過去の一端
尊皇攘夷とは、その連中にとってはじつに都合のいい隠れ蓑だった。
たしかに、京に上って長州藩が京の都から追い払われるまで、その連中もほかのおおくの攘夷志士たちとともに、それぞれの目的を達成する為に活動していた。
だが、あの日をさかいに、すべての歯車が狂ってしまった。
いまや連中は、「きたるべき攘夷実行の日」を目標に掲げ、光明や希望のないまま無為の日々をすごしている。
否、あらゆる世の情勢を憂いつつ、盗みやたかり、ときには殺傷といったあらゆる悪事を重ねていた。
その連中が、疋田信江の住まいのちかくの空き家を根城としていたのである。
隣家の不審火による焼死者につづき、さらにはそのちかくの崩れかけた無人の祠に住みついていた宿無しの漢が、その祠のまえで斬り殺された。すでに目明しらは、例の不逞浪士の一団に目をつけており、新撰組にも報告が入っていた。
副長土方は、監察方に命じて動向を探らせるとともに、各組に指示してその辺りのみまわりを強化した。
その夜、土方は信江に会いにゆく予定をしていたが、急遽大坂城から永井尚志がくるということで、近藤とともに接待をすることになった。
永井はもともと一橋派であり、先の家茂と慶喜の将軍職の争いの後、一旦役職などを罷免されていたが、慶喜の就任後に若年寄格に異動、同時に玄蕃頭に還任された。
交渉術に長け、外国や長州藩との折衝でその手腕を十分に発揮している。
この永井も、新撰組のよき理解者のひとりであった。
ちなみに、近代作家の三島由紀夫の父方の高祖父である。
土方は、自身がいけなくなったかわりに、自身の懐刀に様子をみにいくよう申し付けた。
どうも嫌な予感がしていたからだ。
「奥方、われわれはきたるべき攘夷決行の為、理解ある人々から資金を募っておる」
というのが、その夜もまたおしかけてきた浪士たちの主張だった。
このところ、その一団はしつこくやってきては具にもつかぬ戯言を並べ立て、居座った。
無論、それは疋田家だけではなく、このあたりの民家や商家すべてでまったくおなじ光景を拝むことができる。
しつこいだけでなく、脅しやいやがらせも当然のごとくあり、怖がって浪士たちの望みを叶えてやる家もあった。だが、そういう連中はえてしてそれだけではすまぬ蛭だ。またやってきては、さらなる要求を叩きつけるのだった。
人々は、仕返しを怖れて目明しに密告や訴えることもできないでいた。
「幾度もお断りしているはずです。あなた方にお渡しするものはなにもありませぬ」
そのようななかにあって、疋田信江はさすがに鬼の副長が惚れ込んだだけある。強面らの再三の不当要求も、毅然とした態度で拒否していた。
「ほー、奥方、いつもわれらのいいぶんをたいしてききもせずに突っぱねるが、女になにがわかる?ところで、主人はどうした?道場があるようだが、昼間きても姿をみぬな・・・」
総勢八名。疋田家の狭い玄関には入りきらず、手入れのゆき届いた玄関のまえで、ほとんどの者がなかの様子を伺っていた。
「きくまでもありませぬ。あなた方のされていることは、強請やたかりとおなじことではありませぬか?」
「なんだと?」
一団のなかで一番弁の立つ漢がかれら自身の主張を唱えているのだが、その漢が首謀者でもあった。
この漢は、肥後藩脱藩。自身で幕末四大人斬りの河上彦斎と、京で佐久間象山を惨殺したといっているが、それが真実でないことは、仲間のだれもがわかっていた。
玄関に入りきらない漢たちのなかから、下卑た笑声が上がった。
信江は、控えめにいっても美しい。落ちるところまで落ちた浪士たちにとって、武家の奥方を手篭めにすることなど、いまさらなんの躊躇いもない。
「うるさいばいっ!」
右頬に刀傷がある。首謀者は、大声で仲間に怒鳴ると、あらためて信江にいった。
「仲間がなにをしでかすかわからん。協力をしてくれるなら、すぐにでも暇させてもらうが・・・」
「それが強請、というのですよ」
信江は、玄関先に立つ漢たちを凛とみ上げ、きっぱりといった。
浪士たちに、侮辱されたという感覚よりかは雄としての感情が昂じた。
その独特の気は、信江にも感じられた。とっさに、頭のなかですべきことを思い浮かべる。
そのとき、廊下の奥から声がきこえ、それと同時に人影がちかづいてきた。
「母上、どうかされましたか?」
信江は、だれもいないはずの宅内に人がいたことに、驚いたとしてもそこはさすがに動揺の色ひとつみせることなく、相貌をわずかに背後に向けただけで答えた。
「どうもしません。あなたは奥にいらっしゃい」
信江は、その人影が土方の甥であることを瞬時に悟ったのである。
土方の甥は、ここにやってくるときはかならず庭か裏口からやってくることをしっているからだ。
「ほう、息子か?奥方に似て、ずいぶんきれいな息子だ」
顎に二本の指をあて、女と少年を交互にみながら首謀者が呟いた。たしかに、二人はどことなく似ている。
首謀者の批評に、そとからなかを覗き込んでいる漢たちも、程度の低い言辞で囃し立てた。
なりきで信江の息子を演じることとなった少年は、さして怯える様子もなく、むしろ武家の息子として堂々とした態度で、信江の左すぐ後ろに端座した。
「亡くなった父にかわり、道場を継ぐ為江戸で剣術修行をしております。かような時刻に大勢でなにようでしょうか?」
少年は、懸命に家と母親を護ろうとする健気な様子がうかがえるよう演じた。
「童、われわれは尊皇攘夷を遂行する為に資金をあつめておる。江戸で同門の先輩から、いろいろ教えられているであろう?」
首謀者は、頬の傷をみせつけながら恫喝した。これで童が震え上がるだろう、と踏んだのだ。そして、だめおしに童の母親に、傷をつけてやろうとでもいうように左の掌をのばした。
「触れるな!」
その声音は、先ほどまでのそれとはあきらかに質が違った。声がわりするまえの、独特の甲高いものではない。低く冷たいそれは、ある程度の力を所有する者ならば、たとえ漢であろうと女であろうと、肝を冷やすに充分な威力を秘めている。信江ですら、そのかわり様に息子に驚きの視線を向けたほどだ。
だが、もはや武士どころか人間としての矜持の欠片も残ってはいない漢どもに、かようなことが感じとれるはずもない。
「母上、じきに叔父上が様子をみに参ります」
ここにくるまでの間に異変を察知した少年は、土方にしらせるよう朱雀に命じていた。朱雀は、あまり得意でない夜空を、土方がいる島原へと向けて飛翔した。
主はもう間もなく駆けつけるであろう。好いた信江のためならば。
自身がいますべきことは、信江に危害をくわえようとしている連中の排除である。なぜなら、主から命じられているからだ。
少年は、浪士たちが鼻白んでいるのもお構いなしに立ち上がると、母親にちかよった。そして、その耳朶に囁いた。できるだけ優しい声音で。
「わたしがでてゆきましたら、叔父上がくるまでしっかりと戸締りをしておいて下さい。怖い思いをさせてしまいました。申し訳ありません。それから、あなたの息子を騙ったことも、あわせてお詫び申し上げます」
そして、信江が口を開くよりもはやく、にっこりと笑った。その笑みは、じつに子どもらしいものだ。
少年は、懐から自身の草履を取りだした。この夜は、沖田のお下がりの着物と袴だ。汚れても気にすることはない。
くるりと振り向くと、浪士たちに妖艶なまでの笑みをみせる。
「江戸でいろいろ習いましたよ、おっしゃるとおり。そのことを、あなた方に母に代わってお教え頂きましょう」
呆気にとられている浪士たちも、その言の葉で勘違いしたらしい。欲望を満たしてくれるなら、美童でもよかった。母親や金目のものは、とりあえずはその後でもいい。
浪士たちは少年の後を、喜び勇んでついていった。
それが地獄へとつづいていることをしらずに。
死者を冒涜するつもりはない。
死者が寝泊りしていた空き家のまえで、少年は手持ち無沙汰に佇んでいた。
土方、そして今宵の巡察当番である三番組の組長の斎藤にしらせにいった朱雀が戻ってきていて、少年の右肩で羽根を休めている。
大空の勇者は、夜はあまり得意ではない。
結局、ただの落ちぶれた悪党でしかなかった。
先日、土方をつけていたのも、新撰組に悪事を突き止められたのかと勘違いしたのだ。もっとも、その為に露見がはやまったのはいうまでもないが。
疋田家に戻るつもりはない。なにゆえ、あんな振る舞いをしてしまったのか、自身でもわからない。
自身の所為で死んでしまったかもしれない息子を騙るなど・・・。
信江の亡き夫の愛刀「千子」は、さまざまなことをみていて少年に語ってくれた。だが、疋田家の子息についてはあやふやだった。
なぜなら、江戸で死んだのではなかったからだ。
なにゆえ、江戸で死んだなどといったのか?
信江は、どうもおかしい。かのじょのことを感じられないときがある。そして、それ以上に信江からある種の感情をうけることがあった。けっして不快ではないそれは、好いた漢の甥にたいする以上のものだ。
いったいこれは・・・。
「千子」は、あのときに自身がうしなっていた記憶も、はっきりと呼びさましてくれた。否、記憶障害などではなかった。
精神が、現実を逃避する為にとざしたにすぎなかった。
二十年以上、現実逃避していたのかと思うと、驚愕よりも困惑、否、もはやお笑いぐさでしかない。
自身の精神は、完全に崩壊している。わかってはいたが、あらためて思いしらされると情けないかぎりだ。
感情は、もはやない。
山南や沖田のことも、御方や家茂のことも、どうとも感じない・・・。
朱雀が少年の頬に小さな頭をこすりつけてきた。
「大丈夫だ、朱雀。ありがとう」
少年は、夜空にひろがるを星々み上げた。
やはり、生まれてきてはいけなかった。生き残るべきではなかった。
呪われし子・・・。破滅と破壊を生む妖・・・。それが自身なのだ。
「妖めっ!」
あのとき、父が叫んだ声だけはとざされずに残っている。それは、二十年以上たった現在でも、自身の耳朶に、精神にしっかりと刻まれている。
そして、父の命もまた。あのとき、唯一仕損じた命。それを完遂できるのも、そうとおくはないはずだ。
しかし・・・。
複数の人の気配。三番組がやってきたのだ。
少年は、夜の闇に消えた。
「だれも得物を抜いていませんね。そんな暇もなく、全員が頸を折られていました・・・。あいかわらず、見事な手練です」
すべての片付けをおえた後、処理にあたった三番組の組長の斎藤が、疋田家に報告にやってきた。
今宵、副長は、屯所に戻らぬと思ったのだ。
疋田信江とはすでに面識はあったが、家に上がったのははじめてだ。
居間に通されるなり、斎藤はめずらしく歓喜の声を上げた。
「千子だ」
そして、酒を運んできた信江にみせて欲しいと頼んだ。信江は、いつものように笑って「どうぞ」と答えた。
どうやら、信江のほうは先ほどの後遺症は残ってはいないらしい。
少年の察知と、その後における処理のお蔭だろう。
刀好きの斎藤は、床の間の刀掛けから信江の亡き夫の形見の刀をもってくると、鞘から抜き放ち、嬉しそうに鑑定しはじめた。
だされた酒もそこそこに、まるで玩具を与えられた子どものような様子に、土方はおかしそうに笑った。
「そういえば、坊もこの刀をしっていたな。「千子」、と呟いていたがどうも様子がおかしかった。そんなにすごい刀なのか、それは?」
「「村正」、ですよ。徳川将軍家にとっては禁忌の代物。偶然でしょうが、「村正」のせいで徳川家に災難がふりかかることが有名になって以降、「村正」は「千子」と銘打つようになりました。それにしてもこれは・・・」
斎藤は、説明しながら土方に刻まれた銘を示した。
それにしても、こいつがまともに喋るのは、刀のことと剣術のことだけだ。
土方は、刀よりも自身の懐刀の横顔にみとれてしまった。
「かなり古いものですよ。「村正」だ。副長、みてください。よくみると、銘を打ち直している。おそらく、「村正」のままでは不都合があったに違いない。信江殿、この刀の由来をご存知でしょうか?」
「申し訳ありません、斎藤様。代々受け継がれているということしか。主人が江戸で亡くなった際に、同僚だった方がわざわざ届けて下さったんです。大切な形見となってしまいました」
「た、大変、失礼致しました・・・」
斎藤は、夢中になってつい配慮を忘れてしまった。
土方に睨まれ、そこではっとした。
「お気になさらないで下さい」
信江が微笑んでいうと、斎藤はほっと息を吐きだした。安堵したのだ。
「よく手入れされていますね。正直、ぞっとしますよ。「村正」の伝説の真偽はともかく、これはいい刀です」
斎藤は、刀身を鞘に納めるともとの場所に戻した。
その所作のひとつひとつに、敬意がこめられている。
「いいえ、あいにくわたしはみようみ真似でうまくできているのかどうかわかりませぬ。ですが、ちかごろは龍殿が手入れをして下さるんですよ。道場のほうで振っているのでしょうか?道場にしばらく籠もって、その後にお手入れをして下さいます」
酒をほとんど嗜まぬ土方ではあるが、この夜は斎藤に付き合いちびりちびりと呑んでいた。
「坊が?」
土方はその杯の掌を止めた。思わず斎藤と相貌をみ合わせてしまう。
「まぁ坊も刀には詳しいですから、この刀のことはよくわかっているのでしょうが・・・」
斎藤が呟いた。が、斎藤自身も合点がいっていないようだ。そして、土方も。
そもそも、ときどきここを訪れている、ということが意外だ。
まさか・・・。
土方と斎藤は、頭におなじ疑問が浮かんだ。
斎藤は、気を遣って早々に疋田家を辞した。その際、土方から三条の別宅に坊をこさせるようにとおおせつかった。
土方は、近藤や永倉たちとは違う意味で別宅を設けている。斎藤や少年、山崎など土方の息のかかった監察方や隊士たちと、密かに繋ぎを取る為だ。たった二間しかない小さな家である。
したがって、そこにはほとんどなにも置いていない。
ときどき、だれかが仮眠するぐらいなので、布団が一組と燭台が二つほど置いてあるだけである。
斎藤は、夜道を懐手であるいていた。
月のない、星明りのみの夜道。そのなかで斎藤の歩調は、いそぐでもなくゆっくりでもない。きっちりと髷を結い、麻の着物と袴姿は、どこからどうみても立派な武家の子弟にみえるだろう。
右腰の得物を除いては・・・。
ちかごろは、例の段だら羽織を着用をすることはない。池田屋事件以降、あの異常に目立つ羽織の所為で、新撰組に恨みをもつ者たちから格好のまとなってしまったからだ。
今宵も京の空には星々が満天に散らばっている。
この刻限、西本願寺までの道中で人に会うことはない。
西本願寺では宵っ張りで読経でもしているのか、いくつもの灯が、まるで死者の魂のように浮かんでいる。
斎藤もまた、これまでおおくの者を殺めてきた。敵も味方も。しばらくまえにはおなじ副長助勤の谷三十郎を、ここからさほどとおくない神社の石段の下で斬り捨てた。
谷の末弟が池田屋で醜態をさらした件で近藤との養子縁組が解消されてしまい、その立場が微妙なものになってしまった。
真ん中の万太郎は、早々に大坂に戻った。賢明な選択だ。だが、長兄は参謀の伊東に渡りをつけようとして失敗した。
伊東のほうも即座に不要と判断したのだ。
近藤や土方も、必要としていない。
酔っていた。否、たとえ酔っていなくとも、槍をもたぬ槍遣いを斬るのは造作ない。頭頂からの唐竹割りだ。
黒谷へは病死として届けた。末弟はまだいるがどうとでもなる。兄が殺されたことをしっていても、なにもできぬ臆病者だ。そのうち逃げだすかしくじるだろう。時間の問題だ。
まもなく、伊東が接触してくるはずだ。こちらも時間の問題である。
これまで自身ら「土方二刀」がおこなってきた裏の務めは、江戸の徴募で加入してきた大石鍬次郎が中心となって引き継ぐこととなる。大石は陰惨な殺人鬼だ。
暗殺者や人斬りといった類ではなく、自身の欲求を満たし、快楽を得る為だけに他者を殺める、ただの殺人狂だ。
かような狂人をつかう副長の意図がわからぬ。だが、それは自身が判断すべきでも考慮すべきことでもない。自身は、与えられる任務だけを確実にやり遂げればいいのだ。
坊は、この夜も伊東に抱かれていた。八名の屑共を屠った後に、伊東に抱かれてやったわけだ。
自身の気配を察知して庭にでてきた坊に、副長からの命令を伝えた。一瞬、自身が疋田家で感じた疑問を少年に質そうとしたが、すぐに思いなおした。
自身には関係のないことだ。これは、副長の個人的な問題であって、新撰組とは関係のないことなのだ。
ときどきするように、坊の頭を撫でようとして左の掌を伸ばしかけると、坊は即座にそれを拒んだ。
「あなたの利き掌が穢れます」
といって。
土方のもとに向かう為、あるき去ってゆく坊の小さな背が、星明かりに浮かんでいる。
それを、ただじっとみつめた。
これまで感じたことのない、なんともいえぬ感情・・・。
胸を騒がせ、苛立ってしまった。
斎藤が疋田家を辞すと、土方もしばらく信江と話をした。
話しながら、遅くなってはという気持ちと、浪士どもに脅され怖い思いをした後で、不安ではないのかという心配とのはざまで葛藤した。
結局は早々に辞すことにした。三条の別宅にもいかねばならぬ。
信江は、幾度も土方にいった。
「龍殿のお蔭でことなきをえました。龍殿にお怪我はなかったでしょうか?直接、お礼を申し上げたいので、ちかいうちに寄って下さいと申している」
と伝えてほしい、と。
坊は、どうやら信江の息子のふりをしてろくでなしどもをそとに誘いだしたらしかった。それはいい。
だが、幾度か疋田家を訪れては、信江の死んだ亭主の得物を密かに振っているらしい、というのが解せぬ。
坊の過去を、試衛館にあらわれる以前のことをほとんどしらぬことに、いまさらながら気付かされた。
なにゆえか、ずっと昔から、それこそ、かっちゃんとおなじように、餓鬼の時分から一緒にすごしているような気になっていた。
土方が三条の別宅の一間で、燭台の明かりをじっとみつめていると、裏からまちあわせの相手が入ってきた。
この別宅は、鰻の寝床のような京造りで、表から裏まで、細長くできている。
土方のいる部屋には窓がない。夜のみならず、昼でも燭台が必要だ。
あいかわらずなんの気も感じられないが、微かな香の匂いが土方の鼻梁をくすぐった。その香が、参謀の伊東が別宅で囲っている女のものであることは、想像に難くない。
伊東もまた、屯所ではできない目的の為に別宅を設けた。
表向きは、島原からなんとかという芸鼓を落籍き、それを囲ってはいる。だが、実際は自身の側に新撰組の隊士たちをひきいれる為、そこをうまく利用しているのだ。
伊東に可愛がられたすぐ後に、ここにやってきたのだ。まさか、愛妾がいる別宅で少年を抱くほど伊東も厚顔ではないらしい。だが、それを屯所ですることには頓着しない。それも充分厚顔なのだが、そういったことも含め、心底むかつく。
坊は、障子が開け放たれた廊下できっちりと正座し、頭を下げていた。
「入れ」
命令どおり、部屋へ入ってまた叩頭し、相貌を上げる。
坊には呼びだされた理由がわかっているはずだ。
伝言を頼んだ斎藤の心中をよんだはずだ。そして、いまの自身の心中もまた。
においが怒りを煽る。それが殺気へと転じるのに、さほど時間を要さぬ。
左脇に置いた愛刀「和泉兼定」を引っ掴んで立ち上がった。それ抜き放つ。瞬きする間もないほどのはやさだ。居合い抜きが得意なわけではないが、このときは自身でも驚くほどすばらしい手練を発揮していた。それほどまでに、なんともいえぬ怒りに駆らたのだ。
兼定の切っ先は、坊の眉間のわずか一寸も置かぬ位置で、ぴたりと止まった。
蝋燭の灯りを吸収し、「和泉兼定」の刀身は怪しげな光沢を放っている。
坊は瞬きすらせず、ただじっとおれをみつめている。おれの怒りを甘んじてうけいれようとするかのように。否、おれが本気で害そうとする気がないことを、承知しているのだ。
おれは、自身の得物をひくと血ふるいしてから納刀した。そして、得物を畳の上に置いた。その様子を坊はしずかにみつめている。
すでに丑三つ時、周囲に物音がないのは当然のことながら、坊からなにも感じられぬことが、苦痛だ。
少年のまえに片膝つくと、右の掌を伸ばしてその胸倉を掴んだ。そして、そのままおしたおす。なすがままにされている坊は、驚くほど軽くてもろい。はだけた着物のなかに、無数の傷跡がみえる。この傷跡を、伊東はいつもどんな気持ちでみているのだろうか?
「おめぇか?おめぇが殺ったのか?」
怒気を含んだ低い声音だ。坊は、おさえつけられていてもなんらあがらわぬ。
坊は、一瞬逡巡したようだったが、覚悟をきめたのかようやく口唇をひらいた。
「結果的には、おれが殺したことになります」
「なんだと?」
自身でも驚くべきことに、坊の細頸に両の掌をかけていた。誠に細い頸だ。両方の掌に、大きな傷跡が感じられる。いつもは着物の襟でうまく隠しているが、この傷がこれほど大きいものだったとは・・・。これはまぎれもなく刀でつけられたものだ。そこでやっと、われにかえった。
坊はただしずかに、おれの裁量に身を委ねている。
「おれの所為で、疋田殿は殺られねばならなかった。この傷は・・・」
思わず両の掌の力を緩めた。坊が項の傷のことをいっていることに気がついたからだ。
燭台の蝋燭の灯に蛾でも飛び込んだのか、大きく「ジジッ」と室内に響いた。その後、わずかに焦げた臭いが漂ってきた。
「疋田忠景殿がつけたもの。この傷にまつわる因縁が、疋田殿を・・・。」
おれの下で坊はつづけた。
おれは坊の細頸に掌をかけたまま、唖然としてその言をきいた。
「「千子」がすべてを教えてくれました。おれは、疋田殿を殺した連中もわかっています。ですが、現在は、これ以上は話せません」
「・・・」
返す言の葉もない。否、返す必要もない。なぜなら、こいつはおれの心中をよんでやがるのだ。
「信江殿にはおれから話します。信江殿が望まれるなら、おれも含め、仇討ちをされればいい・・・」
「馬鹿なことを・・・。あの女がそんなことを望むとでもいうのか、おめぇは?」
おれの両の掌のなかで、坊はかすかに頸を左右に振った。
「否、望むのはおれか?」
そう呟きながら坊の頸から掌をはなした。
好いた女の為に、いまや自身の体躯の一部ともいえる坊を傷つけるところだった。否、すでにその精神を傷つけてしまった。
「申し訳ありません、副長」
坊がおれの下で謝罪していた。そこには、さまざまな意味がこめられている。
こいつは、おれに傷つけられてもなお、おれに気を遣ってやがる。
そう思うと、自身の至らなさが歯痒い。だが、こいつのおれへの忠誠心がただただ嬉しい気もする。
おれは苦笑した。こいつの両の肩を掴んで起こしてやる。
「悪かった。許せ、坊」
素直に謝罪した。
「だが、いつかおめぇのこと、話してきかせろ。いいな?」
こいつの刈り揃えた髪が、くしゃくしゃになるまで撫でてやりながらつづける。
「信江殿には、おりをみておれから話す。それと・・・」
伊東とのことをと思ったが、ぐっと我慢した。
このことも、こいつにはよくわかっているはずだ。
「数日中に平助の出自について調べてくれ。山崎よりも、おめぇの方が武家の調査には向いてるだろう?」
平助の、本人のいうところの藤堂藩主ご落胤説の真偽をしりたかい。
もうまもなく伊東が動きだす。そうなれば、平助はみずからついてゆくだろう。
きたるべき日に備え、事前の処置をとっておきたい。
「承知」
少年は、居ずまいを正して叩頭した。
すくなくとも、試衛館時代からの仲間である藤堂までをも殺そうという意思はないらしい。そこには、亡き山南敬介の、同門の弟分であるからという想いもあるからであろう。
それをしり、少年はわずかにほっとした。
藤堂平助は殺さずにすみそうだ。
山南の死が、主にわずかにでも影響を与えたのだ。




