龍髯虎尾(オフリミット)
「ふんっ、ときがかかりすぎておるのう、大久保よ?」
江戸の岩倉の仮の住まいは、江戸城の一画にある。
岩倉は生活の場には頓着せぬようで、どうやら中間か小者が詰める部屋に洋式の家具を運び込ませたようだ。
場所はかわれど、飲酒という習慣だけは不変だ。
大久保が呼びだされた時にも、いつものごとく大久保が手土産に持参し薩摩焼酎を円卓の上に置き、一人手酌で呑みつづけた。
この日は、ありがたいことに一対一ではなく、長州の木戸が腹心の大村を連れて同席していた。
大久保は、長州の中でも木戸のことだけは買っており、その秀麗な相貌をみて密かにほっとした。
「お言葉ながら、此度の戦、わが軍は主力の長州勢を補佐しているようなもの。戦況云々は大村殿にお尋ねされたほうが、よろしいかと」
うんざりだ。岩倉にも長州にも。
結局、薩摩はその兵力、影響力を利用されただけに過ぎぬ。
そして、間もなく決着がつくであろうこの戦の後始末は、薩摩に押し付けてくるはずだ。
敵味方のすべての不平不満、この将来に横たわる不安。
これらが怒涛となって襲いくることが、容易に想像できる。
その所為で、大久保は眠れぬ日々を過ごしている。
大久保の嫌味が通じぬのか、あるいは聞き流しているのか、この戦の総司令官「火吹き達磨」は、どこ吹く風である。そのでっぱったでこの下にある小さな双眸を、天井に向けている。
それを追ってみた。そこには、奇妙なしみが幾つかあるだけだ。
そのしみの形状や付着の仕方から、どうやら血痕であろうことがわかる。
迸った血・・・。
いつの時代にか、この部屋で刃傷沙汰があったに違いない。
ふと、木戸と視線があった。
形のいい口許に、いいようの笑みが微かに浮かんだが、それはすぐに消えうせる。
「なれど、わが軍の陸軍奉行黒田の采配の下、すでに箱館への総攻撃が始まっております。もう間もなくかと・・・」
「あの餓鬼は?先日も桐野は密命をしくじったな?」
木戸と大村が、同時にそれぞれの方法で反応した。
自身らの与り知らぬところでなにかがすすんでいる、あるいはすすめられているのだとすれば、あまり気持ちのいいものではない。
たとえそれが、どんな糞野郎から発せられた糞みたいな命であったとしても・・・。
「策など弄せずとも、近衛大将軍は最初から死ぬおつもりです」
意図的に官位を使う。
まだわからぬのか、この糞野郎?と叫びたくなる。
大久保は、武人という人種を好きにはなれぬが、まったく理解できぬわけでもない。
すくなくとも、いまここにいる岩倉卿や大村よりかは、単純一途でよほどわかりやすいしあつかいやすい。
しかも、あの小癪な童は、薩摩軍の兵卒の生命を助けてくれたばかりか、意図的に長州の兵力を削いでまわってくれている。
自身の幼馴染である西郷への、義理立てなのであろう。
わからぬ。なにゆえ、敵であるにもかかわらず、ここまでしてくれるのか?
奇跡ともいえる偶然で知ってしまった真実・・・。
これを使えば、薩摩がこの日の本を統べることができる・・・。
だが、この真実は人間ごときの浅慮愚考で、どうにかしたり操れる類のものでもないこともわかる・・・。
それを知ってしまい、そのことじたいを当事者たちに知られてしまった以上、われわれのゆきつくさきは、平穏安寧とは程遠い。
それも詮無いことか・・・。
あの童には、いずれ詫びるとしよう。あの世で・・・。
「さる儒学者より、面白い噂をききました」
大久保は、そう切り出す。
ささやかでも、不意打ちの一つくらい喰らわせてやりたい、という童じみた衝動を抑えきれなかったのである。
岩倉も木戸も大村も、それをそれぞれの相貌にそれぞれの表情を浮かべただけで、さして邪魔するわけでもなく静かにきいている。
元中間部屋は狭く、大人四人では窮屈だ。
いまも小さな円卓の周囲に木製の椅子を配置し、身を寄せ合うようにしている。
岩倉は壁に棚を作らせているが、そこには空のギヤマンの壜と同じ素材のコップが並んでいるだけで、じつに殺風景だ。
どうやって寝ているのだろうか?
どうでもいい疑問が脳裏をよぎる。
「われらが英雄たる、近衛大将軍の出自についてです」
木戸の眉間にかすかに皺が寄る。
大村は天井の奇妙なしみに双眸を戻したが、耳朶まではそうはいかないようだ。
そして、岩倉は「ふんっ」と鼻を鳴らしてからコップを傾け、中に満たされた液体を口唇の間に注ぎ込んだ。
「祖神の裔、と申せば、さぞかし興味をお持ち頂けるかと?」
岩倉も木戸も、無関心を装う大村でさえ、文字通りそれぞれの相貌に驚愕の色を浮かべた。
大久保は、心中それを大いに愉しんだ。
「馬鹿なことを申すな、大久保?」
岩倉の声音は弱々しい。
脅しのつもりで口の端に上らせてみたが、この話は根も葉もない噂というわけでもないのか?
「滅多なことを申されるな、大久保殿・・・」
円卓をはさみ、木戸が声を潜めて忠告した。
眉間の皺が濃くなっている。
岩倉の態度を目の当たりにし、木戸も警戒している。
「滅多なこと・・・?木戸先生、たかだか暗殺者が近衛大将軍の官位を賜るなど、まずもってございませぬ。会津中将ほどの位階と家格ならばともかく、将軍家の剣術指南役、たかが一万石の譜代。柳生但馬守ごときはせいぜい将軍家の護衛で宮中に参内できるのがようやっと・・・。しかも、近衛大将軍自身はその生家すら嫡子として認めなかったとききおよびます・・・」
大久保は、知りえたことを滔々と語る。
「しかも、その噂の出所は、おそらく岩倉卿と同じところでございます」
「やめろ、大久保っ!」
刹那、酒精など吹き飛ぶ勢いで岩倉卿が立ち上がった。
その勢いで椅子が傾いたが、倒れてしまうには空間がなさすぎた。
うしろに置かれた棚に、背もたれがひっかかり、中途で止まってしまっている。
「この痴れ者めがっ!」
岩倉は、掌を伸ばして大久保の胸倉を掴んだ。
円卓をはさんだまま、自身へ引き寄せる。
そのすさまじいまでの剣幕に、大久保は自身がまた虎の尾を踏んでしまったことを直感した。
「命が惜しくば、すぐにその軽い舌を引っ込め薄っぺらな口唇を閉じ、呆けた頭からきき及んだすべてのことを忘れるのだ。貴様、このわたしを脅そうというのだろうが、貴様のしていることはこの日の本そのものを破滅に導くことになりかねぬ、愚か極まりないことなのだぞ」
恫喝、というにはその双眸に畏怖の色が濃い。醜態を晒したあの宴とは、比べものにならぬほど脅えている。
「その噂の元である伏原がどうなったか、貴様は知らぬであろう?そして、これでこの場にいるわれら四人、これで天寿を全うすることなく早世するわけだ」
大久保の胸元を力いっぱい押すと、岩倉は疲れきったように椅子にどさりと座り込んだ。
木戸も大村も、伏原宣明のことは知っている。
光格天皇、仁孝天皇、そして先帝孝明天皇に仕えた儒学者。
三代の帝だけでなく、多くの公卿や諸侯とその家中の者も教えを乞うている。
無論、岩倉もその一人で、岩倉の才を見抜いた伏原は岩倉家に養子縁組の労を取ったのだ。
現在の岩倉があるのは、ひとえにその儒学者の存在があったからであるといっても過言ではない。
「暗殺されたのだ」
その呟きは、江戸城の中間部屋にいやに大きく響いた。
大村は、部屋の内に視線を走らせた。
すぐにでもこの狭い部屋に例の鯉の童が現れ、自身を殺すかもしれない・・・。
「たしか古稀を過ぎ、老齢による感染症かなにかで亡くなったと・・・」
自身でいいながら、木戸はそれが体裁であることを認識した。
「大久保、これで満足か?貴様は、禁忌に触れた。残念だったな。わが師伏原の記した文献は、封印しておった。それを、わざわざ暴きおって・・・」
二度、三度と杯を傾ける岩倉。それを呆然とみつめる三人。
大久保と大村は暗殺。木戸と岩倉は病死。
いずれも早世した。
岩倉の予言は、的中した。




