成果の顛末
元治元年七月十九日(1864年8月20日)、池田屋事件を発端に、追い詰められた長州藩がついに挙兵した。
世にいう「禁門の変」である。
長州藩は、薩摩藩や会津藩と市街戦を繰りひろげた。
これにより、京の町は大火に見舞われてしまった。
約三万戸が消失、京の町の人々にも多大な犠牲を強いた。
久坂玄瑞や来島又兵衛、そして、八月十八日の政変以降長州藩に身を寄せていた久留米藩士真木和泉守といった尊王攘夷派の急進的な活動家たちは、奮戦するもことごとく死亡した。
そして、長州藩は朝敵となった。
この事件が、後の第一次長州征討へとつづく。
これだけの被害をこうむりながら、長州贔屓の京の人々は長州よりも薩摩藩や会津藩に対し、悪感情を抱いたという。
新撰組は、「池田屋事件」および「禁門の変」のはたらきにより、幕府、朝廷から認められた。
名実ともに、その名を全国にしらしめたのだ。
感状と褒賞金を賜ったことよりも、幕軍きっての精鋭部隊として、一目置かれるようになったという事実のほうが重要だ。
局長たる近藤は、将軍徳川家茂に目通りがかなった。
それはもう得意の絶頂であることはいうまでもない。
夢はかなったのだ。「武士になる」、という。それは、土方の夢もかなったということになる。
「武士になり、かっちゃんの名を日の本に響きわたらせる」という夢を・・・。
近藤は、このとき以降、黒谷や二条城にまかりこす際、騎馬をもちいるようになった。
土方の小姓を務める少年は、小者とともに二頭の騎馬「風神」と「雷神」の面倒をみた。
この二頭は、会津候から下賜された騎馬たちである。
さらに少年は、武士が騎乗する立派な騎馬に仕上げた。
立派な騎馬に騎乗し、供揃えまで仕立てて二条城にまかりこす姿は、どこからどうみても立派な武士、否、武家の棟梁だ。
近藤は、私事では馴染みの芸妓を落籍せ、別宅に囲うようになった。
近藤が永倉や原田、斎藤といった試衛館時代の仲間を、同志ではなく部下としてあつかうようになったのも、ちょうどこの時分からだ。
この近藤の増長ぶりに憤慨した三人は、新撰組の後援者である会津候に建白書を提出するという行動にでた。
まっすぐな性質で、他人に使われることをなにより嫌う永倉や原田は、近藤の変貌ぶりが腹に据えかねたのだ。
もっとも、斎藤がそれに参加したのは事情がことなる。それを事前に察知した土方が、様子を探らせたのである。
どちらかが切腹する、という事態にまで発展しそうになった。しかし、斎藤、そして少年の二人は、それぞれの手蔓でそれを密かに防いだ。
首謀者の永倉に謹慎処分が下され、事なきをえたのだった。
新撰組という名がしれ渡り、それだけ敵が増えるのは必然だ。即座に隊の増員、強化に迫られた。
同時に、隊の編成も変更せねばならない。
これまでの一番隊から十番隊までを、一番組から十番組にかえた。各組の組長の下に、二名の伍長がつくこととなった。組長については、これまでとおなじである。
土方とともに副長を務めていた山南は、総長に昇進した。
これまで、各隊に所属していた有能な隊士は、監察、公用方に異動となった。
無論、そういった隊士たちは、土方の息のかかった者ばかりである。
人員の増強も急がねばならない。京を中心とする西国の者はいまひとつ信用も頼りもできぬ。そういう理由から、東国で人員を募ることとなった。
それには、額の負傷の療養もかね、八番組の組長藤堂が江戸に下向し、その任にあたることとなった。
この時期が、新撰組にとって絶頂期であったのやもしれぬ。




