公卿智慧(ねこぢえ)
岩倉具視は、幼少の時分からまったく公卿らしくない。その豪胆さと奇抜さは、周囲を驚かせるような異彩を放っている。それは、岩倉家に養子に入ってからもつづいた。
蟄居中の現在においても、それはなんらかわることはない。おそらく、死ぬまでかわることはないのだろう。
その見識や実行力であまたのの功労を上げ、帝ご自身からねぎらいの言の葉まで賜りながら、あくまでも幕府に傾倒していたのが災いし、古来より朝廷に巣喰うあらゆる権謀術数もあり、かれは窮地に立たされた。
蟄居処分となり、文字通り朝廷を追いだされてしまった。
だが、やはりかれはただでは転ばぬ頑丈な漢だ。
蟄居中でも洛北でただ無為に過ごすようなことはなく、あらゆる手蔓と秘策とをもちい、せわしい生活を送っている。
ある一日、朝から薩摩藩の大久保一蔵、後の大久保利通の使いである井上石見と藤井良節と会い、昼をまわるまで密談した。
余談だが、井上と藤井は兄弟である。
井上は、維新後箱館府判事に任ぜられ、択捉島視察の帰途に行方不明になるという悲劇に見舞われることとなる。
密談のほとんどは、長州征伐反対の議論であった。それは、反幕の色が濃く塗りこめられた内容であることはいうまでもない。
蟄居中、こういった薩摩や長州ら攘夷志士らとの関わりで、岩倉は討幕派へと船を乗りかえた。
そのおなじ日の夕刻、長州の息のかかった公卿中御門経之と会った。
中御門もまた、岩倉とおなじく謹慎中の身である。
岩倉は背が低く、痩せ型でいかにも才気走った相貌のもち主だ。年齢よりかなり若くみえる。みえるだけではない。日頃から体力が落ちないようにと散歩や蹴鞠を好んでやった。その挙措は、公卿にありがちな、優雅でのろのろとしたものではなく、ときを惜しむかのようにせわしないものだ。つねに思考している為、眉間に縦皺が刻まれていた。
相対する中御門は、すぐにでも老衰で逝ってしまいそうなほど老いさらばえ、弱々しい。無論、実際はそうではないのだが、外見はそうだ。おっとり、ゆったり、ねっとり、を信条とする生まれながらの公卿。だが、真っ白の口や顎の髭は、ひかえめにいっても素晴らしい。
主人と客は、岩倉が蟄居している洛北の仮の寓居の一室、椅子と円卓を揃えた洋間で向かい合っていた。
岩倉は、いつものように眉間に皺を寄せ、円卓に両肘をついており、中御門は椅子をわずかに後ろにひき、樫でできた杖に両掌を重ねてのせ、それに上半身を預けていた。
岩倉は、あきらかに不機嫌である。
「正体はまだつかめんのか?」
激しているときの岩倉は手がつけられない。中御門は、椅子の上で小さな体躯をさらに小さくし、皺首をすくめた。
「関わっている医師だけでなく、こちら側の公卿やくみしている浪士や郎党が、これだけ不慮の死とやらを遂げるのか?そんなばかなことがあるものか!」
円卓に身をのりだしわめきちらす。
中御門は、椅子の背に身を預けなければならなかった。
目前の現実から瞳を背けるかのように、洋風の窓から庭に双眸を向ける。
庭、といっても桜の木が一本あるだけで、桜の木の横に小さな木戸があるだけだ。
その木の下に、大きな白い野良犬が寝そべっていた。
中御門がここにくる途中、どこかからかあらわれついてきたのだ。おそらくは、大きく成長しすぎて飼い主が手放したのだろう。立派な体躯の犬だ。白い毛は、長期間の流浪生活に汚れ、悪臭を放っている。腹をすかせているのだろう。精悍な相貌ながらくんくんと情けない声で鳴き、中御門の後ろをつかず離れずついてきた。
老公卿はそれを哀れに想い、追い払うようなことはせず捨て置いたのだ。
「まさか、犬どもが気づいたわけではあるまいな?」
犬という言の葉で、中御門ははっとした。意識が違うところへ、まさしく犬のほうへと向いていたことを咎められたのかと冷やりとした。
犬と猫。それは、かれらの間でのみ通じる隠語だ。
犬は幕府、猫は朝廷を指す。
「これは異なことを仰せになる。犬どもは、いまはそれどころではありますまい。長州征伐に加え、薩摩や土佐も油断ならぬ状態。たとえ犬どものだれかが気づいたとしても、そんな余裕は到底ありますまい」
「ならば猫どもの仕業か?」
「いまの宮中に、それほどの力をもつ猫もおりそうになさそうですがな・・・」
「気味が悪うていかんな。なんとかするのだ、よいな?」
「努力は致しましょう」
「それよりも、そろそろ長州より呼び寄せい」
「とうとう、といったところですな。準備は整っておりますぞ」
「大室はどうしておる?」
気分を落ち着けるためか、岩倉は煙草に火を点け、椅子の背に体躯を預けて深々とそれを吸った。
誠においしそうに喫するものだ・・・。と中御門はみていて思った。
庭で猫のように丸くなって寝ている犬の大きくてぴんと立った耳朶が、ピクリと動いたことに人間は気づいていない。
「奇兵隊におります。高杉が鍛えておるでしょう。兄のほうがくだらん喧嘩で死に、残ったのは軟弱な弟・・・。われわれのこの高貴で清廉な世界で生き残るには、それなりの精神と作法の修養を要しますので」
「はっ!」
岩倉は、馬鹿にするような笑いとともに煙をはきだした。
「これのどこが高貴で清廉か?血統など、ましてや南北などわれわれにとってはどうでもいいことではあるが、大勢に楔を打てるのなら、過去の遺物でもなんでも利用させて頂かねばな・・・」
下卑た笑声が、蟄居中の公卿の口から漏れた。
岩倉具視は、ほかの公卿とは一味も二味も違っている・・・。
白くて大きな犬は、陽の落ちた洛北をあっという間に駆け抜け、桂川にいたるとそのまま川に飛び込んで体躯の汚れを落とした。
できれば、ついいましがたきいた忌まわしい会話の内容も川へと流してしまいたかった。
桂川の川岸の草むらへと上がってきたときには、白くて大きな壬生狼の姿から少年の姿へと戻っていた。
無論、少年はずぶ濡れだ。先日借りた疋田信江の息子の着物と袴を、少年は悲しげにみおろした。
少年は困惑していた。同時に、きいてはいけないことをきいてしまったと、はっきり認識した。
確実にまた一歩、死にちかづけたのだ。望んでいる死に・・・。だが、これからどうすべきなのか?報告、あるいはだれかに告げることで、その相手も確実に消されるだろう。自身は闘えても、その者が闘える、あるいは自身がその者を護りきれる、とはいいきれない。
川岸は、先の大火で焼けだされた京の町の人々や、悪党、女を、あるいは漢をうり買いするためにやってくる人間で、こんな宵っぱりでも思いのほか賑やかだ。
そんななか、少年は濡れたままの格好でとぼとぼとあるきはじめた。
濡れた着物や体躯は、そのうち乾くはずだ。だが、この重大かつ危険きわまりない問題は、そう簡単には解決できそうにない。
現在、主はいない。参謀の伊東、そして主のもう一振りの刀たる斎藤を伴い、江戸へ下向している。
主からいいつかっていることもあり、これから疋田家へ向うつもりであった。気は乗らないが。だが、主のいないいまのうちに、「千子」と話をしなければならない。
なにゆえ、かような深みにはまってしまったのか・・・。不意に笑いがこみ上げてきた。笑うしかないではないか?
二十数年前、践祚を控えた御方の影武者を務めた際、あまりの手持ち無沙汰に宮中の書庫に籠もり、そこにある大量の資料や文献や書物をよみ漁った。たしかそのなかに、二人の天皇が並び立つ南北朝時代についての書物が、書庫のかなり奥まった場所にほかのおおくの書物に埋もれるようにしてあったのを、なんとなくよんだ記憶がある。
1336年、足利尊氏が、光明天皇を擁立したため、後醍醐天皇は南の吉野に逃れた。その事件が、南北朝時代を招いたのだ。
後醍醐天皇の南朝では、北畠親房が、『神皇正統記』を著し、南朝こそが正統であるとして北朝を牽制する動きをみせた。
結局、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡すことで、南北朝は合体したはずだ。しかし、その後も根強く南朝正統論が残った。
江戸時代に、徳川光圀が編纂した『大日本史』、頼山陽の著した『日本外史』なども、南朝正統の姿勢をとっている。
その南朝の末裔が、長州に匿われている。その末裔を、御方がお隠れになった後にあたらしく皇位に践祚される嗣子と、すげかえようとでもいうのか・・・。
御方に毒を盛っているのが、その陰謀の一端というわけか・・・。
少年は、桂川から通りに入っていた。通りは、家路を急ぐ人がほとんどで、少年のようにゆったりとしたあしどりの者はいない。
ときおり、めし屋や呑み屋から、笑い声とともに出汁や焼き魚の匂いが漂ってくる。
少年の意識はこの場にはない。
つぎの帝と目されている嗣子は、御方の第二皇子の祐宮でまだ十四、五歳だ。
幼帝は、傀儡となりえる。とくにすげかえるような手間をとらずとも、岩倉は欲しいままに権勢をふるえるはずだ。
岩倉自身「どうでもいい」、というようなことをいっていた。
長州がそこに絡むわけか?長州が庇護する正統の後継者をもちいることで、岩倉は長州を顎でこき使える。
そこで、はたと気がついた。たしか、よんだ書物のなかに南朝の忠臣菊池氏のことが書かれていた。
記憶違いでなければ、その菊池氏の子孫が現在でもまだ残っている。
物思いに没頭するあまり、少年は例の不審な浪士たちがたむろしていた空き屋のちかくまでやってきていることに気がついた。
主の命でこの辺りのことも調べたが、数日前にこの空き屋のすぐ隣家が不審火で全焼しており、そこに住んでいた老女が焼死していた。
それはちょうど、浪士たちがちらほら確認されはじめた時分と時期が重なる。
その隣家は、例の空き家とは庭つづきで、そこを充分み渡すことができたらしい。
結局、目明しらの調べではなにも判明しなかったが、焼け死んだ老女がみてはならぬものをみてしまったのだとしてもおかしくはない。
空き家になんの気配も感じられない。
少年は、素通りしながら着物も袴もかわききらないな、と思った。そしてまた、思案のうちに入っていった。
坂本は、長州と薩摩を結び付けようとしている。
岩倉は帝をすげかえることで、長州と薩摩をべつの意味で結び付けようとでもいうのか?
なぜなら、南朝の忠臣菊池氏の子孫が薩摩の最重要人物、西郷隆盛なのだ。
この簒奪ともいえる謀を、西郷を、否、薩摩を動かす餌とするつもりなのか?
(くそっ!)
少年は、心中で悪態をついた。
やはり、どうすればいいかわからぬ。
会津候には、けっして報告してはならぬ。これをしることとなれば、会津候にも害がおよぶ。
御方がお隠れになるまで、さほどときは要さぬ。それは同時に、祐宮の暗殺をも意味する。
その南朝の末裔とやらは、このおおいなる謀略の隅々までしらされているであろうか。しらされていたとしても、理解しているであろうか。
「いわれたとおりにしていれば、喰うに困らず贅沢させてやる」、その程度の餌を投げ与えられているのだろう。
その末裔とやらを消してしまうか?だが、暗殺はまずい。万に一つもしくじることはないが、どこでどう結び付けられるかわからぬ。
殺るとしたら、事件もしくは事故にみせかけるしかないだろう。
末裔とやらには気の毒ではあるが、祐宮が生き残れるのなら、御方の血筋の方が死なずに済むのなら、選択肢はほかにない。
疋田家の勝手口にいたっても、少年の借りものの着衣は濡れぼそっていた。




