逃げの小五郎
「逃げの小五郎」というふたつ名は伊達ではない。
長州藩士桂小五郎は、とにかく逃げるのがうまかった。それだけではない。化けるのもうまい。
化けて逃げる。これがこの若き長州武士のもっとも得意とするところであり、そのお陰で後の明治政府で要職に就いて活躍することができた。
だが、桂はれっきとした剣士だ。長州では柳生神陰流を、江戸に留学した際には、江戸の三大道場のひとつである練兵館で神道無念流を学んだ。免許皆伝を得たのはいうまでもなく、塾頭もつとめた。しかも入門一年目で塾頭となり、そのまま約五年間もの間練兵館でその名をしらしめた。
大柄な体躯の桂の上段からの一撃は、薩摩の示現流をも凌駕するといわれている。
剣術で鍛えられた体躯には無駄な贅肉はついておらず、大柄なわりには俊敏で小回りがきいた。
くっきりとした相貌は、女性にも受けがいい。もっとも、何事にも一途な性格の桂は、女性にたいしても同様だ。
事実、京の三本木の芸妓幾松に惚れ込み、維新後に正妻として迎えたほどである。
長州は、いまやこの桂と高杉晋作が中心となっていた。両者ともに、他人任せではなくみずから出張って活動することを好んだ。
七月四日の五つ頃、新撰組が三条の番所でまだ待機していた時分、桂は乞食にその身をやつし、池田屋の裏木戸のまえに佇んでいた。
長州藩邸は目と鼻の先である。
襤褸をまとい相貌には泥を塗りたくり、菰包みをかついで背中を丸めてあゆむ姿は、どこからどうみても宿無しにしかみえぬ。
裏木戸を四度叩くと、まもなくして池田屋の手代が裏木戸をあけてくれた。
桂は、裏庭にすかさず入った。
「桂様・・・。これは・・・」
あまりの臭気に、手代は一歩あとずさった。
いつものこととはいえ、とても武士には思えぬ。
(なにもここまで完璧になりすます必要などないのでは?)と思うのだが、桂は何事にも完璧を追求するのだ。
「皆、もうきているか?」
囁き声。声量を控えることも身に沁みこんでしまっている。
「どなたもおみえではあらしまへんよ、桂様。まだはようおす」
手代は、さりげなく掌で鼻孔をふさぎながら答えた。
「おや、はやすぎたか?まぁよい。では、さきに対馬藩邸で用事をすませてこよう。邪魔をしたな。あぁそうだ、吉田君や宮部君が参ったら、顔をみせるといっていたと伝えてほしいのだが」
吉田稔麿は、吉田松陰門下で、高杉晋作、久坂玄瑞とともに、松陰門下の三秀と称されている攘夷論者の急先鋒の一人だ。
そして、宮部鼎蔵もまた、肥後藩出身の筋金入りの攘夷志士である。
「かしこまりました、桂様。どうかお気をつけておくれやす」
手代に見送られ、桂は裏木戸からでていった。
池田屋でまたずに対馬藩邸にいったことが命拾いする結果となったことなど、桂自身このときには思いもよらなかったに違いない。
「逃げの小五郎」は、運をも味方にしているのだ。




