斬首
いま一つの自身が、いま一人の叔父である厳蕃のことを主に託しているのをおぼろげにきいた。
否、それもやはり表現としてはおかしい。
自身で頼みながら、それを自身の耳朶できいた。これが真実・・・。
動くほうの掌をかろうじてのばし、主の頬にそれをあてる。
もうときはなく、命じられたつとめははたさねばならぬ。
主の想い。それは、自身にとって最高のものである。
もはや心中を忖度する気力は、否、そもそもそのような必要もない。
いまの主の想いを感じただけで満足。
あのとき、燃え尽きるか血を失ってこの世から消え去ってさえいれば・・・。
奪ったあまたの生命。付随するあまたの悲哀を考えれば、それは肯定される。人間が、わたしという存在そのものをどうとらえるかによる。
だが、わたしはあのとき死にたくなかった。死ぬのが怖かった。そして、いまは・・・。
破壊と殺戮、守護や淘汰、出会いと別れ、人間や動植物との触れ合い・・・。
もはや飾る必要はない。
生き残ってよかった。主に拾われ、その恩を返す為さまざまな国で修行し、主の下で仲間たちと戦い、そして死ねる。
本望。悔いなどどこにもない。
「ありがとう、歳にいちゃん・・・」
思わずだしてしまう。
最期まで解くつもりはなかった。だが、いわずには、伝えずにはいられない。
火傷や傷は、力で癒されつつあった。うちなるものの力によって。しかし、精神のそれは、たとえそれでもどうしようもない。
心細く、不安だった。それ以上に、なにもなかった。
そんなときに出会った、一人の美しく威勢のいい少年。その出会いが、わたしたちにすべてを与えてくれた。
主に救われたのは、わたしたち双方ともにだ。
封印は、解いた。
これで思い残すことはなにもない。あとは、与えられた命を実行にうつすのみ。
此度こそは、此度こそははたさねばならぬ。
わが生涯、わが矜持、そして、わが血筋を賭けて・・・。
わたしたち双方に、楔を打つ為にも。
主の驚きにみ開かれた双眸をみつつ、わたしは気がついた。
自身が泣いていることに。残った右の瞳から、涙が流れていることに・・・。
おれの頬に添えられたちいさくて分厚い掌・・・。
こめかみの痛み・・・。
(ありがとう、歳にいちゃん)
そう囁かれた刹那、その痛みが嘘のようになくなった。そのかわりに、こいつが封印していたであろう餓鬼のころの思いでが、文字通り堰を切ったように頭のなかに溢れ返る。
「そんな・・・」
喘いでしまう。
自身が抱く、ちいさな体躯・・・。
こいつがおれから奪った記憶が、こいつの正体を、餓鬼のころにあったことを、瞬時に示す。
その現実を、ただみつめるしかない。
自身の甥を、否、甥や仲間や親友というにはおこがましい、尊き存在を・・・。
小さな背。
ある夕刻、多摩川の岸辺に佇むあいつ。
それはもう、ちいさな背で儚かった。そのまま消えちまいそうだ。
そのすこしまえ、おれは丁稚奉公で番頭に凌辱されかけ、その番頭を殴り飛ばして生まれ育った石田村に逃げかえったばかりだ。
おれがそういうことを嫌うのは、そのことが要因している。
兄貴は、「辛抱が足りねぇ」といいつつ、それでも置いてくれた。
いたずらや喧嘩をして過ごす毎日・・・。そんなとき、二人に出会った。
かっちゃんとあいつに・・・。
かっちゃんのほうが先だ。
天然理心流の近藤道場に通う剣術馬鹿。めっぽう強く義にあつく、地元の餓鬼どもの親分的存在。
ひねくれたおれは、反発したもんだ。喧嘩をふっかけては、軽くあしらわれた。ぶっとい木刀をいつも握ってて、道場以外でも素振りをやってた。だが、それを素振り以外に使うことはけっしてない。
たとえ、おれが手近にある棒切れで打ち掛かっていこうとも、かっちゃんは体を開いてそれをかわすだけだ。それから、おれの額を中指ではじいてた。
意外と痛かったのを、いまでもはっきりと覚えてる。
そうこうしてるあいだに、いつのまにかかっちゃんを認めるようになってた。友だちなんぞ必要なかったが、かっちゃんだけは特別だ。
そして、いま一人の親友・・・。
あいつは美しく、弱々しかった。捨てられた仔犬や仔猫よりもちっぽけにみえた。
「おいっおまえ、どうしたんだ?」
たしか、そうきいたはずだ。
多摩川の緩やかな流れをみつめるあいつは、おれをじっとみつめるだけでなにも答えなかった。
おれのことが怖いのか、警戒しているのか、その両方か。
気になったが、肩を竦めて通りすぎた。
まさかその後、みちゃいけねぇもんをみちまう羽目になるなんて、思いもよらなかったが。
あの時分、盗賊の類が横行していた。根っからの盗人もおおかったが、喰い詰めた二本差し崩れもおおかった。そういう連中のほうが、性質が悪い。連中は、盗賊から護ってやるといっては奪っていった。
そんな連中が、石田村の地頭の家、おれの家だが、これを襲う算段をしている現場にでくわしちまった。
喧嘩なれしたおれは、十名近い連中にたいして無謀にも戦いを挑んでた。
無論、正攻法なんかじゃねぇ。卑怯で汚ねぇ手段ばかり使ってやった。
そして、斬られた。背を袈裟懸けに。そんとき、どこからかあらわれたんだ、あいつが。
あいつはおれを軽々と担ぎ上げると、廃墟となった寺の板塀におれの背をもたせ掛けた。
それから、一人、無手で連中にむかっていった。
朦朧とした意識のなか、あいつのちいさな背が、ゆっくりと死地に向かってゆく。
おれの「ゆくな、逃げろ」、という叫びは、実際はうわごとで届いちゃいなかったろう。
もっとも、あいつにそんな忠告は無意味だったろうが。
気がつくと、あいつは斬られて死ぬはずだった傷を治してくれていた。
そのとき、はっきりとみた。みえたんだ、あいつの、あいつの誠の姿を・・・。
昔語りでしか、きいたことがなかった。あくまでも、伝説や御伽噺とばかり思ってた。
だが、おれにはそれがみえたんだ。怖くなかった。それどころか、高貴でやさしささえ感じられた。
その後、名を尋ねても答えぬあいつに、だからこそその姿を、あいつの誠の姿でその名を呼ぶことにした。
龍、と・・・。それは、こいつのなかにたしかにいた。
蒼く煌く崇高なる龍神。餓鬼のときには、それの正式な名まではしらなかったが、いまではそれがなんだったのかわかる。
東方を司る青龍・・・。四神の一神・・・。
あいつら、いや、あいつが救ってくれたのは一度ではない。
あの年、多摩地方一帯にはやり病があった。年寄りや子どもが幾人もやられた。
おれもかかっちまった。本来なら、それで死ぬはずだった。おれだけじゃねぇ。おれを可愛がり、おれも懐いてたばあちゃんも、救ってくれた。
そのお蔭で、ばあちゃんは数年後に大往生できた。
あいつがいなくなったのは、きっとその直後のことであろう。
おれたちの記憶を封印し、あいつじたいの存在を、現実にあったはずのことを、ともにすごしたわずかなときを、なかったことにして・・・。
おれがあいつの恩人?おれが主?馬鹿いってんじゃねぇ。おれは、そんなんじゃなかったんだ。
おれがあいつを救ったんじゃねぇ。おれがあいつに救われたんだ。しかも二度・・・。
佇むあいつに声を掛けただけで、あいつはおれの生命を、かっちゃんを含めたおれの仲間たちを、どれだけ救ってくれたことか・・・。
どれだけ支え、励ましてくれたことか・・・。
はっと気がついたとき、あいつはおれの腕から逃れ、ゆうに五、六間ははなれたところに立っていた。
あいつに、まだかような力が残っていたとは・・・。
その右の掌に握られてるのは、まぎれもなく「千子」だ。
おれの腰から抜きとった得物。
陽光を受けた刃が不吉な光を帯びている。
ぞっとする。「村正」の、銘違いの不吉な刀。
隻眼がおれをじっとみている。
その表情は、二十数年前川の岸辺ではじめて会ったとき同様、寂寥感にあふれている。
これからあいつがなにをするのか、なにゆえかわかった。
「やめろっ!やめろっ、龍っ!」
ありったけの力で叫ぶ。
止められぬことを、あいつの精神を挫くことなど、かなうはずもないってことを存分にわかっているにもかかわらず。
それでもやめさせたい。否、やめさせねば・・・。
そのとき、あいつの口唇が動いた。
「ごめんなさい、歳にいちゃん。ほんとうにありがとう・・・」
あいつは声にはださず、口の形だけでたしかにそういった。
腕を、せいいっぱいのばす。
届くわけもない。物理的にも精神的にも・・・。
忠助と末吉が、うしろで息を呑んでいるを感じる。
あいつの育ての父親は、四つ脚を踏ん張り、ただ静かに息子をみつめている。
こんなもの、みたくもない。吐き気がする。
切腹やら粛清やらで、仲間だった者の死に様はみ慣れ、平気なはずだ。
だが、これはちがう。かようなことは・・・。
後事は、忠助と末吉に頼んでいる。
首級は、草陰で気を失っている敵兵に、体躯は焼くように。
首級は江戸なり京なりで晒されるであろうが、護り神がどうにかしてくれるはずだ。
兄神、否、叔父厳蕃が奪い去り、焼いてくれるに違いない。痕跡を残すわけにはいかぬのだから。
右の掌に握った「千子」が重く感じられる。
命を実行できるか、という不安がよぎる。
即座に叱咤する。
(貴様は、柳生の血をひく剣士のはしくれではないのか?臆病者めっ、斬ることすらできぬのか?)
うちなる存在よ、許して欲しい。恩を仇で返すことを・・・。
存在を認めず、相容れるつとめすらはたさなかったことを。兄神に甘えさせてやれなかったことを。あらゆる苦しみを理解せず、己がことしか考えなかったことを。
だが、いまなら正直に伝えられる。
生かしてくれてありがとう。わたしの大好きな人間たちに、生命と力を分け与えてくれてありがとう。
わたしたちは、弱く寂しがりや。
一緒にいてくれてありがとう。
そして、人間として果てさせてくれることを、ともに逝ってくれることも・・・。
すべてに、心から礼をいいたい・・・。
ごめんなさい、歳にいちゃん。ほんとうにありがとう・・・。
声にださず、感謝を伝える。
普通の人間の子だったら、出会わなかったろうか?
わたしは当然のごとく、江戸柳生の当主の座と将軍の剣術指南役を継ぎ、もしかすると旧幕府軍の一人として、この戦に参加したかもしれぬ。
そして、遠巻きにみたろうか?
京の人斬り集団「新選組」の「鬼の副長」を。有名なその「鬼の副長」と、たった一言でも言の葉を交わすことなく、それぞれ別の場所、別のときに生命を落としたろうか?
いや、やはりこれでよかった。これでよかったのだ。そう、わたしが人間として生まれてこなかったからこそあの出会いがあり、そのあとの生き様があったのだ。
人間の運命などわかりやしない。
神が定め給う道、そんなものはしらぬほうがいい。人間は、自身でその生きる道を切り拓くべきだ。
わたしたちごときが定め給うべきものではない。けっして・・・。
「なにがなんでも生き抜いてっ!あの世に、あなたの居場所はどこにもないのだから。生命を粗末にしないで!叔母や兄貴分たちを、悲しませるようなことはしないで!約束だよ、歳にいちゃんっ!」
自身でも驚いた。泣きながらそう叫んでいた。
歳にいちゃんの暗示の解除は、自身の感情のそれでもあったのかもしれぬ。
否、これまでずっと感情などもっておらぬよう自身で取り繕っていた。
それを、ごまかしていた。
なにをどう伝えていいかわからぬ。
演じる必要も、飾る必要もない誠の感情は、まとまりもないまま、ただ思いつくものから順に飛びだしてゆく。
ははっ!歳にいちゃんの驚いた表情・・・。
(父さん、神送りのときです。人間のことを頼みます)
歳にいちゃんを、父さんを、一つだけの瞳に焼きつける。
「千子」が不意に軽くなった。
ふたたび、わたしの血を吸えることを喜んでいる。
「千子」よ。わたしの血を、神の力を存分に吸わせてやるから、これからは「神剣」として歳にいちゃんを助けてくれ。
気力をふりしぼり、左の掌を柄に添える。
疋田陰流を統べる者に踏襲される「千子」を、刃を自身に向け、左寄り上段に振りかぶる。
みると、それは目映いばかりの光に包まれている。
「千子」は、わたしの血しか吸っていない。初代の所有者である疋田景兼が帯びていた時分には、戦国の世もおわっており、それ以降、人を斬る機会はなかった。
師も、わたしに技を継承し、命を与えただけで師自身暗殺はしなかった。
その息子である忠景が、所有者のなかではじめて人間を斬ったのだ。
皮肉にも、それがわたしだ。
つぎは、わたし自身が斬ることになった。
「千子」もまた、人間とおなじようにもって生まれた理由がある。
神の剣としての命運が、定められている。
「父上っ!あの世からとくとご覧じろ!いまこそ、あのときのあなたの命をはたしますぞっ!わたしは、わたしは人間だっ!人間の子だっ!それを、それをわかってくれ!そして、命じられたことを完遂できたことを、地獄で褒めてくれ!」
天に向かって吼える。
父と思い込んでいた漢に、いってやりたかった唯一の想い・・・。
凌辱された後、直接与えられた使命。
それは、「妖、おまえ自身を始末しろ。妖を退治しろ」であった。
切腹?武士としての崇高な儀式などではない。ゆえに、わたしは柳生江戸屋敷の別棟で、自身の心の臓を刃で貫いた。
だが、あのときはまだ幼かった。未熟だった。臆病だった。
それらが手元をわずかに狂わせ、即死出来なかった。
そもそも、最初から首を刎ねるべきであった。
そのお蔭でいまがある。
そして、いまはあのときと違う。いまならできる。そして、「よくやった」と褒めてもらうのだ・・・。
柳生俊章、わたしはあなたの誠の子ではなかったが、あのときはたがいにそう信じていた。
この日の本の為、このままたがいに演じようではないか?そう、あなたはわたしの誠の父でないが為に、その生命を絶たれたのだから・・・。
これも業。わたしの業は、尽きることをしらぬ・・・。
呼吸を止め、力を抜いて振り下ろす。いつもとおなじこと。いつもの素振りと大差ない。
さぁ柳生俊厳、二十数年越しの命を果たすのだ。
母上、わたしに・・・、臆病者のわたしに、どうか力をお与えください・・・。
歳にいちゃんの声が、わたしたちのことを龍、と叫ぶ声がきこえる・・・。
実際は、あっという間の出来事だ。
高々と振り上げられた刃。あいつの叫び。
それは、おれにたいしてと、父親にたいしてだ。
あいつの実父のことは許せねぇ。だが、あいつにとってはやはり父、なのか。
それとも、まだなにかこだわる理由があるのか?
腕はむなしく伸びたままで、あいつの名を叫ぶ声音もむなしく漂うばかり。
眼前で振り下ろされる刃・・・。
両の瞳は、それから逸らすことができず、為す術もなくそれをみる。
親友が、自身の頸を刎ね飛ばすのを・・・。
日の本一の剣士であるあいつの、生涯最期の見事なまでの手練を・・・。




