唯一無二の夜・・・
これを目の当たりにすれば、いやでもこいつの痛みや苦しみがわかる。
こいつが試衛館にあらわれたときから、こいつの寝姿をみたことがない。
再三、せめて屋内で眠るようにと、かっちゃんや源さんをはじめ、みなが口煩くいったもんだが、こいつはついぞ、いいつけを守らなかった。
そのうち、だれもなにもいわなくなった。
京にきてからは、これは暗殺者の習性だとつくづく思い知らされた。
だが、それも度を過ぎたもんだったんだと、いまさらながら思わざるをえない。
こいつの生き様は、おれたちの想像の範疇を越えているどころか、異常でしかない。
寝台の傍に立ち、うなされているこいつをじっとみおろす。
心身のあらゆる傷が、こいつを苦しめている。高熱によるものかとも思ったが、汗一つかいてはいない。平素からぞっとするほど体温が低いが、これだけの傷を負っていても熱一つでぬとは・・・。
島田の言が、ずっと耳朶に残っている。厳蕃殿の言もまた・・・。さらには、山南さんの言も・・・。
気がつけば、おれはこいつの細頸に両の掌を添えていた。誠に細い首頸だ。
このまま力を入れさえすれば、こいつは楽になれる。あらゆることから開放され、かっちゃんやお袋さんの元へゆける・・・。
これで二度目。
おれ自身の誤解から、こいつの心を傷つけちまった。だが、いまはあのときとは違う。あのときとは違う・・・。
そのとき、こいつがほとんどききとれぬほどの声音でなにかいった。
はっとわれにかえる。
まだ、掌をこいつの細頸にかけたままだ。
「父・・・上・・・。おやめ・・・下さい・・・」
夜も更け、五稜郭は闇と静穏に包まれている。室内は、洋燈のささやかな音がするだけだ。
こいつのうわ言。たしかに、そうきこえた。
気がつくと、掌にこいつのちいさな掌が添えられていた。
隻眼が、じっとみている。
このささやかな灯火のなかで、すべてを見透かし、呑み込んでしまいそうなほど濃く深いのがわかる。
「局長・・・?申しわけありませぬ。おれは・・・。おれはまだやれます。あなたの・・・、あなたの掌を煩わせるつもりはありませぬ・・・」
こいつはいったい・・・。
細頸から掌をはなすと、寝台の傍に置かれた椅子に腰をおろす。
なにゆえか、おかしさがこみ上げ、実際、笑声をあげてしまう。
「なにがあった?」
自身のことは棚に上げ、これまでずっと気になっていたことを口の端に上らせる。
「父親との間になにがあった、ときいている」
椅子の背に上半身を預ける。
疲れている。
「なにゆえ、だまっている?柳生俊章との間に、なにがあった?いえっ、坊っ!」
怒鳴りちらす。
すでに察しはついているにもかかわらず、こいつの口からききたかった。
こいつは横たわったまま、右の二の腕をみえる方の瞳の上にのせ、それから口唇をひらける。
「おれは、三歳の時分より師である疋田景康に指南を受け、暗殺をつづけてきました。十歳になったばかりの時分、師から命を受けました。それは、師自身を殺すことです・・・」
驚きの声がでぬよう、ぐっと我慢する。
「その命を下したのがだれかは、想像に難くありません・・・。その夜、師は自害しました。おれはずっと、それがおれの為であるとばかり思い込んでいました。いまにして思えば、師は自害ではなくなにものかに暗殺されたのです。命を下した者は、おれが命に従ったと思っていました。そして、師の息子である疋田忠景もまた、そう知らされたはずです。もっとも、それを信じたかどうかはわかりませぬが・・・」
「おまえの師を殺ったのはだれなんだ?」
「・・・。柳生厳蕃、です」
「なん・・・だと?おまえたちは、兄弟弟子なんだろう?なにゆえ、厳蕃殿が自身の師を?」
「おれの為、です。おれのある秘密を護る為、厳蕃殿は、みずからの師をも殺さねばならなかった・・・」
瞳の上にのせていた腕をずらすと、主の左腰の「千子」が垣間みえた。
わたしは、なんなのだ、いったい、なんのためにここに?なにゆえ、このときにあらわれたのか?なんのために造られたのか・・・?母上、わたしという存在は、いったいなんなのです・・・?
自身の出生の秘密は、先帝からの密書で知らされた。
自身の意識が失われつつあるいま、古の記憶が、これまでの軌跡が脳裏をよぎる。
そう、わたしたちはたしかに一蓮托生、長い長い間、幾度も幾度も転生を繰り返し、この人間の世をみ、感じ、淘汰し、矯正をおこなってきた・・・。
そう、おこなってきた・・・。
辰巳とは?これはいったい、なんなのだ?わからない。わかりたくもない・・・。
わたしはただ、わたしを救い、拾い、生きる希望と光を与えてくれた人間の子に、その恩を返したかっただけだ。
その人間の、一振りの刃となりたかっただけだ。
「江戸柳生から、父から呼ばれたのは、師が死んだすぐ後でした。江戸柳生邸で、生まれてはじめて父に会ったのです・・・」
まがりなりにも将軍家の剣術指南役であり、一万石を有する大名である。
藩主は将軍家の剣術を指南する為江戸に定府し、それゆえに江戸にそこそこの屋敷を所有している。
ちいさいながらも謁見の間の上座には、当主であり藩主たる柳生俊章が座しており、下座には高弟たちが居並んでいる。
その当時から家老を務めていた牧野や坂巻も、俊章に一番近い位置で端座している。
平伏する息子。本来なら嫡子であったはずの童への、俊章の第一声は「まだ生きておったとはな、妖め」である。
俊章は奇行悪癖がおおく、なおかつ癇癪もちであった為、高弟たちもみてみぬふり、あたらずさわらずの姿勢を貫き通している。
「父は・・・」
隻眼を主へと向ける。
長い間失われていた、否、逃避することで心の奥底に封じ込めていた記憶・・・。
主の左腰の「千子」によって、突きつけられた悪しき現実・・・。
「居並ぶ高弟たちのまえで、おれを凌辱したのです・・・」
視線のさきで、主が微かに息を呑んだのを感じる。
主がそういうことを、なにより嫌っていることをよく知っている。
ある程度、予測はしていたであろう。
それでも、いまそれをきかされた主は、あきらかに怒りを、憎悪を抱いた。
そのときの記憶は抜け落ちており、気がつけばみずからの心の臓に刃を突き刺していた。だが、即死できなかった。死にきれず、苦しむ自身の頸を討ってやろうと、疋田忠景が介錯しようとしてくれたが、躊躇が頸を落とすまではかなわなかった。さらなる苦痛がくわわっただけだ。
柳生邸の別棟で、それはおこなわれた。
疋田忠景は、瀕死のわたしを別棟の床下に押し込み、そこに火を放つことでわたしを救おうとしたのだ。
心の臓と頸からの失血、体躯を焼く炎。
これらは、わたしの生命を奪った。このとき、わたしは死んだのだ。たしかに・・・。
人間としては・・・。
そして、それが台頭した・・・。
「柳生俊章が死んでくれていてよかった・・・」
主が呟いた。
主の憎悪に滾る双眸。
自身の出生については、このまま墓場にもっていくべきだ。
俊章は、母が神の子を産む巫女であることは知っていた。
はたして、すでに神の子を身籠っていたことを、俊章より前に祖神降臨の種子が母に仕込まれていたことを、知っていたのか?
ああ、そうか。
何かの機会にそれを知ってしまったからこそ、俊章もまた殺された。
護り神の剣によって・・・。
そして、疋田忠景もまた殺された。
こちらは、間接的に江戸柳生に殺されるよう護り神が画策したのだ。
これらすべてがわたしの為。
わたしの誠の父が誰であるか、この日の本を、統べる神がだれであるかを隠す為に・・・。
主が知る必要はない。
もっとも、何人が知ろうと、ときすでに遅し。
すべてが絶えた後ならば、騒ぎ立てたところで絵空事にすぎぬ。
それでも、護り神は自らの使命を果たすだろう。
なぜなら、それが長い間、わたしたちの間で交わされてきた約束事であり、習慣なのだから。
だが、護り神は、真実を知った義理の弟を、わたしが力と生命を分け与えた人間を消すだろうか?
そんなことは、許されぬ。
主だけではない。
これ以上、何人たりとも、わたしの所為で死なせるわけにはいかぬ。
護り神自身の精神を傷つけぬためにも。
そう、護り神もまた、人間を殺めるたびにその精神を苛んでいる。
心やさしき厳蕃叔父・・・。
兄神・・・。
刹那、古の記憶が脳裏の片隅でちらついた。
白き虎・・・。
同じ四柱の一神、猛々しき神獣・・・。
いったい、わたしはどれだけの業をつづけるのか?
わたしは、なんなのか?
いったい、どういう理由で創りだされたのか?
「父です・・・。おれの父です・・・」
「やめろっ!父親は、実の息子の人生を奪うようなことはせぬ。息子の母親を奪うようなことはせぬ。そして、実の子の尊厳を奪い、凌辱したりしやせん」
土方は、声を荒げた。
立ち上がり、左右の拳を握り締める。
その下で、少年は力なく応じた。
「それでも、おれの父親なのです・・・おれが人間でなかったばかりに、父は・・・」
人間として生まれてさえいたら、父は子として名を呼んでくれただろうか?
「貴様に戒名をくれてやろう」
父はいった。
「俊厳だ。江戸と尾張を混ぜた血は、 やはり悪しき妖しか生まなんだ・・・」
江戸柳生の当主が代々受け継ぐ「俊」の一文字と、尾張柳生の「厳」の一文字・・・。
失敗作にはふさわしいということ。
俊章は、このときにはまだ気がついていなかったのだろう。
だとすれば、父の所業は、主のいうとおり本来の父としてのそれではない。
隻眼が金色の瞳だったが為に・・・。
生まれてきた赤子が、父を狂気させた。
わたしの所為だ。すべて、わたしの所為・・・。
「もうやめてくれ。すまぬ、坊・・・」
横たわる誠に小さな体躯を、精一杯やさしく抱きしめ、幾何度も詫びる。
自身がやらせてきたことは、俊章と大差ない。
そのほとんどが、普通の人間がすることではなく、ましてや童にとっては無縁でさえある。
それを平気でさせてきた。当然のごとく。
そして、それが両者を結びつける絆であるとさえ思っていた。
「自身を責めるな。責められるべきは、おれたちだ・・・」
刈り揃えるべき者がおらず、伸びてきた頭髪に相貌を埋め、泣いた。
不憫でならない。
その胸の中で、こいつが詫びてくる。
おれに、悲しい思いをさせたことを・・・。
「あなたを責める?江戸からどうやって逃れたのかもわからず、この将来どうすればいいのか、生きればいいのか死ねばいいのかもわからず、無為のおれはあなたに救われた」
自身の胸元で呟く。
こめかみが、いつもとおなじように痛む。
思いだしそうで、思いだせぬ。
「なにゆえ、おれの記憶を封じている?いまさら、隠すようなことか?おまえのすべてを、その生命をかけさせ、結果的には奪わねばならぬことを、おれがどんなことをしたっていうのか?」
「あなたはおれを、おれを救い、そして与えてくれた。あなたがおれに与えてくれた様々なことが、すべてです。おれにとって、それ以上でも以下でもない。たとえこの身がばらばらになろうとも、あなたがしてくれたことにかえられない。おれは、あなたが与えてくれたことにたいして、すこしでも役に立ちたかった。あなたの刃として、あなたを護りたかっただけです。それがすべてです」
一息ついてからつづける。
「そして、近藤さんとあなたがかわした約束の手助けをしたかった。近藤さんの夢を、それをかなえたいというあなたの望みを、おれは、おれはなんとしてでも実現させたかった・・・」
しがみつき、その軍服の上着に相貌をこすりつけ、呟きつづける。
その呟きをききながら、こめかみはますます痛みを増す。
桜の木、笛の音。
そして、「武士になりたい」と瞳を輝かせ、握り拳をつくって夢を語るかっちゃん・・・。
たしかに、あのとき、もう一人いた・・・。
「おれの一方的な想いが、あなたに負担をかけたことを謝罪します。おれは、一振りの刃にすぎませぬ。あなたには、つかい捨ての刃としてあつかっていただきたかった・・・。ですが、あなたは情が深く、やさしい方・・・」
「まだそんなこと、いってやがるのか?」
こめかみの痛みに負けず、叱咤する。
こいつは、甥だ。最初っから。
そして、いまや誠の・・・。
甥に仕立て上げたのは、偶然でもなんでもない。
「いつもいってるだろうが。自身を卑下するな。おれに謝るな。おまえは、おれの甥だ。それ以上でも以下でもねぇ」
こいつの言を真似る。
伸びきった髪。源さんは、いつもこいつとおれとの関係を心配してくれていた。
ちいさな体躯にまわす腕に力がこもってしまう。
体躯の傷にはさわるだろうが、精神の傷をわずかでも癒してやりたい。
こいつは、甥なのだから。血の繋がりや姻戚関係などではない。
こいつは、こいつはおれの・・・。
「ここには、おれとおまえだけだ。おれたちが怒鳴りあおうが泣き叫ぼうが、だれも邪魔しやしねぇ・・・。傷はどうだ?」
一旦、寝台からはなれようとするも、胸元にしがみついたたままはなそうとせぬ。
仕方なく、そのまま軍靴を脱ぎ捨て、「千子」を鞘ごと腰から抜き取って椅子の上に置く。寝台に上がり、あらためて小さな体躯を抱いてやる。
「今宵だけは・・・」
こいつが呟く。
その声音はちいさく、幼くはかなげだ。
おれの心身がはなれてゆかぬよう、必死に繋ぎとめようとしてやがる。
島田のいうとおり、こいつの精神は、ある意味ではさらに幼いときのままで止まっている。
否、そもそも成長しようにも、できずにいる。
「ああ、今宵だけは・・・」
こいつの髪に相貌を埋め、こいつの望みを了承する。
安心したのか、体躯からわずかに力が抜けた。それでも、長年の習性は、いついかなる状況や状態であっても、すべての感覚をこちらに向けさせることはできぬであろう。
寝室のちいさな窓の向こうで、わずかに欠けた月が白く輝いている。
こいつの育ての親である狼神と、兄弟たちであろうか。
あるいは、ほかの狼たちか。
かすかに遠吠えがきこえてくる。
やけにせつなく悲しげだ。
狼たちも、こいつのことをわかっていやがる。
こいつが、この世からいなくなっちまうってことを・・・。




