紫電一閃
一本木関門は、箱館政府がその財源を確保する為に設けられたものである。
あらゆる人々から、通行料を搾取する。
五稜郭から出陣した際は額兵隊二小隊だった人数も、千代ヶ岡台場から逃れたり、はぐれたりした将兵を吸収しつつ陣容を整え、一戦交えられるだけの様相をていした。
少年は別行動をとっており、海上でくりひろげている海戦の様子を探りにいっている。
一本木関門は箱館からも海岸からもちかく、その煽りをまともに喰らう位置にある。すなわち、ここをどうにかしなければ、弁天台場で孤立している新撰組を救うどころか、背後にある本陣そのものがなくなってしまう怖れがある。
土方が関所に到着したのとほぼ同時刻、海上で大爆発が起こった。
味方の軍艦幡龍の砲撃が、新政府軍の朝陽丸の弾薬庫に命中、それを見事撃沈したのである。
この奇跡の撃沈劇の影に、ちいさな策士が飛びまわったことはいうまでもない。
戦局的にはおおきな影響はないが、それでも敗戦色濃い場面にあり、新政府軍の甲鉄につづく主力艦の撃沈は、箱館戦争終局時のこの戦において、ささやかでも意義と効果がある。
朝陽丸には、佐賀藩出身の艦長中牟田倉之助ら佐賀藩の海軍将兵がおおく搭乗しており、中牟田が重傷、副艦長以下五十名あまりを喪った。
このときの大爆発は、混乱きわまる陸海で戦闘しているすべての者の手を止め、双眸を、耳朶を、向けさせるに充分な威力があった。
どこで戦っていても、すべての者がその大音声の方角へ、それらを向けたという・・・。
「この機、失するべからず!」
一本木関門からはわずかの距離。
この僥倖を身近に感じた土方は、馬上、抜き放った「千子」をうちふり、周囲の将兵に呼ばわる。
土方は、この機をつくったのが自身の甥であることがわかっている。
それゆえに、よりいっそうこの千載一遇の機会を逃したくない。
「右側面より、敵の一個大隊が迫っております」
関所ちかくで、土方の補佐役の一人、陸軍奉行並添役の大野右仲が騎馬で駆けつけてきて報告した。
唐津藩出身で、新政府軍との戦のなかで土方に惚れ込み、仙台で新撰組に入隊した。幕府直轄の昌平坂学問所で学んだだけあり、頭脳面で土方をよく補佐している。小柄で眉目秀麗、性格も控えめでつねに前向き。古参隊士ともうまくやっている。
土方も、古参隊士と同様に重用している。
「そっちは心配いらねぇ・・・」
土方は、薩摩の商人五代が運んでくれた妻の亡夫のものだった名刀を鞘に納めながら断言する。
大野は、その右肩に大鷹がいることに気がついた。
「しかし、大砲を・・・」
報告のつづきをしようと口を開いた瞬間、迫っていた背後の敵軍から声が上がった。
喊声かとこぶりの相貌を首に埋めたが、どうやら悲鳴のようにうかがえる。
「辰巳だ、辰巳がくるぞ」
「軍神だ!鉄槌を下されるぞ!」
恐怖の伝染ははやい。
一角が崩れ、それは瞬く間に隣へ、それから前後左右の小隊へとあっという間もなくひろがってゆく。 逃げ惑う兵卒。それを束ねるべき将官もまた、歩兵とおなじく自身の脚で、こちらは首を狩られる恐怖のあまり、われさきに駆けてゆく。
将官たちは、騎乗していたはずの騎馬がいうことをきかず、それから飛び降り一目散に逃げてゆく。
「おやおや・・・」
先刻の大爆発以降、静かになった戦場を悠然とあるいてくる少年。そのうしろには、何頭もの無人の騎馬が従っている。
長く悪夢のような夜はやっと明けた。この日も天気がいい。
大野は汗まみれになっており、油断なく周囲に視線をはしらせながらも額に浮かぶ汗を掌で拭う。
土方の右肩から大鷹が飛び立った。
朱雀は、少年からの指示で周囲を偵察するのである。あっという間に青い空に黒い染みができ、二、三度円を描いた後、弁天台場の方角へと飛び去った。
「辰巳という名も、ずいぶんと嫌われたものです」
少年は、まるで他人事のようにいいながら、土方の騎馬の足許で片膝を地に付け控える。
「沈んだ朝陽丸は、沈めた幡龍とは僚艦でした・・・」
大野は、隻眼を伏せ呟くように報告する少年を、ただただ驚嘆してみ下ろす。
土方の横で幾度もみせられた奇跡ともいうべき奇策戦術の数々・・・。
それらは、いずれも昌平黌(昌平坂学問所の異名)で学ばなかったことばかりである。
土方局長の甥は、噂以上の軍師である。
「おおくの敵の将兵もまた、ともに海に沈めてしまいました・・・」
少年は、沈めた艦とそれとともに殺めたおおくの戦人の為に、海の神に鎮魂を依頼した。
人間を殺めし妖・・・。
自身にたいするこのいい訳も、すでにそらぞらしい。
もう、殺めることじたい苦しいのだから・・・。
「道を斬りひらきます。大野添役、どうか弁天台場へお先に・・・」
相貌をあげ、大野をみつめる隻眼。
事前に打ち合わせていた。土方を生かす為に、どうか力を貸して欲しい。
大野自身の為に詳細はしらせないが、信じて欲しい・・・。
大野は、これがそうだと直感する。
「大野添役、おれの戦術の基本は孫子です。ただ、あなたの戦術より、よほど小賢しくて残酷なだけです」
少年は、やわらかい笑みとともに添える。
心中をよむことができるともきいていたが、すべてが誠のことであったとは・・・。
大野は、詳細をしらされないことが残念でならない。
だが、土方の為といわれれば、ここは信じるしかない。
それが大野自身の義。あらゆる意味で惚れ込み、尊敬する漢の為ならば・・・。
「大野、すまぬがこいつのいうとおり、隊を率いて弁天台場にいってくれ。ここは、おれたちだけでなんとかする。すぐに追いかける」
「承知」
少年には心中で、土方には声にだして応じる。
「おそれながら・・・」
少年は、土方の騎馬ににじりよる。
土方の騎馬は、少年に声をかけてもらいたくて騎手を落とさない程度に馬首を必死に向けようとしている。
少年はちいさく笑うと、立ち上がってその鼻面を撫でながら馬上の土方に囁く。
「局長、おれのわがままをきいていただけませんか?あなたに、みていただきたいものがあります」
土方は、昨夜、否、つい先刻まで自身の腕のなかで語り合ったとはまったく別の甥をみ下ろしながら、あらためて甥の精神力の強さを驚嘆せずにはいられぬ。
島田がつくり直した軍服。それでもちいさな体躯にはおおきいようである。
「あなたにも疋田陰流を継いでいただきたく・・・。剣そのものの技は、新八兄に託しています。新八兄は最高の剣士です。精神、技量、どちらをとっても現在のこの日の本のなかで、おそらく五指に入ります」
「なんだって?新八は、かようにすごいのか?」
土方は、心底驚いた。こいつが、これだけの評価を与えるほどだったとは・・・。
「厳蕃殿も警戒していました・・・」
少年は京でのことを思いだし、くすりと笑う。
おなじ「近藤四天王」たる沖田や斎藤も、凄い剣士であることにかわりはない。だが、永倉新八は格が違う。だからこそ疋田陰流を、柳生新陰流の宗祖柳生石舟斎が教えを乞うた上泉信綱や疋田景兼の技を託したのである。
「「千子」は、もともと疋田陰流を継ぐ者の佩刀。ときがありませぬので、あなたにはその精神を、いまここで感じていただきたく・・・」
土方は、平素とはちがいいきいきと述べる甥をみ下ろしながら、その秀麗な口の端に笑みを浮かべる。
こいつは、誠に剣術馬鹿なんだと心中思う。同時に、自身のもう一振りの懐刀斎藤のことが脳裏をよぎる。あいつも、剣にかけては相当な馬鹿だ。
いまごろ、どうしているであろうか・・・。
かような二人に暗殺やだまし討ちなど、あまたの穢れ仕事をさせた。二人とも、それを黙々とこなしてくれた。不平の一つもいわず、完璧なまでに。それがどれだけすごいことか、いまさらなが実感してしまう。
確実にいえることは、「土方二刀」はどちらも自身にはすぎた業物である。否、刃などという無機的な代物などではない。
自身の懐を満たし、護ってくれる護符だ。
そう思うと、たまらぬ気持ちになる・・・。
「一兄もおれも、あなたの刃として働けたことを心から嬉しく思っています、局長」
その心中をよんだ一振りが、いつものようにやわらかい笑みを浮かべ、自身をみ上げている。
「「千子」を、お借り願えますか?」
「あ、ああ・・・。精神を感じる、か・・・。はたして、おれにできるか?」
ちいさな剣豪は、ふふっと笑う。
それは土方の緊張を解く類のもので、実際、土方は両の肩から力が抜けたような気がした。
「句を・・・。俳句を・・・」
「ああ?なんたっていま、ここでかような言の葉がでてくる・・・」
句に反応し、声を荒げてしまう。
いつもとかわらぬ反応。つぎは、総司のことが思いだされる。かっちゃんの懐刀。自身らの弟分。
総司は、どうしているであろう?
労咳で命を落とすはずだった総司。こいつのお蔭で、九死に一生を得た。きっといまごろ、原田とともに尾張の片隅で、剣術修行に明け暮れているのであろう。
信江に、おれの悪口やら笑い話やらをしながら・・・。
「句作とおなじことです。四季を、自然を、そこにある情景を感じるのとおなじこと・・・」
「だったら、とんでもなく駄作になっちまうのでは?」
轡を取る忠助の呟きが、やけにおおきい。
「い、いえ、そういうふうに感じる、という意味で・・・」
甥が慌てて補足するのを、笑いながら制する。
「いいたいことはわかってる。忠助、おまえには、この戦がおわったら、いやというほどおれが感じて記した「豊玉発句集」をみせてやる」
口許には笑みを、目許には凄みを利かせ告げてやる。
忠助は両の掌を擦り合わせ、拝みつつ、丁重にそれを辞退する。
「へ?それだけは、どうかご勘弁を。せっかく、この戦に生き残っても、それではわたしがかわいそすぎる。それよりか、あんな句集を、いまだにもちあるいてるってことの方が驚きです・・・」
取り囲む将兵から、笑い声が上がる。
古参の一人忠助は、いつもこうして隊士や仲間たちに笑いを提供してくれる。なくてはならぬ存在だ。
「ああ、そうだな。糞の役にも立たぬ・・・」
「いやいや、局長。野糞のときには、それをちぎって尻を拭けばいい・・・」
またしても笑いが起こる。
苦笑する土方。
「豊玉発句集」。句作するなときがあるわけでもなく、ただたんに懐に忍ばせているだけである。
ひとえに、思い出。これがあれば総司を、さらにはかっちゃんや新撰組の仲間たちを、つねに感じていられるから・・・。
「みている。否、感じられるよう努めよう。頼むぞ」
腰から「千子」を鞘ごと抜き取り、馬前に立つ甥に手渡す。
「承知」
甥は、両の掌で丁重にそれを受け取る。
一礼すると、そのままちいさな背をみせる。
すでに次なる敵が迫っている。
「大野添役、あなたもともに感じて下さいますよう。おれは、天下の大罪人。しがなき人殺しにすぎぬ存在。なれど、幼き時分より剣術は好きです」
その言にはっとしたのは、この場にいる全員である。
「敵が退きましたら、弁天台場に向かっていただきますよう。どうか、新撰組をお頼み申し上げます」
あらたな敵が、関所の向こう側にみえる。
三基のアームストロング砲をひっぱっり、それを最前列に配置している。
ちいさな背が、ゆっくりとそちらに向かってゆく。もはやふりかえることもなく、ゆっくりと敵軍へと向かってゆく少年。
土方のこめかみが、いつものように痛む。
敵の砲兵隊と、それを護る二個中隊が展開しつつある。
どうやら、佐賀の砲兵隊に長州と薩摩の中隊という混合部隊のようである。
ゆっくりと歩をすすめながら、敵軍を油断なく観察する。
薩摩の将官二名が、馬上こちらをうかがっている。どちらも、この戦のなかで幾度かすれ違った相貌である。
二人は、そうとわからぬ程度に頷く。それから、自身らの隊をわずかにほかより後退させる。
どうやら、真剣に戦う気はないらしい。うまく立ちまわってくれるだろう。
「千子」に詠唱を送り、それとすばやく会話する。
「千子」は、尾張でのできごとを語ってくれた。
桐野利秋が肥後の河上彦斎を連れ、厳蕃に会いにきたこと。そして、厳蕃がその二人を害そうとしたこと。少年自身の出生の秘密を、西郷と桐野はしっており、厳蕃は少年がそれに気がついたであろうことを、しらされたこと・・・。
だからこそ、いまここにこの「千子」がある。
自身にそれらを伝える為に・・・。
またしても、脳裏に昔の情景がよぎる。
これは自身の記憶ではなく、もう一つの存在の記憶・・・。
否、それは少年自身のものでもあるの・・・。
もはや、自身がなんなのか、いったい、自身についてどう解釈すればいいのか、混沌としすぎていて想像すら難しい・・・。
「解・・・」
自身の左の腕と「千子」の鞘に指をはしらせ、剣士として、兵法家としての封印を解く。
同時に、気を開放しはじめる。
それは大地を鳴動させ、大気をふるわせるほど強大なもの。
人間も動物たちも等しく、その強大さを十二分に感じ、同時に心身を揺さぶる。
敵味方関係なく、人間はただそれをみつめている。
攻撃するどころか、指先一本動かすことかなわぬ。
敵軍はその場に硬直し、悠然とあるいてくる少年をみつめている。
標的は、三基のアームストロング砲。
「千子」を左腰の革ベルトにはさみ、下げ緒をきっちりと結ぶ。
それは、一種の儀式だ。袴であろうがズボンだろうがかわらぬ。
すでに両の脚は、居合い抜きの正確な間合いをとる為に摺足になっている。
気の充実・・・。
悪しき妖としての、否、自身の素である特殊な力などではなく、剣士として、兵法家としての気組み。
柳生新陰流の源流は、剣聖上泉信綱の心技。
柳生と疋田は、剣聖をおなじ師にいただいた、いわば兄弟流派。
だが、当時、その拮抗した力はわずかに疋田が勝っていたという。
柳生新陰流の極意は、宗祖石舟斎の努力と苦闘の末のものではあるが、疋田陰流の影響も多大に受けている。
絶やすわけにはゆかぬ・・・。
当時、石舟斎をも負かした疋田陰流の宗祖疋田豊五郎景兼の心技を受け継ぐ者は、この日の本の各地にいるのは間違いない。だが、この「千子」を継承された正統の心技を、天下の逆賊である自身が地獄にまでもってゆくことは、疋田家への、ひいては剣聖や剣術そのものへの不義となる。
現在ここで起こることをみた敵味方の剣士たちが話だけでもいい、かような技があったということを、後世に伝えてくれればいい・・・。
腹部の傷がまた開いた。
そもそも、焼くぐらいでどうにかできるものでもない。
人間であったら、甲鉄で撃ち抜かれたと同時に死んでいた。
否、死ぬ?そもそも、死んはずのこの身が、さらに死ぬことを考えることじたい、おかしいのではないか?
それをいうなら、なにゆえ、かようなまでに血が流れるのか?死者なら死者らしく、体温と同様無血であるべきだ。
死人、死霊の分際で、流れ落ちる血のことを案じるとは・・・。
少年は、摺足で敵の砲兵隊へと迫りながら自身を叱咤する。
(集中しろ。いらぬことは考えるな。貴様はなんだ?せめて、好きな剣の技だけは成功させてみよ)
戦場とは思えぬほど静かである。その原因は、さきの朝陽丸の大爆発の影響より、少年の発する強大な気の影響のほうが強い。
さらに、これから起こるであろうことをだれもが予見していて、だれもがそれをみてみたいと願っている。敵味方、等しく。
甲鉄の甲板上で起こったことは、辰巳、否、軍神の起こした奇跡の一つとして、味方はもとより敵にもしれ渡っている。
みたかった、あるいはそれを目の当たりに出来ず、残念に思っている者もすくなくない。それは、箱舘政府直轄の関所に集った敵軍の将兵のなかにもいる。
少年の気にあてられなくとも、みつづけていたいと切望すらしている。
薩摩軍の中隊の将兵たちは、東郷を救ったその技を是非とも拝みたいとだれもが願っている。実際、銃を構えることすらせず、頸や背を伸ばし、これから起こることを目撃しようと必死である。
すでに呼吸は深く、剣士としての封印は解かれている。「千子」との会話はおわり、「千子」はこれからふるわれることを、望んでさえくれている。
心技体剣、この四つが同化しなければ成し得ぬ技・・・。
呼吸を、気を、さらに深くしてゆく。
そして、目標物が少年自身の間合いに入った。
あいつが誠の剣士であったことを、これほど思いしらされたことがこれまでにあっであろうか?
それほどまでに、いまのあいつのちいさなはずの背は、とてつもなくおおきい。
もはや、こめかみのいつもの痛みなど消え去っている。
あいつの背を、これから起きることすべてを、この瞳に、そして脳裏に焼きつけ、あいつの精神を感じ、ともに引き継ぎ、伝えねばならぬ。
それが、死にゆくあいつの望みなのだから・・・。
身の内が震えている。全身が鳥肌立ってやがる。こんなことは、生まれてはじめてだ。これまで、生命に関わる大事は、一つや二つじゃない。だが、これは違う。生き死にとは違う意味だ。まるで、魂そのものが揺さぶられてる感じだ。
敵ですら、あいつがこれからおこなうことをみたがっている。
たいしたものだ。誠にたいしたものだ、あいつは・・・。
あれが日の本一の剣士、柳生新陰流柳生俊厳・・・。そして、わが甥・・・。
無音。
この場においてすべての音が遮断され、空気すらその流れを止めている。
いま、この場に敵味方合わせいったい何百人いるのだ?
想像もつかぬが、兎に角、何百人の何千個もの瞳がちいさな餓鬼一人の動きを追っている。
敵の大砲。三基のアームストロング砲。佐賀藩の異国の武器。あの鉄の塊を、一本の薄刃の鋼で両断するつもりなのだ。
甲鉄の甲板上でおこなったとおなじように・・・。
そのことは、野村からきいた。
鉄の塊を両断するなどと、あいつ以外の者だったら信じやせん。それどころか、大法螺吹きだと蔑んだだろう。
あいつがいないとき、仏軍の将校の一人からきいたことがある。
あいつには欧州や清国で、「敵の一個旅団」や「千人隊」をたった一人で殲滅した、という伝説があまたあるという。
つまりは、巷談やかっちゃんの好きな軍記物にでてくる「千人斬り」ってやつだ。
それも、あいつならやれる。そう、おれたちを京から大坂へ落ちのびさせる為にやったときのように・・・。
あいつのすごさは、おれが一番よくわかっている。よくわかっている・・・。
三基は、いずれも大型の砲である。佐賀藩自慢の砲に違いない。高さは十尺、砲身の長さも同様だ。重さは、百貫は越えているに違いない。
すさまじい集中力だ。あいつの呼吸を、鼓動を、はっきりと感じる。深い。おれも含めた全員が、いまやおなじように意識を深くしているであろう。
柳生俊厳、おまえは立派な剣士だ。だれもがそう認めている。
視覚に頼ることはない。ただ感じればいい。
鯉口を切る。
立派な武器として造られし大砲よ、すまぬ。悪く思わないでくれ。わが刃の糧となれ。
「千子」よ、わたしを信じろ。われと同化し、わが刃(掌)となりてすべてを両断せよ・・・。
徳川家に仇名す悪しき名刀「村正」の銘違いの刃は、なんの拵えもない鞘から抜き放たれ、ふたたびそれに納まる。
この場にいるいかなる者も、それをみることどころか感じることすらできぬ。
摺足でわずかに横に移動すると、また鯉口を切る。深く息を吸い込み、それを吐きだす。肺のなかが空っぽになったと同時に白刃が鞘から解放され、また元に戻される。
さらにもう一度、繰り返す・・・。
三度目がおわったとき、鍔に親指をかけたまま右側の脚をわずかに開いて曲げ、上半身もまた左に開いて残心する。
手応えは十二分にあった。
甲鉄でのそれより、はるかにうまくいったと感じる。
くる日もくる日も素振りをつづけてよかったと、心から思う。
これだから、剣術は素晴らしい。
鼓動も呼吸も平常に戻ってゆく。たっぷりと余韻を愉しんでから、両の掌を太腿のつけ根に添え、姿勢を正す。わずかに頭を下げる。それは、斬った相手にたいする礼である。
刹那、三基の大型大砲が縦方向真ん中の位置でずれ、十尺はあろう砲身は台座ごと縦方向に裂かれ、そのまま左右に分かれて土の上に轟音を立てて倒れた。
にわかに拍手が沸き起こる。敵軍の兵卒の間から。その波は、じょじょにひろがってゆく。
いまや敵味方関係なく、全員が惜しみなく拍手し、称讃を送る。
天下の大罪人、稀代の暗殺者、ちいさな剣豪にたいして・・・。
馬上、薩摩の将官たちは拍手しながら、左右の側近に囁く。
「よかどか、もしも長州の馬鹿どもがあん童に攻撃を開始すうごとでしたら、わが軍はそれにたいして誤射してしまおいもす。あん童は、わが薩摩の恩人。そん恩を仇で返すよなこっだけはできもはん」
「それにしても、すごか童ござんで。死なせたくんです・・・」
薩摩軍は、長州軍や佐賀軍を牽制しつつ、徐々にこの戦場より離脱をはじめた。
佐賀軍と長州軍も退きはじめる。それは、小さな剣士にたいする礼に違いあるまい。
その機会を利用し、大野が寄せ集めの一隊を率い、弁天台場へと向かう。
朱雀の物見では、すでにこの一本気関門へあらたな歩兵隊が向かっているという。
好機・・・。
少年は呟く。
ついに、策を決行すべきときが巡ってきた。
剣士としての余韻は、すでに吹き飛んでしまっている。
主を逃す為、その生命を救う為、そして、すべての決着をつける為、最後の大芝居をうつべきときが、ようやっとやってきた。




