大政奉還
会津中将にたのむと、そのおなじ日の夜半には希望がかなった。
二条城の将軍の寝所に忍びこめるものなど、そうそうおらぬ。たった一人をのぞいては・・・。
「よい、わたしがたのんだのだ。畏まらずとも、もっとちかくによってくれ、辰巳」
第十五代将軍徳川慶喜は、おおきな布団の上に寝巻き姿で胡坐をかき、訪問者を迎えた。
訪問者は、寝具の側に置かれた燭台の灯りの届かぬ暗がりに、ひっそりと控えていた。
「上様、ご無礼お許し下さい」
少年は、叩頭したままだ。たとえ当人が希望しているとはいえ、将軍の寝所に忍びこむなど不敬以外のなにものでもない。
「辰巳、幾度もいわせるな。わたしが堅苦しいことを好まぬことは、そちも存じておろう」
将軍の仰りようは主とおなじだ・・・。
少年は、そう思うと苦笑した。
いいつけどおり、灯りのうちへと膝行する。
「面を上げてくれ。話しがしづらい」
少年は、相貌を上げた。
慶喜は、家茂の病床で会ったときより痩せたようだ。精悍で整った相貌には、さまざまな心労がはっきりと刻み込まれている。
「時間がもったいない。辰巳、そちの忌憚のない意見をききたい。わたしは、この糞ったれの位をかえすべきや否か?」
坂本がおしすすめる大政奉還は、いまや土佐藩自体をも動かしている。
坂本、および土佐の家老の後藤、その双方が幕府の大目付永井尚志などに再三働きかけている。
それは、将軍自身を混乱のきわみにおとしいれることとなった。
拒否すれば、薩長連合軍に開戦の口実を与えることとなる。一方で、会津候ら反対派諸侯のいい分も理解できる。
すなわち、「返上しようがすまいが、やつらはほかの口実をみつけ、結果的には戦になる」というのだ。
慶喜自身、昼夜を問わずこのことについてずいぶんと悩んだ。
個人的には、「将軍の位などどうにでもなれ!くれてやる」、という気持ちだ。
だが、まがりなりにも征夷大将軍という地位にあって、かような童じみた気持ちが通用するわけもない。
徳川の禄を食むおおくの家臣のゆくすえ、それ以上に、おおくの民草の生活や安堵・・・。
覚悟はしていたつもりだ。だが、それもどうやら足りなかったようだ。
「おそれながら・・・」
少年は、ふたたび叩頭するとつづけた。
「上様のお気持ちは、決っしているかとおみうけいたします」
「はっ!さすがだ、辰巳。そうだ、余が今宵そちを呼んだのは、余の尻を引っ叩いて欲しかっただけだ」
「上様」
少年は、慶喜と視線を合わせた。
自棄ぎみだった慶喜は、少年のいたわりのこめられた視線と表情をみ、不意に胸が熱くなった。
「ご英断でございます。しかし、上様の御本懐を理解できぬ者もおります。その連中は、まずは上様や会津候など、幕府の主だった方々を・・・」
少年は、小さくて分厚い掌で自身の頸を斬る仕種をした。
「もしくは、難癖や難題をつけ、開戦にこぎつけるか・・・。あるいはその両方をやってのけるか・・・」
両の肩を竦め、最悪の筋書きを淡々と挙げ連ねてゆく。
「ならば、どうすればよいのだ?その連中を、片っ端からおぬしが殺してまわるわけにもゆくまい」
「御意。かようなことをしても、第二、第三の連中にとってかわるだけのこと。きりがありませぬ。それどころか、暗殺そのものが連中にとってはいい開戦の材料となりえましょう。それだけでなく、お味方の説得も厄介なことかと」
慶喜は、心底嫌になってきた。なにもかもが。いっそのことここから逃げだし、身分も名もすべて捨て、どこかみしらぬ土地でなにもかも忘れ、生きてゆけたら・・・。
「上様・・・」
少年の思い詰めたような声音が、現実逃避しつつある慶喜の心をこの場へと引き戻した。
そのとき、慶喜は、少年の両瞳の奥になにか切羽詰った決意の光を垣間みたような気がした。
それが錯覚ではなかったことを、後日、実感することとなる。
慶喜は、この夜少年と語り合ったことを終生忘れなかった。
なぜなら、この夜、自身が少年に死という名の印籠をかざす結果となったのだから・・・。
慶応三年(1867年)十月十四日、幕府はその統治権を朝廷に返上した。
世にいう大政奉還がなされた。




