思惑
坂本龍馬は、この時期ほど忙しいことはなかっただろう。
設立されてまだそう経たぬ間に、時勢のながれで神戸海軍操練所は取り潰しの憂き目にあった。
その大元締めであり師である勝海舟は、海軍奉行を罷免された。謹慎状態となり、会うことすらままならなくなった。
坂本は、自身が描く壮大な絵図を完成させる為、薩摩と長州を奔走し、さらには「会社」なるものの設立の為に、長崎へと出張った。
着々と絵筆をふるい、絵図を描いてゆく。
薩摩は、巨魁西郷が坂本の弁舌で柔軟な姿勢を示した。
長州は、桂や高杉が坂本の再三の説得に応じた。怨敵たる薩摩との共闘に、まえ向きな姿勢を示したのである。
薩長は、幾度ももすれ違い、紆余曲折を経ながらこの後、おなじ軌道にのる。
世にいうところの「薩長同盟」は、土佐の郷士である坂本龍馬の活躍によって結ばれた。
その功績は、さまざまな意味でおおきい。
「会社」の設立は、薩長をはじめ長崎の豪商や雄藩の重臣など、坂本に惚れ込んだ各界の人々の援助により叶った。
「海援隊」の前身ともいえる、「亀山社中」は、長崎を起点として活動を開始する。
それは、日本で最初の商社であり、貿易を手がける反面、海軍としての機能も備えていた。
この時期、坂本のこの壮大な絵図は完成されつつある。
あとは、主題をつけるだけだ。
「大政奉還」という、前代未聞の題名を・・・。
薩長同盟が締結するすこしまえ、幕府による第二次長州征討で騒がれるなか、長州藩士伊藤俊輔、後の博文は、薩摩藩や諸外国との折衝の任にあたってばかりで、実際の戦闘に参加することができずにいた。
とくに武芸に秀でているというわけではない。
痩身で頬がこけており、額がやけにひろい。どちらかといえば、文人の様相をていしている。
かれは、松下村塾で学んだ松陰の弟子の一人だ。だが、性格は過激で、攘夷志士として英国公使館の焼き討ちや国学者の暗殺など、実行部隊として実績もある。
伊藤自身は、そちらのほうが性にあっていると思っていた。
伊藤は、すぐにでも高杉率いる奇兵隊に合流したかった。暴れたかったが、此度も耐え忍ばねばならなかった。
ただ一つの救いは、土佐からやってきた坂本という漢が、薩摩との同盟の話をもちかけてきたことだ。
そのとき、薩摩にも自身に似たような武士がいることをしったのである。
その薩摩武士とは大久保というらしい。面識こそないものの、使いの者を通じ、その人となりや思想をうかがいしることができた。
たしかに、似ていると思った。それは、思想や性質だけではない。それぞれの組織での役割、経験もふくめてのことだ。
探りを入れてみた。
大久保は、軍事力にものをいわせるより、密かな謀によって障害物を排除することを好む性質らしい。
かれは思った。自身もそうだ、と。いままさに、その一つがすすめられているところだ。
伊藤は、下関にいた。そこで、仏蘭西から買い入れた小さな船をみつつ、一人ほくそ笑んでいた。
これが成功し、薩摩との同盟も無事結べたあかつきには、まだみぬ大久保にいかに自慢してやろうか、と。
このとき、伊藤はしらなかったのである。大久保のほうが一枚上手だということを・・・。
大久保は、かなりまえより謀略をすすめていた。それが成果をあげつつあったのだ。
伊藤は、征夷大将軍徳川家茂の暗殺を、大久保はその家茂の義理の兄にもあたる今上天皇の暗殺を、それぞれおしすすめていた。
世の理は、この両者においても例外ではない。
明治になり、政府の要人となった両者は暗殺されるという、皮肉な結末を迎える。
無論、かような未来のことを、両者に予見できるはずもない。




