山桜散る
江戸から更なる新入隊士を引き連れ、局長の近藤や永倉が戻ってからというもの、隊士の増員によって壬生村の屯所は手狭になっていた。
その為、土方は屯所を移す計画を立てた。
「西本願寺」への移転だ。
そこが長州贔屓であることはいうまでもなく、「禁門の変」では長州兵に僧侶の格好をさせて京から逃したり匿ったりした経緯がある。
屯所にするには「ちょうどいい広さ」という理由以上に、「監視する」という目的があった。
その案には、参謀の伊東および総長の山南が真っ向から反対した。
「おにしさん」は、京の人々は無論のこと、全国各地の浄土真宗本願寺派の本山である。そこに、いまや幕府、つまり武家の象徴ともいえる新撰組が屯所を構えるなど、神をも畏れぬ愚行以外にない。反感こそ買えど歓迎などしてくれるはずもない、というのがいい分だった。
土方と伊東・山南の再三に渡る話し合いは、どこまでいっても平行線でけっしてまじわることはなかった。
この移転騒動が起こるまえから、京より東では武田耕雲斎率いる水戸の天狗党が、その数八百で尊皇攘夷の志を朝廷に奏上すべく、上洛をくわだてた。
結局、加賀の地において武田耕雲斎が交戦を主張する者をおさえ、追討軍に恭順し大志を訴え投降を潔けっした。
幕府追討軍の総指揮者が、水戸本家筋の一橋慶喜であったことから、ついに天狗党は加賀藩に投降したのだである。
だが、この騒動はそれだけでおわることはなかった。一橋慶喜は、なんと投降した天狗党のなかで、浪士三百五十二名に死罪、付き従った人夫や百姓等五百名以上を遠島や追放という処断を下したのだ。
それは、尊皇攘夷派にとってもたとえそうでなくとも、残虐非道以外のなにものでもないだろう。
天狗党の悲劇を、新撰組参謀伊東は以前水戸に遊学していたときの同志から文でしらされた。それを幾度もよみかえした後、伊東は篠原や実弟の鈴木すら側に寄せ付けず、部屋で同志たちの無念を大いに悲嘆した。
同時に、幕府の暴挙のかぎりを憤った。ただ一人、小姓の佐藤龍がみつめるなかで。
結局、土方が説得される形で、少年は伊東の小姓を務めることとなったのだ。陰間茶屋「葵屋」は、さる剣術道場に内弟子に入るということにし、撤退した。
少年を可愛がっていた陰間の雅清は、おなじ時期に薩摩藩の御用達の呉服屋の旦那に落籍れた。
「幕府の権威はもはや地に墜ちたも同じ。やはり尊皇攘夷の志を貫くべきです。そうは思われませんか?」
伊東は、同志からの文を幾度も幾度もよみかえしては涙にくれていた。
「山南さん?」
参謀は、狭いながらも一人部屋を割り当てられていた。伊東一派が江戸からやってきてからは、土方がこの部屋をあけわたし、自身は近藤と相部屋になった。とはいえ、近藤のほうは江戸から戻ってしばらくすると妾宅を設け、そこに島原から落籍せた芸妓駒野を囲っていた。夜はそこで過ごすのだから、土方も夜は相部屋といえども一人ですごすことができた。
火鉢をはさみ、伊東は総長の山南と向かい合っていた。おなじ北辰一刀流、文学肌という共通点のおおい二人は、最近ではこうして語り合うことがおおい。
伊東が山南を部屋に招いて、だ。
廊下から「失礼致します、参謀」と断ってから、いまは伊東の小姓となった少年が人数分の茶と菓子を盆に載せ部屋に静かにはいってきた。
狭いこの部屋に、部屋の主、山南、伊東の弟であり九番隊の組長鈴木、諸士調役兼監察方に就いている篠原、八番組の伍長となっている加納が身を寄せ合って座している。
少年は、手早く茶と菓子を置くと伊東の後ろに端座した。
一瞬、山南と少年の視線が合ったが、少年はそれとわからぬ程度の目礼をしただけだ。
「伊東先生、新撰組でかようにおおっぴらに語るのはどうかと・・・」
「山南さん、なにを遠慮することがありますか?新撰組は尊皇攘夷をよしとしている。わたしがあの胸糞悪い「局中法度」に背いているとでも?」
強気の言のわりには、胸糞悪いというところだけは声音が低い。
伊東は、新選組に加入してから「局中法度」に背いた隊士の切腹や粛清のあまりの数のおおさに、すでに嫌気がさしていた。参謀という立場上、最初の数回は立ち合ったが、いまではなにかと理由をつけては、それを忌避している。
総長たる山南も、体調不良を理由にいまではほとんど立ち合ってはいない。もっとも、山南は隊務そのものに関わることがすくなくなっていた。これは、山南から遠ざかっていることもあるが、土方のほうで遠ざけていた。
「伊東先生」山南は、声は潜めつつも語気は強めた。同門の秀才へと膝をずいと詰める。
「おなじ攘夷でも、新撰組はあなたの思想と根底が違います。それをお忘れなきよう」
篠原も加納も、自身らが信頼する思想の師を無表情でみつめている。そして、鈴木は実兄に尊敬の眼差しを送っている。
篠原と加納、この二人は伊東と出会うまえからの知己だ。二人とも武芸を極めた者にありがちな無骨さと純粋さがあり、その醸しだす雰囲気はじつによく似ている。 中肉中背の筋肉質な体躯、そして、濃い相貌、これらもどことなく似ていた。
実弟の鈴木は、兄とは違ってなにもかもががっしりとしている。体躯も性質も。北辰一刀流、神道無念流皆伝の腕前は、幼少の時分から尊敬する兄に認められたい一心で努力した賜物だ。
「伊東先生、山南先生の仰るとおりです。あらぬ疑いでもかけられては・・・」
加納もまた囁くのを、伊東は片方の掌を上げて制した。
「わかっているよ。兎に角、われわれも悠長にしてはいられない」
「伊東先生!」
山南は、さらに語気を強めた。視界の隅で少年が物静かに座している。この場にいるだれもが、その存在を感じることはない。なぜなら、空気のように気配がないからだ。
しかし、山南にはよくわかっている。少年がこの場にいる理由を。そして、自身も含め、すでに心中までも掌握されていることを。
「土方君は、すでに気がついていますよ。いや、最初からかれはわかっている」
いまの山南にできることはすくない。せめて同門の伊東らの生命だけでも、さらにおおくを望むなら、穏便に隊を脱退し、どこか他所で伊東の描く構図とやらを完成させてほしい。
すくなくとも新撰組では、伊東が描こうとしている構図は、完成どころか机上にひろげることすら叶わぬだろう。単純な近藤だけならまだしも土方の信念を、その志をまげることなどできるはずもない。
現在の土方は、完全に鬼になりきっている。暗示をかけられでもしているかのように、鬼を演じている。邪魔者異端者は、躊躇なく始末するだろう。否、している。しかも、その懐刀がいっそう厄介だ。
この謎に包まれた少年は、鬼以上の存在なのだ。
鬼以上?いったいなんなのか?そもそも、この少年は何者であるのか?
「山南さん、慎重さはときとして臆病に通じます。この情勢を利用しない手はない。無論、急きすぎて仕損じてはなにもならないのはわかっています、ですが、できるだけはやく新撰組を、否、土方君をどうにかすべきだ。幕府のあさはかさが為に散っていったおおくの同志たちの無念とその本懐の為にも」
これ以上の議論は無駄とばかりに、伊東は掌をひらひらと振った。少年が入れた茶をすすり、篠原や加納に昼からの講義の準備をするよういいつけている。
その様子をみながら、山南は諦めるしかなかった。
これまで、再三、忠告、諫言、懇願までしてみたが、すでに決意して上洛した伊東にそれらをききいれるだけの度量のひろさや余裕があるわけもない。
なまじ聡い者にありがちな他者の言はききいれぬ性質の典型だ。しかも頑固ときている。
つねに傍にいる篠原や加納もまた、文武ともにすぐれているので、かれらも諌めてはいるのだろう。
惜しい、と心底思った。これだけの逸材を、天下の大舞台ではなくこんな舞台裏で、武士でもない者の掌によって失われることになるのだろうから。
同門の坂本とは、しょせん器が違いすぎるのだ。そして、それは自身にもいえることだ。
山南は、自身をみている少年をみ返した。視線の隅で、伊東が菓子を食べながら篠原と談笑している。その伊東の後ろで少年は山南をみつめていた。
伊東は、かれらの絆の太さにすら気がついていない。かれの失態の一番の要因は、土方と思想を異にしていることではない。土方の懐刀に魅せられたことなのだ。
「きみは本当に利口な子だ。きっと剣術のほうも上達するはず。わたしが土方君にかけあってみよう」
毎夜、伊東は自室で少年に酌をさせながら口説いていた。
その夜、山南は廊下の端で伊東が上機嫌で少年に話しかけているのをきいていた。気配を消してはいるが、少年は気がついているはずだ。
「すくなくとも新撰組での剣術の練習はまだはやい、と道場に入ることも禁じられています」
少年は控えめに答えた。
新撰組の稽古は、刃引きされた刀を使用する。あたりどころが悪ければ、大怪我ですまない場合もある。隊士たちは、いつも真剣さながらの稽古をおこなっている。
土方は、浪士組だった時分から少年には道場での稽古を禁じていた。自身の懐刀の力を、事情をしらぬ隊士たちにみせない為である。ゆえに、少年は夜半、だれもが寝静まった頃に鍛錬する。それをしっているのは、近藤一派だけだ。
「わたしの講義で、きみも現在のこの国でなにが誠に必要なのか、いったいなにを為すべきか、がわかったろう?」
伊東は、杯を膳の上に置くと少年の腕を摑んで自身に引き寄せた。自然、少年の小さくて軽い体躯は、伊東に抱きかかえられる形となる。伊東は、そのまま両の腕で少年を抱き締めた。
「そろそろきみもわたしに慣れる頃合だろう?」
甘く囁きかける。少年は激しく抵抗はしないものの、わずかに身をよじって拒んだ。この状態がつづいており、伊東は毎夜、今宵こそはと征服欲を燃やして少年に迫るのだ。
伊東は、こっちのほうにおいては狩人だ。焦らせば焦らすほど激しく燃える。征服欲を満たすことのみで、最近では本来の目的が霞んでしまっている。
少年の巧妙な手管だ。
「先生、申し訳ありません・・・。まだ・・・」
少年は、伊東に抱き締められながらその胸元で応じた。
伊東の小姓になったばかりの頃、少年はかれに打ち明けた。
元新撰組局長芹澤鴨に毎夜のように犯され、その恐怖心がいまだに拭えないということを。
実情はどうあれ、その話は事実だ。伊東はたいそう驚き、悲しんだ。そして、よりいっそうこの少年を愛おしいと感じた。
思う壺、とはまさしくこのことだ。
なにかにつけ体調のせいにするようになってから、隊士たちに剣術の指導をすることがなくなったばかりか、自身の鍛錬の為ですら道場にいることがなくなっていた。
この夜、しばらくぶりに練習用の道着と袴に着替え、山南は道場に脚を運んだ。すでに時刻は丑三つ時。無論、夜の巡察もかなりまえにおわっている時刻だ。道場に人影があろうはずもない。
上座に向かって端座し、左脇に愛刀の「赤心沖光」を置いた。
盆地の京の都は夏は蒸し暑く、冬は底冷えする。道場の床は氷のように冷たく、山南の体躯を心底から冷やした。だが、それよりも京でのこれまでの出来事が、山南の精神を心奧から凍らせていた。
唯一の救いは、島原の天神明里と巡り合ったことだけだ。
ことを為すまえに、明里のことだけは決着をつけておかねば。
自身と違い明里はまだ若くこれから将来があるのだ。
「坊かい?」
後ろを振り返るまでもない。土方の懐刀の一振りである少年が、道場にあらわれた。
わざと山南に気配を悟らせて。
少年は、道場の入り口近くに端座したようだ。気配がすっと消えてしまう。道場には、山南だけになってしまったかのようだ。
「総長、お邪魔して申し訳ありません」
少年が静かにいった。山南には、後ろに座す少年が、なにゆえやってきたのかすでにわかっている。
「いや、いいんだよ坊。久しぶりに稽古を、と思ってね。付き合ってくれるかい、坊?試衛館のときのように。ああ、禁じられているのは承知しているよ。だが、わたしが今宵だけ許可するよ。なにせ役職では、かれよりわたしのほうが上なのだから」
わずかに後ろを振り向くと、山南は微笑んだ。
「おおせのままに・・・」
山南は、沖光を掌にすると、ゆっくりと立ち上がった。少年のほうへと体躯を向ける。
道場の窓から月光が射し込んでいる。そのわずかな光のなか、少年はひどく小さく、その表情は幼くみえる。それがつい半時まえには、まるで熟練の陰間のような手管で好き者を翻弄していた。おなじ少年の仕業とはどうしても思えぬ。否、思いたくない、というのが本音か?
「きみはなにものなのだ?」
愛刀を腰に佩きながら、少年に尋ねた。穏やかすぎる口調で。そして少年もまた、穏やかな表情に一言で応じた。
「人殺し、ですよ」、と。
沖光を鞘から解き放つ。じつにあのとき以来のことだ。手入れすらする気になれなかった。それほど、あのときのことが、そして、それ以降の新撰組でのすべてが、山南を心身ともに弱らせていた。
「ならば質問をかえよう。なにゆえ土方君なんだね?」
正眼に構える。北辰一刀流の鶺鴒の構え。たいする少年は無掌のまま、その両の掌は太腿に添えたままで、いかなる構えもしない。
剣から遠ざかっていたからだけではない。雑念もまた、山南自身の心の眼までをも曇らせたのか?
自身の剣先が一瞬止まり、それがふたたび動くまでもなく、かれは自身の頚筋に白刃の無機的な冷たさを感じた。だが、少年は一歩もその場を動いてはいない。
相貌や体躯を冷や汗が流れてゆく。荒い息をつきながら、あまりの重圧に沖光を提げたまま道場の床に片膝ついた。
両肩が上下し、息と意識を整えようと試みた。どちらも容易にはおさまらぬ。
「総長、失礼致しました。大丈夫ですか?」
蹲る山南の両の肩に、少年の両の掌が添えられた。
不思議と気分が楽になってきた。
いまのは、いったいなんだというのだ?闘気どころか気配すらない少年が、まるでみえぬ刃で自身の頚を襲おうとしたかのようだった。
これはなんらかの技なのか。それともなんらかの力なのか・・・。
「だ、大丈夫だよ、坊・・・」
立ち上がろうとしたが、わずかによろめいてしまった。その山南の体躯を少年が支えた。無表情でかれの双眸を覗き込む。
山南は、立ち上がることを諦めた。そのまま納刀すると、尻を道場の床につけ、両の掌を後ろに投げだす。
少年は、そのまえに律儀に端座する。
「恩人。この答えではいけませんか、総長?」
はっとして少年をみた。すぐ眼前に座している少年は、好き者の伊東でなくとも美しく思える。そんな性癖がなくともそそるものがある。
山南には、この少年のことをしることはできぬだろう。もはやその必要も資格もない。
「きみは、いまの情勢がよくわかっているのだろう?なにものかはわからぬが、黒谷、否、会津候はきみに、われわれごときでは考えもおよばぬようなことを、させているのではないのかね?きみのいうことなら土方君は・・・。すまない、忘れてくれ。どうも頭が混乱しているようだ・・・」
なにを話したらいいのだ?なにを訴えればいいのだ?そもそも、自身がずっと考えていたことは、あくまでも推測だ。というよりかは、まるで戯作のようなことなのだ。
「人殺しに思想や意見などございません。ただ命ぜられるままに・・・」
少年は、美しいまでの相貌を道場の小さな窓へと向けた。月光がよりいっそう少年の相貌を妖艶に浮かび上がらせる。
「殺すだけです」
そして、ふたたび視線を山南に戻した。言の葉のわりに、その表情は穏やかだ。
「すでにきみにはわかっているのだろう?」
確認だ。小さな頭がこくんと縦に振られた。
「わたしも、あの人とおなじなのだろう・・・」
つぎは、山南が窓の外に浮かぶ月をみる番だ。その月にみえたのは、この新選組において暴虐のかぎりを尽くした亡者だったのか?
「総長、副長が悲しまれます。そして、さらに枷をはめられる」
責めるような口調ではけっしてない。だが、山南にも信念というものがある。武士としての意地、さらには人としての矜持も。
土方には真実をしられぬままでいたい。そのうえで、かれに苦しんでもらいたいという気持ちと、みずからでこの答えを導きだしてもらいたいという気持ちとが、せめぎあっている。
「告げるのかね真実を、きみが?」
少年と視線を合わせ、静かに尋ねた。少年がどう答えるか、わかっているはずなのに。
まだ覚悟が足りぬのか?止めて欲しいのか?それとも告げてもらいたいのか?
「おれにはできません。あなたを止めることも含めて・・・」
その明快な答えに、内心苦笑せざるをえない。
「ひとつ頼まれてくれないかね?」
山南は、ふっと緊張を解くような笑みを浮かべた。
「大津。東海道からはずれた漁村です。親兄弟がいるようです・・・」
即答だ。
「なんと、手際がいい。さすがは「土方二刀」の一振り」
冗談めかせていったが、山南は誠に驚いた。
この少年のまえで、明里のことを心中で思い浮かべることすらなかったはずだ。それをこの少年は、こうなることまで予測し、調べていた。
千里眼としかいいようがない。あるいは、未来も、この少年はよめるのか。
「すべてに礼をいわせて欲しい、坊。願わくば坊、きみには死んで欲しくない」
驚くほどの大声がでてしまった。だが、だれかに気づかれたとしても、いまのうちにこれだけはかれに伝えておきたかった。
「きみは武士だ。そして、強くてやさしい人間の子どもだ。その存在には立派な意味と意義がある。それをわすれず、命を粗末にしないで欲しい」
試衛館にいた時分、山南は近藤をはじめとした仲間たちに世の情勢や思想、兵法や儒学といったことを教えたり、ともに学んだりしていた。あるときから少年もそれに加わったが、少年のほうがはるかに博識であることを、ずっと後になってしった。それまでは、先生面して少年にもわかりやすいように様々なことを語ったものだ。そして、少年もまた素直にきいていた。学問が苦手な沖田や原田より、よほどいい生徒だった。
ときはうつり、なにもかもがかわってしまった。それぞれの精神のよりどころまでもが・・・。
もはや山南にはどうすることも、そして、どうかしようという気力も体力も残されてはいない。せめてその欠片だけでも、弟のように可愛がっていた沖田やこの少年に残してやりたい。
少年は、静かに叩頭した。
「努力致します、山南先生。あなたの教えは、しかと刻み込んでおります」
頭を上げると、少年はそういいながら胸に掌をあてた。
「総長、ありがとうございます。おれを人間扱いしてくれて・・・」
最後のほうは、耳朶で、というよりかは心に直接呼びかけられたかのように感じられた。
月光が、静かに降り注ぐ。
数日後、新撰組総長山南敬介は脱走した。「江戸に帰る」、という文を残して。
追っ手として、沖田と少年が出発した。
土方は、山南が可愛がっていた沖田と少年を選んだ。
二人は、「風神」と「雷神」を駆って追いかけた。どうかみつかりませんように、と祈りながら。そして、そのかれらの願いに反し、大津の宿場町で逗留している脱走者をみつけた。
脱走者は二人の到着を、いまやおそしとまっているかのような風情だった。
新撰組総長山南敬介は、元治二年二月二十三日(1865年3月20日)、壬生の新撰組屯所において局中法度に背いたかどで切腹を申し付けられた。
幹部がみまもるなか、その切腹は十文字腹での見事なものだった。介錯は、当人の望みで沖田が務めた。
ぎりぎりまで声をかけなかったという。
自身の腹を切り裂きながら、山南の双眸は揺らぐことなく副長の土方に向けられていた。
「春風に 吹き誘われて 山桜 散りてぞ人に 惜しまれるかな」
「吹く風に しぼまんよりも 山桜 散りてあとなき 花ぞ勇まし」
山南の同門である伊東が、その死を悼んで読んだ句が残っている。
また一人死んだ。おおくの謎を残したまま・・・。
真実をしるであろうたった一人の少年は、黙したままけっしてそれを語らなかった。そして、そのことをしっていても、土方はけっして問わなかった・・・。
明里は、身内の者が金子を用意し引き取りにきた。かのじょのしりあいだという武士が、金子を託して去っていったのだという。
その後の明里のことを、しる者はいない・・・。




