気温差、これまでのつかれなど、さまざまな要因が重なり、坂本はそのしばらくまえから風邪をひいていた。
醤油屋の蔵は心底冷える。坂本は、熱っぽくてだるい体躯を温める為、海援隊と名をかえたその隊員幾名かと、うどんを食べにでたのだ。
さっそく、伊東は同門の絆を利用した。それから、大久保からの忠告をそれとなく伝え、隠れ家をききだした。
坂本は、伊東の側に控える少年のことはしらぬふりをした。そして、少年がひそかに送る合図を理解はしたが、それもやはりみぬふりをした。
伊東はあきらかに胡散臭い。
坂本は、ついにきたるべきものがきた、と思った。
自身の構想を、薩摩や長州、そして岩倉ら朝廷、さらには幕府、だれもが気に入っていない。
そのことを、坂本自身が一番よくわかっている。
「しょうまっこと気をつけやー。薩摩や長州はおんしを殺すかもしれんきね」
「近江屋」を訪ねるたびに、陸援隊をたばねる中岡慎太郎が坂本に忠告した。
もっとも、その忠告がなくとも、心中のどこかで覚悟してはいた。それでも、いの一番に薩摩が刺客の名のりを上げるとは、残念でならない。
(西郷さんがそれを命じたがやろか・・・)
もはや伊東の話しなど、両の耳朶を通り抜けるどころか入りすらせぬ。それどころか、どうでもよかった。
同門の先輩にたいする有難くもなんともないおべんちゃらにみ送られ、坂本は伊東とわかれた。
再会を約して・・・。
坂本は、隠れ家へと戻った。
そして伊東は、その脚で薩摩藩邸の大久保のもとへと向かった。
同門の先輩をうりつける為に・・・。
「近江屋」は、河原町通りにある。裏は寺である。主人の新助が、隠れ家として蔵を工夫してくれた。
その蔵の窓からは、墓場とたくさんの柿の木がみえる。
変事があれば窓から吊り梯子を下ろし、裏の寺から逃げる算段をしている。
この日も「近江屋」に、海援隊の隊員幾人かと中岡が訪れていた。
坂本は風邪の所為で熱っぽく、大きな体躯に掛け布団を巻きつけていた。
元力士の藤吉という小者が、全員に出前の蕎麦を配った。
「藤吉、一杯追加しとおせ」
蕎麦の鉢を両の大きな掌で抱え込み、かけ蕎麦をすすっている坂本がいった。
鼻水が滴り落ちている。
「なんなが?食欲はあるのやき?」
中岡が呆れたようにいった。根っからの攘夷志士である中岡は、当然のごとく土佐勤王党に属していた。
陸援隊は、長州の奇兵隊を参考にしてつくりあげた。
中岡は、がっしりとした体躯、すらっとした相貌、目鼻立ちはじつに整っている。勇猛果敢、生真面目な性質で、攘夷への思い入れはだれにも負けぬ情熱家だ。
「わしじゃーないが、客人やか」
その言で、坂本をのぞく全員がそのときはじめてこの場にいるべきではない部外者が蔵の唯一の窓の桟に腰掛けていることに気がついた。
「なんと、長崎で会った童だ」
坂本の死後、海援隊を率いることとなる陸奥が叫んだ。
小さな童は、窓からふわりと飛び降り、大人たちにぺこりと頭を下げた。
「慎太、おんしゃーにも紹介しとくぜよ・・・」
坂本がいいおえぬうちに、中岡がぴしゃりと遮った。
「この童のことはしっちゅうが。だれもがその力を欲しがっちゅうことも・・・」
海援隊の隊員たちは、のびきってしまうまえに食べてしまおうと蕎麦をひたすらすすっている。
「やめやー。この童にゃいろいろ世話になったがやか。味方じゃーないがかもしれんきねが敵でもないがやか」
坂本は、苦笑しながら親友をたしなめる。
「坂本先生、どうかお構いなく。すぐにお暇します。中岡先生、わたしは佐藤龍と申します。かようなところから失礼いたします」
少年は、蔵の窓を振り返ると小さな肩をすくめた。
「龍馬、この童がなんちゃーちやかおんしゃぁしっちゅうかえ?この童は、まっことあぶない刺客なんぜよ」
中岡は、一人興奮している。
そして、海援隊の隊員たちは、あいかわらず蕎麦をすすりつづけている。
「慎太、やめとおせ。こがなちいさな童に、なにをほがーにむきになっちゅうがかぇ。凄腕の刺客ということは、わしもしっちゅうがよ。けんどこの童は、わしらぁ海援隊にとっては生活の糧を与えてくれた恩人なきす。そのことは、まえにおんしゃーに話しをしちゅうよね、慎太?」
蕎麦を食べおえた坂本は、滴り落ちる鼻水を自身の着物の袖で拭いながら親友を諌めた。
「ほれ、せっかくの蕎麦がのびてしまうじゃーないがなが。はよぅ食べやー、慎太」
坂本は、そういいながらまだ蕎麦を食べている隊員たちの間を、器用に膝立ちで縫いすすんで少年にちかづいた。
口中でなにごとかを呟きながら、中岡はふたたび蕎麦をすする。
この蔵は、隠れ家として改造するまえは醤油樽の保存場所であった。年季の入った木造の蔵には、醤油のにおいが染み込んでいる。
「きてくれると思っちゅうよ、坊?伊東の忠告は、わしも真剣にうけとめちゅうが。わしは、落ち着いたら長崎に置いてきちゅうお龍を連れ、船旅するつもりにしちゅうがやき、こがなげに死ぬわけにゃいきやーせん。心配は要りやーせんよ」
蔵での潜伏生活は、坂本にとってはなにもかもが苦しい。
それはまさしく、自由を奪われた獣もおなじことだ。
坂本には夢がある。個人的な・・・。
大政奉還がなった現在、ようやっと実現に向け、その一歩をふみだそうとしている。
この国から飛びだし、世界を船でまわるのだ。できれば、商いをしながら。
妻のお龍、同行してもいいという気の合う仲間たちとともに。
それはどんなに愉しく、また刺激的だろう。
身を潜めながら、坂本の精神は大海原へ、そして世界へとくりだしている。
青い海、照りつける太陽、吹き抜ける潮風、心地いい波の音。順風満帆ばかりではないだろうが、なんとかなる。否、なんとかする自信はある。
「それは愉しそうですね、先生」
少年は、遠い瞳をして語る坂本に、やわらかい笑みを浮かべていった。
その様子を、蕎麦を食べおわった中岡が意外そうな面持ちで観察している。
噂とはずいぶん違うようだ、と中岡は心中で思った。そのとき、少年が中岡をみた。二人の視線が絡み合う。
「ろくな噂ではないでしょうね、中岡先生?」
中岡は、土佐藩の上士どもはもとより、薩摩や長州、幕府の要人や公卿といった一癖も二癖もある連中を、かれなりに手玉に取ったり取られたりしながら堂々とわたりあってきた。他人の心のなかを的確に読むことはできないし、それができる者とこれまでおめにかかったこともない。
(噂以上の童じゃったがうやか。さまざまな連中が、喉から手がでるばあ欲しがるわけやき・・・)
中岡は、このまだ幼い童の得体のしれぬ力に心底戦慄した。
「坂本先生、事態は先生が思ってらっしゃる以上に深刻です。隠れ家をかえ、どうかくれぐれも油断されませぬよう・・・」
少年は、坂本の大きな相貌に、美しいまでのそれをちかづけ囁いた。
「新撰組も、事をなすときが迫っておりますゆえ、おれの行動も制限されております。お仲間以外は、傍にけっしてちかづけませぬよう・・・」
つまり、新撰組内部の抗争が本格化するということだろう。
伊東ら御陵衛士打倒という・・・。
坂本は、先日伊東とすこし話しをしただけで、この同門の後輩は土方には敵わない、と確信した。
そもそも、土方の甥、といっても坂本ですらいまではそれが嘘であることをわかっているのだが、その美童を自身の性欲の為にちかづけたというところで、すでに負けているのだ。しかも、まったくそうと気がついてはいない。誠に悠長で愚かなことだ。
しかし、その愚か者にうられた自身はどうなのだろうか?もしかすると、目的をなした達成感が潜在意識にあり、すべてをおわらせてもいいと心のどこかで思っているのだろうか?
「世に生を得るは事を成すにあり」
自身は事をなした。たとえこの後、どこかの暗殺者がやってきて自身を殺したとしても、それは天命であり、そうなる運命なのだ。
それに逆らうことなどできぬだろう。
「奪われるのは理不尽以外のなにものでもありませぬ。それは神が定め給うものではなく、あくまでも奪う者の身勝手です」
つねに奪う側の少年が囁いた。ちいさくて分厚い右掌が、坂本のひろい額にそっと添えられた。
それはとても冷たく、風邪で熱のある身にはたいそう心地よく感じられた。
「まっことありがとう、坊。おんしが案じてくれたやがは心から感謝するがで」
坂本は、にんまり笑いながら少年のみじかく刈り揃えた頭を撫でてやった。少年もおなじように笑みを浮かべて応じる。
それで充分であった。その一瞬のやりとりで、二人は理解し合えた。
少年の掌が坂本の額から離れたとき、少年は消え去っていた。
「藤吉、今夜は軍鶏鍋が食べたいやか。峰吉に軍鶏を買いにいかせとおせ」
峰吉は、中岡の潜伏先の子どもである。坂本や藤吉にすっかり懐いてしまい、しょっちゅうやってきては話し込んだり、相撲を教えてもらっている。
「なんなが、龍馬?やっぱり食欲ばあはあるじゃーないがなが」
中岡は、呆れ返った様子で親友の肩を大きな掌でばしんと叩いた。
坂本は、その叩かれた肩を擦りながら久方ぶりに大きな声で笑った。
「今夜、おんしも食べにくるとえいろう。ご馳走しちゃるよ」
「おうっ、おんしにいわれるまでもないがで。ご馳走になるがでよ。腹こちやと食っちゃるがでよ」
まさかこの約束が歴史的事件に直結するとは、この場にいるだれが予測したであろう。
笑い声はしばらくつづいた。
坂本は、心の底から笑った。




