狼神(ホロケウカムイ)とその息子
おびただしい死体の数。
つい先ほどまで果敢に戦った将兵たち。
それは、軍神に鼓舞され、生き残る為に必死に戦い、果てた戦人たちの成れの果て・・・。
遺体すべての首筋についているのは、その眼で確認できるか否か程度の横一文字傷のみ。
巧妙な手練。
軍神のくないは、一瞬にして人間の頚動脈を断ち斬り死へと誘う。
斬られた当人すら、斬られたことに気づかぬままに・・・。
狼神の鎮魂の咆哮は、いまは静けさを取り戻した一本木関門に、そして、いまだ戦いのつづく箱館の大地に、海原に、大空に響き渡る。
白い背、違うのはその大きさと四肢を踏み出す躍動感。
当然だ。
白き虎と狼とでは、動き方の癖が違うのだから・・・。
「狼神、桜、遅咲きの桜です・・・」
白き背の上でぐったりしていた少年が、わずかに瞼を開いて呟いた。
全力をだしきり、失われた血により、体躯を動かすことすら難しい。
眠い。
もはや痛みはなく、すべてをやり終えた安心感から、このまま瞼を閉じたままでいたいとすら思える。
その小さな体躯を、狼神が戦場から自身の背に乗せ運んでいる。
白濁した意識のなか、少年はその白い背がどちらの背なのか、判別することすらできずにいる。
関所の前に広がる地獄絵図。
そのすぐ近く、海風を感じることのできる街道沿いに蝦夷山桜が並んでおり、そのなかの一番大きな桜の木が、いまだその桜色の可憐な花を咲かせていた。
わが子の小さな体躯を背からそっと降ろし、年古る立派な幹に背をもたせかけ、坐らせてやる育ての親。
その周囲で、五頭の兄弟たちが心配げにくんくんと鳴きながら、小さな人間の兄弟に寄り添っている。
そして、大空からそこを統べる覇者であり、小さな人間のよき相棒である大鷹が舞い降り、相棒の肩にそっと止まった。
朱雀はあきらかに悲しげで、この小さな相棒の死を受け入れることができないようだった。
「ごめんなさい・・・。わたしを許して・・・」
もう何度詫びたことか。
辰巳という二つ名をもつ暗殺者。
この戦場で、数百人を殺害したばかりの殺戮者は、くないを握ったまま自身がしでかした残酷非道な行いを謝罪しつづける。
朦朧とした脳裏と心奥で、それぞれの意識がせめぎあっている。
もう終いにできる・・・。
もう逝けるのだ・・・。
「ヌイ、モシリ、レラ、チュプ、ラヨチ・・・」
桜の樹に背を預け、くないを握ったままの掌を上げる。
五頭の白き狼たちがよってき、周囲で尻を地につける。
どの表情も悲しみに満ちている。
小さな兄弟。
本来ならずっとずっと兄であるはずだが、五頭にとって、この子は小さな弟も同じこと。
「ありがとう、兄弟たち。わたしにかわり、わたしの人間の兄弟たちを護ってほしい。弁天台場で戦っている仲間を守護してほしい。われら獣の掟。どうかわたしの死に際は、みないでおくれ」
父狼である狼神が、一声唸った。
父のいいつけは絶対だ。
そして、小さな弟の願いも。
五頭は、それぞれの鼻面を小さな弟の異相に擦り付けた。そして、何度も振り返りつつ弁天台場に向かって走り出した。
「わたしの翼ある友朱雀・・・。いままでわたしの眼となり翼となり、大いに助けてくれたことに心から礼をいいたい。ありがとう」朱雀の嘴から、悲痛な鳴き声が何度も漏れる。小さな頭を、翼なき相棒の傷のある相貌に擦り付ける。
「朱雀、おまえも弁天台場にいって、新撰組の仲間を助けておくれ。その後は、わたしにかわってわが主の、わたしの叔父の眼となり翼となって助けてほしい。叔父を、叔母を頼んだよ。朱雀、わが兄神と同じ名をもちし大空の勇者・・・」
物憂げに呟き、はっとする。
わたしは、なにをいっている?
翼ある友人を撫でたくとも、くないが邪魔をしてうまくできぬ。もどかしく感じつつ、四つ脚の兄弟たちと同じように別れを告げる。
「さあ、おもえも、われらの掟の例外ではない。弁天台場にいっておくれ、朱雀・・・」この友人のことが大好きな朱雀は、その頼みをきき入れようとしない。
狼神が、唸り声を上げる。
獣たちの王、獣神の命には逆らえぬ。
朱雀は翼を広げると、まるで人間のように相棒の小さな頭部を包み込んだ。
相棒の主や仲間が相棒にしていることを、みていたに違いない。
「朱雀・・・」
くないを握ったままの右の掌の強張りがどうにかとれ、掌からくないが土の上に落ちる。
相棒の翼を、何度もやさしく撫でてやる。
これほど勇敢で頼りになる鳥はいない。
「お願いだ。おまえに、わたしの死ぬところはみてほしくない・・・。掟に従っておくれ・・・」
最後に一声悲痛な叫びを上げると、朱雀は相棒の肩から羽ばたいた。
その頭上で何度か弧を描いていたが、ほどなく弁天台場のある方角へと飛翔した。
大鷹の勇姿は、青い空のなかに吸い込まれてしまう。
瞼を開けておくのも億劫だ。
両の脚を投げ出し、その太腿の上に置かれたそれぞれの掌。
左の掌には、いまだくないが握られたままだ。
もはや、完全に感覚の失われた左半身。くないを握ったままであることすら、感じられぬ。
その掌の上に、一枚の桜の花びらが落ちた。
少年は、桜が大好きだ。たくさんの国を訪れたが、桜ほど素晴らしい樹に出会わなかった。
少年にとってそれは、心のよりどころ。
昔の思い出に直接結びつく、重要な鍵なのだ。
動かぬ左の掌の桜の花びらから、正面へと隻眼を向ける。
狼神の黒い二つの瞳と合う。
「狼神・・・」
かろうじて動く右の掌を伸ばし、呼びかける。
すぐに白き獣の王が近寄り寄り添う。
大きな頭部を、人間の子の小さなそれへとこすりつける。
人間の子は、白狼にすがりついた。
「父さん・・・。わたしをひろってくれてありがとう・・・。わたしを育ててくれてありがとう・・・。父さん・・・」
感謝を伝えるわが子の異相を、やさしくなめる育ての父。
あまたいる子どもたちのなかで、おまえが一番いい子だった、と告げる育ての父親・・・。
「父さん、お願いです。どうかわたしにかわってわが主を、叔父をお願いします・・・。くっ」
苦しげに呟く。それは、傷によるものではなく、少年のいまひとつの意識によるものだ。
そのせいで、こちらに数名の人間と騎馬が近づいていることもわからぬ。
狼神のぴんと立った二つの耳朶がわずかに動き、気配のある方向に鼻面が向けられる。
そして、狼神は、そっとわが子からはなれた。
わが子が主と慕う人間と、対話をする為に・・・。




